人面虫現る
その生き物が最初に現れたのは、5月のはじめのことだった。
「母さん、どうしたのその頭?」
「ああ、気づいた?いつもよりワントーン明るい色に染めたのよ」
「いや、そうじゃなくて…」
「あんたがそんなことに気づくなんて珍しいね。日南ならともかく」
「そうじゃなくてさ、姉ちゃんじゃなくても突っ込まずにはいられないと思うよ。その、頭の上にいる虫みたいなの……」
おれは母さんの頭に肘をついて寝そべっているおかしなぬいぐるみを指さした。それは、手足が6本あり、背中にハエみたいな羽があり、額の上から角みたいな触覚みたいなものが2本生えていて、人間みたいにリアルな顔を持っていた。一言でいうととってもキモかった。
「やだ、早くとってよ!どこどこ?」
「そんな探し回らなくても、でっかいのが乗ってるじゃん」
「母さんが虫ダメなの知ってるでしょ!あんたが取りなさい!!」
いい歳して子どもっぽいこという母さんの頭から手で振り払おうとすると、びっくりなことにそれはササッと後頭部に回って避けた。なにこれ、動くの?
「ねえ、取れた?」
虫が移動したことに母さんが気づいていないのはもっと驚きだった。前髪をつるつるなでて確かめている。
「ちょっと待って、後ろに…あ、今度はてっぺんに……」
「早くして!!」
つかもうとするたび、虫はちょこまかと逃げ回った。
「うわ、母さんここらへん染め残しが……」
「なんですって!?……あんたさっきからふざけてんでしょ?なんかおかしいと思ったわ。親をからかうもんじゃありません!」
母さんはぷりぷりと怒って、へんてこな虫を乗せたまま台所に行ってしまった。奴は最後にちらっとこっちを見て、ほくそえんだ。あんな気持ち悪いもんと一緒で平気なんて、母さんもいよいよぶりっ子を卒業するところなのかもしれない。
リビングのソファーに寝転がってテレビを見ていると、学校帰りの姉ちゃんが「ちょーのど渇いたー」とテレビの前を横切った。おれが体を起こさないまま「おかえりー」といったのを軽く無視して、姉ちゃんは冷凍庫からアイスを取り出してケツで閉め、「だるーい」とテレビの前に立ちはだかる。
「だるいなら座ればいいんじゃないですかー?」
「あんたがソファーを独占してるから座れないんですー」
「テーブルの椅子使えばいいじゃん」
「うるさいわね、受験生の姉ちゃんはあんたと違って大変なのよ。ちょっとは労わって場所をゆずりなさい!」
「へいへい」
最近なにかとこれだ。受験生だから気遣え、お茶入れろ、プリン寄こせ云々。今は中二で気楽な身分のはずなのに、姉ちゃんのおかげで少なからず損してる。来年はとことんお返ししてやらないと。
「あーよっこいしょ」
半分ゆずったスペースに姉ちゃんがどっかり腰を下ろす。さぞババくさい顔してんだろなーと思って見たら、もっと別のものが目に飛び込んできた。
「それ、その頭…どうしたの?」
「ああこれ?友だちがくれたの。かわいいでしょう?」
「いや、ヘアピンの話じゃなくてさ…」
おれがいいたかったのは、姉ちゃんの頭であぐらをかいている妙ちくりんな虫のことだった。さっき母さんが乗っけてたやつはハエっぽかったけど、こっちはバッタのように見える。顔に関してはもっと面長で眉が濃かった。さっきのがしょうゆ顔なら、こっちはソース顔かな。……んなことどうでもいいか。
「母さんも似たようなのつけてたけど、それ流行ってんの?おれはどうかと思うなー」
近頃はよくわからないものが流行ったりするけどさ。
「うっそー母さんとおそろい?地味にショックだなー。」
姉ちゃんが星型のヘアピンを取ろうとして床に落っことす。それを拾おうとかがんでいるあいだも、人面バッタは髪の毛にがっしりしがみついて離れない。
「気分台無し! もう部屋ひっこむわ。これ、あんたにあげる」
そういってヘアピンをソファーに置き去り、アイスをくわえて出て行った。人面バッタも当たり前のように頭に乗ってたけど、姉ちゃんは気にする様子もない。
「いやー、あれはないわ。ないないててっ」
もう一度ソファーに横になったら、太ももにピンがささって痛い思いをした。
それから数日が経っても、母さんと姉ちゃんは頭に人面虫を乗っけたままだった。食べる時も寝る時も。家の中ならまだいい。あのままスーパーや学校に出かけちゃうんだから、こっちが恥ずかしくなる。友だちからもそのうちいじられるんじゃないかと、びくびくしていた。けど、違った。
「よう狭山。今朝は早いな」
「おは……どうしたんだよその頭…」
「どうって、いつもどおり寝癖直しのワックス使ってっけど?」
「そんなん使う前と大して変わんないだろ?そうじゃなくてさ、その、頭の……」
浩紀の逆立った固い髪の上に、人面トンボが乗っていた。こいつのは頬骨が出っ張っていて、歯並びがよかった……そんなことは問題じゃない。急に不安になって周辺の廊下を見回した。
下駄箱の近くに女子が数人たまっている。頭には虫。
なぜか窓から靴を持って入ってきた男子の頭に、虫。
「おはよう」と明るく声をかける先生の頭に、虫。
「おかしいのはおれの方かな?」
「そうだな。行こうぜ」
それからは、教室に行っても、職員室に行っても、放課後道を歩いていても、気味悪い虫を頭に乗せた人たちだらけだった。走って家に帰ったけど、待ってるのはやっぱりおかしな頭の母さんと姉ちゃん。
「みんなどうしたって言うんだよ!おれにも説明してくれ!」
そう言ってみてもふたりともぽかんとするだけだった。
* * *
夜遅く、仕事から帰ってきてひとりで夕飯を食べている父さんの向かいに座った。
「父さん、話があるんだ」
「そうか、お前もそんな年になったか」
父さんはなにか勘違いをした。
「最近の母さんと姉ちゃん、おかしいと思わない?」
「そっちか。ついに父さんも愛想つかされてしまったなあ。虹治は父さんと母さんどっちについて来てくれるんだ?」
「違うって! 頭に変な虫乗っけてるじゃん! なんか人間みたいな顔してる、虫にしちゃでっかいやつ。あれ、どう考えても悪趣味だろ?父さんからもなんか言ってやってよ!」
父さんは箸でつまんでいたご飯をぽとっととテーブルに落とした。
「虹治、あれが見えるのか?」
「当たり前じゃんあんな目立つもの。けどあれが何なのか、誰にきいてもはぐらかされて教えてくれないんだ」
「ちょっと来なさい」
「え、飯途中じゃん」
「まあいいから」
父さんは重い足取りで自分の部屋へ向かった。そしてずっと開けてなさそうな押入れの上の段から、古い段ボールを取り出した。
「これには、狭山家に代々伝わる家訓とか、まあそんなものが書かれた書物が入っている」
「そんなの初めて聞いたんだけど」
「うん、時代とともになじまなくなってしまったからな」
父さんはホコリだらけの巻物に息を吹きかけ、くるくると紐解いた。
「読んでみろ」
そういわれても達筆すぎて読めない。
「仕方ないな。俺が要約して話すからよく聞けよ」
父さんは巻物から視線をそらし、宙を仰いだ。どうやらこの字は父さんでも歯が立たないらしい。
「むかし、狭山家の六佐という男が虫を殺すのを趣味にしていた。相当日頃のストレスがたまっていたんだろうな。ハエとかアリとかキリギリスとか、容赦なく足でつぶしたり棒ではたいたりした。
とくに人様に迷惑がかかるわけでもなかったけれど、周りの人はその趣味を気味悪がって、『そんなことしてなにが楽しいんだね?』と尋ねた。すると六佐は『いけ好かねえ奴の顔思い浮かべながら殺すとスッとするのさ。虫は殺してもなんでか罪悪感がわかねえ。人の顔でもついてたらちっとは遠慮するかもしれねえけどな』と答えた。
それからというもの、狭山家に近しい人から順に、正気を失っていった。ものを言わなくなり、一切の感情を出さなくなった。まるで人間らしい振る舞いを忘れてしまったようにな。そういう人の頭には決まって人間みたいな顔をした大きな虫が乗っていたというんだが、見たっていうのが正気を保っていた少数の狭山家の人間ばかりなもんで、しまいにゃ一家に虫の呪いがかかったんだってことになった。
以来、この話は代々語り継がれてきた」
父さんは昔から絵本の読み聞かせが上手かった。けど話の筋を適当にアレンジするからいつも内容が違った。きっとこれも作り話に違いない。
「言い伝えによれば、六佐が虫を殺すたびに人面の虫が現れたそうだ。しかも、それは人間を小馬鹿にしたように頭の上に乗ったまま離れない。虫が見える狭山家の人間は、何とかしてやつらを駆除しようと奮闘した。そして、見つけた方法がこれだ」
父さんは巻物の隣にあった縦長の箱を出してふたをとった。中には、銀色に輝く、研ぎ澄まされたボディの……ハエ叩きが入っていた。
「父さん、面白いお話だけど、もうおれちっちゃい子どもじゃないんだからさ」
「そうだ、中二は立派な子どもだとも! 妄想力にかけてはちっちゃな子どもにも勝る!」
「そういう意味じゃないし」
「やつらは素早いが、何か面白いことを言った時だけ腹を抱えて笑って油断する。そこをバチンっとはたくんだ。そうすると落ちて消える」
「なんで笑うの? なんで消えるの?」
「笑いは世界を救うからだ」
もう意味が分からない。
父さんは銀の蠅叩きを手渡して、おれの手を熱く握った。
「虹治、世界を救え。」
「父さん……おれひとりじゃできないよ」
「大丈夫、そのうちきっと協力者が現れるだろう。」
「え、手伝ってくれないの?」
「実は、父さん明日から海外へ出張なんだ」
父さんは右手の箸を固くにぎりしめた。
「その前に母さんの手料理いっぱい食べておかないとだから!!」
誰か親父を止めてくれ。