御伽噺のその奥に
昔、昔、あるところに小さな村がありました。四方を山に囲まれた村でした。村人たちは慎ましやかではありますが、幸せに暮らしていました。
そんなある日、山に人を喰らう妖が住むようになりました。村人だけでなく、その山を通る旅人や商人までもが妖の餌食となりました。このままではいずれ皆喰われてしまうでしょう。そう考えた村人たちは恐怖に包まれました。
そんな時、一人の若者が現れました。小さな村での暮らしに嫌気がさし、数年前に村を飛び出した若者でした。彼は村の現状に疑問を抱き、いなくなった者たちのことを尋ねました。返ってきた答えに若者は憤り、妖退治に赴くことを決意しました。
村人たちの制止も聞かず、若者は妖の住む山に入りました。彼が幼い頃に遊んだ山でした。その事実が彼の怒りを煽りました。
若者は山を歩き回り、妖の痕跡を探しましたが、中々見付けることができません。彼が焦れば焦るほど、妖の姿が遠退いていくようでした。
疲労も限界に近付き、日を改めようかと考えた時、彼は一つの足跡を見付けました。それは人間のものに酷似していましたが、大きさは彼の倍ほどもありました。
これは妖の痕跡に違いない! そう確信した若者は、足跡を追っていきました。足跡は山の奥へと続いているようで、辺りは段々と薄暗くなっていきましたが、若者の歩みは止まりません。
どれほど歩いた時でしょうか。若者は不意に拓けた場所へ辿り着きました。暖かな日差しが降り注ぐその場所は平穏そのもので、若者は目的も忘れ、呆けてしまいました。
広場のようなその場所の中央には巨大な樹が生えており、その根元には誰かが座っているようでした。どうやらぼんやりと虚空を眺めているようです。若者はその人物に声をかけようとし、見た目の異様さに息を飲みました。
その人物は腰まである真っ赤な髪を持っていました。大人二人がゆうに並べそうな肩幅に、がっちりとした胸板。丸太のように太い腕は、若者を軽々と投げることができそうです。座っているというのに、頭の位置が彼の肩ほどまであります。全てが普通の人の倍、と言っても過言ではないでしょう。
若者はこの人物が足跡の持ち主――すなわち妖であると理解しました。彼は怒りで顔を赤く染めながら、背後の矢筒より矢を一本取り出し、弓につがえました。
『卑しき人食いの妖め! 貴様の罪、今こそ裁いてくれようぞ!』
妖はやっと若者の存在に気が付いたようで、真っ赤な瞳を虚空から若者に移しました。
『罪、罪、罪……。贖いを求めたところで、増えるのは罪ばかり。救われたいと、解放されたいと望み、足掻いても得られるのは別の何か。あぁ、難儀なことよ。本に悲しきことよ。正しき道などどこにもないというのに、それでも希望を抱かずにはいられない。人も獣も妖も、皆同じだ。どうしようもなく愚かで虚しい生き物だ。主はそう思わぬか?』
妖はゆったりとした口調でそう言いました。自身に向けられた矢も、怒りに身を震わせる若者も、彼の瞳には映っていないようでした。その姿に若者は少し怯みましたが、すぐに気を取り直し、また叫びました。
『戯れ言ばかりを述べおって! 我は惑わされぬぞ!』
『あぁ、あぁ。儂は間違っているのだろうか。それとも主が間違っているのだろうか。儂には分からぬ』
『間違い、だと? 人を喰らう妖のどこに正しきものが在るというのだ!』
若者の言葉に、妖はとても悲しそうな、そしてどこか辛そうな顔をしました。
『…………のう、人の子よ。主らは獣を屠り、喰ろうて生きておる。獣は人や他の獣を喰ろうて生きておる。そこには善悪などなく、喰う方にも喰われる方にも罪などない』
『何を』
『主が獣を喰らうやもしれぬ。獣が主を喰らうやもしれぬ。どちらも当然のことだ。どの生き物も逃れえぬことだ』
『…………何が言いたい』
『だというならば、儂が獣を喰らうように人を喰らうのは、罪にならぬのではないのか』
静かに紡がれた言葉は、若者にとっては、ただの言い訳にしか聞こえないようなものでした。
『妖風情が、何をよ迷い事を! 貴様の行いが、我らにどれほどの痛みと悲しみをもたらしたか知っているのか!』
『ならば問おう。主は子を、親を奪われた獣の痛みを知っておるのか? 一度でも考えたことがあるのか?』
『な……っ!』
妖の言葉に、若者は今度こそ絶句しました。彼の手から力が抜け、矢が妖から逸らされます。妖は若者の隙を突くことなく言葉を続けました。
『同じなのだ。主も、儂も。奪われる痛みを知りながら、奪うことを止めぬ。儂も獣に妻を喰われた。儂は其奴を恨み、初めて私怨から他の生き物を殺した。その時からだ、儂の罪が増えていったのは。失う悲しみを知りながらも、喰らうことを止められぬ。贖う術を尋ねた相手は皆、儂を殺しに来る。死なぬために喰らい、罪を重ねてまた尋ねる。堂々巡りだ。儂はどうすればいい? のう、人の子よ。他者を救う術を編み出した主らならば知っておろう。儂はどうすればいいのだ』
頭を抱えて咽び泣く妖に、若者は何も言えませんでした。彼は人を救う術など知りません。嘆き苦しむ妖を救う手立てなど、もってのほかです。
彼は悩みました。妖の言葉は、彼の心に波紋を立て、妖を殺すことを躊躇わせたのです。この妖はそこまで悪い奴ではないのでは、などと考えもしました。その時、彼の脳裏に喰われた村の人々の顔が浮かびました。彼を見送った人々の顔も浮かびました。
この妖はあまり悪い奴ではないでしょうが、ここで妖を見過ごせば、また誰かが喰われてしまいます。それは避けなければなりません。
若者は、いつの間にか下ろしていた弓を構え直し、弦を引き絞りました。妖の泣き声が止みます。
『…………そうか。主も儂を殺そうとするのか。やはり儂は生きていてはならぬか』
妖の声は静かなものでした。妖は涙を拭い、若者を見つめます。目にも顔にも表情はありません。喰われると思った若者は身構え、妖の心臓に狙いを定めます。弦は引き絞られ、今にも矢が放たれそうです。
妖は動きません。何を考えているのか分からない顔で、若者を眺めています。
若者も動きません。妖がいつ動いてもいいように、妖の全身に意識を向けています。
その状態のまま、沈黙が過ぎました。長いのか短いのか、どちらにも分かりませんでした。
固まった時を動かしたのは妖でした。一瞬で若者との距離を縮めました。屈強な腕が振り上げられます。けれど、若者も遅れをとりませんでした。彼は妖の動きに少し驚きましたが、瞬時に矢を放ちました。矢は弾かれることなく、妖の心臓に突き刺さりました。妖の腕から力が抜け、若者よりも大きな体は後ろへと倒れ込みました。
『…………何故』
そう呟いたのは若者でした。彼は弓を取り落としたことにも気付かずに、愕然と妖を眺めます。その変わり様がおかしいのか、妖は軽く笑いました。その拍子に口の端から血が零れました。
『これし、かない、からだ』
妖は息も絶え絶えになりながら、それでも何かを伝えようと言の葉を紡いでいきます。
『あがなえ、ないとい、うのなら、せめて、これ以上は……っ。つみ、をかさねぬよう……』
妖はそれだけ言うと事切れました。その顔はとても穏やかで、全てから解放されたような表情をしていました。
その日以来、妖に喰われる人はいなくなりました。若者は勇者として称えられました。村人たちは再び平穏な生活を過ごせるようになりました。
* * *
「めでたし、めでたし…………ってね」
かつて妖と若者が対峙したであろう場所に、一人の青年が座っていました。真っ赤な髪と瞳を持った、普通よりも一回りほど大きな青年でした。
「これが本当のお話。君たちに伝わってるのは最初と最後ぐらいかな。妖の痛々しい思いも、若者の葛藤も無かったことにされたからね」
青年は目の前にいる誰かに向かって話しているようでしたが、返事はありませんでした。
「僕がこれを聞いたのは父さんからなんだ。父さんは爺さんから、爺さんは曾爺さんから。そうやって代々語り継いできたんだよ」
青年は自分の爪を弄びながら語りました。彼の爪は刃物のように鋭く、所々に紅い斑点がついています。
「この話を伝えるって決めたのは、退治された妖の息子だったみたいだね。彼は人と妖の間に生まれたにも関わらず、妖の血しか受け継がなかったみたい。父さんも爺さんもそうだったから、どうやら僕らの血は薄まることがないらしいね」
青年はそう言うと、膝に乗せていた布の塊を撫でました。とても優しい手つきでした。
「こうすることを決めたのは誰だったかな。この話を作った人じゃないはずだけど……。というより、これじゃあ意味がないよね。この話の目的は、生きるため以外に生き物を殺すなって伝えることなんだからさ。あぁでも、僕みたいなのが在る時点で、ある程度歪んでしまうのは当然なのかもしれないなぁ」
青年は塊を撫でているうちに何かを思いついたのか、両手を打ち合わせました。軽い音が辺りに響きます。
「そういえば、まだ話してないことがあったね。この話の若者のその後。折角だから聞いてもらおうかな」
青年は楽しげに笑い、昔話の続きを口にしました。
「“妖を殺してしまった若者は罪悪感に苛まれました。自分を勇者だと称える人たちから逃げ、妖のいた山から逃げ、自分が生まれた村から逃げても、罪悪感は彼につきまといました。生きるために魚や獣を殺す度に、罪悪感は膨らんでいきました。そこでやっと、若者は妖と自分に違いなどないことに気付きました。妖も人と同じ感覚を持っていたのだと認めました。その瞬間、若者は矢で己の喉元を突き刺し、死んでしまいました。その顔は、妖と同じように安らかだったそうです”……。くっ、くくくっ、あはははははははっ! 傑作だ! 実に滑稽だ! はははははは!」
青年の笑い声が辺りを震わせました。心から楽しんでいるというのに、彼の目は笑っていません。高らかな笑い声に反応したのか、彼の膝上に乗った塊が揺れました。笑い声がぴたりと止みます。
「あぁ、ごめん。起こしてしまったね」
青年は塊をそっと抱き上げ、かけられた布を掻き分けます。中には、彼と同じ髪色の赤ん坊が入っていました。その姿を見た途端、青年は柔らかな笑みを浮かべました。先程と違い、本当に心からの笑顔でした。
「おはよう」
青年が赤ん坊の髪を撫でると、赤ん坊はくすぐったそうに身動ぎました。それが楽しいのか、彼は目を細めました。何度か同じことを繰り返して満足したのか、彼は赤ん坊を抱き直し、目の前の誰かに語りかけました。
「こんなにも可愛らしい赤ん坊を産んでくれてありがとう。感謝してる。君は妻として役立ずだったけど、それだけはよくやったと誉めてあげてもいい。この子は君が望んだ通り、立派な人喰いにしてあげるから、安心して眠ってよ」
青年はそう言って、またも笑い出しました。冷たい笑い声は辺りに木霊し、彼の目の前に横たわる無惨な女の死体へと吸い込まれていきました。