一高生②~弁護士の書生
辣腕な弁護士とその書生らの全智全霊は最たる手腕をなし法解釈の是正で冤罪を覆し勝訴をもぎ取る。
辣腕たる弁護士事務所の祝いは宴酣となった。
弁護を生業とする者に勝訴にまさる至福感はない。
最高の気分で初老の所長は酒に酔いひと安心をした。
罪人をつくることは法律家として本意にあらずである。
所長は法律事務所の書生ら所員の酒の席を巡り出した。勝訴の余韻をわかち合い明日の訴訟に対する活力を見いだしてやりたいのである。
うん?
盛り上がる宴会の席。
久しぶりにのんびりとハメを外す所員の傍らにちょこんと座る幼い顔があった。
凛々しくも賢い男の子の顔がそこにある。
旅館の孫を見てハタッと気がつく。
そうだった!
そうだった。
この旅館は賢い中学の男の子がいたんだ。
「このお子さんは進学を躊躇っていたんだな。このままでは中学を終えて社会に出てしまう」
所長はほろ酔い加減で腕を組む。
「うーん私の出る幕ではないか」
他人の進学にとやかく口を挟む筋合いはない。
二の足を踏む
私とは無関係な。
「いや無関係とは言い切れやしない。優秀な男の子をこのまま片田舎に埋没させてしまったらもったいないことだ」
優秀な男の子の存在を知っては東京に帰ることはできない。
男の子を埋没させては日本の国の偉大な損失にもなりかねない。
ここは人生の経験者たる私がひと肌脱いで男の子の孫の一助をしてやるか。
お孫さんの中学は我が母校。
おおっ気が付かなかった!
私はお孫さんの先輩になるのか。
所長は宴会に盛り上がる所員をよそ目に孫に近づく。
「君っちょっと来たまえ。君に折り入って話がある。おじいさんもおばあさんにも話がしたい」
宴会の手透きに私の部屋に来て欲しい。
盛り上がりの宴会で孫に話し掛けた。
男の子はギラギラとした眼孔で辣腕弁護士を睨み付けた。
孫は野性の猛獣が獲物を狙うような鋭い目付きをし睨み返した。
後から部屋に来い。重要な話がある。しっかりした口調で孫に伝言を残すと所長は柔和な顔に戻っていく。独自の雰囲気をかもし出すのが辣腕さの弁護士。
あくまでも人のよい中年であったのであるが。
言われたように孫は祖父母と部屋をたずねた。
旅館の経営者にしては何か料理や宿泊に不手際か?
どんな苦情を言われるのかとビクッとしてしまう。
「実はね御孫さんのことなんだ」
祖父母は苦情は孫のことか。
「お孫さんは優秀なんだ。この浜辺界隈から中学に入ることも素晴らしいことなんだよ」
男の子は弁護士に学業を褒められるとは意外だと思った。
「お孫さん。春に中学を終えたらどうだろう。東京の第一高等学校(旧制一高)に進学してもらえないだろうか。お孫さん優秀なんだから大丈夫合格できる。高校への進学はこの私から頼みたいんだ」
孫の中学成績はトップクラス。こんな秀才を(旧制)中学の卒業程度で終えさせたくはない。
中学の成績をみたら旧制一高から帝国大学法科へと進ませたい。
"将来は私と同じく弁護士にさせたい"
孫と祖父母は目を丸くしている。
「はあっ~高等学校ですか」
話を聞くだけである。
弁の達者なもので弁護士は切々と孫の高校進学を勧める。
話を聞いている孫は憧れの高校進学は夢の気分でいた。
老夫婦は話をポカンと聞くのみである。二人は無学である。
帝国大学だ弁護士だと絵空ごとを並べたてられてもピンとこない。
老夫婦は学業たるや無縁なる世界。
三度の食事を作る旅館に馴染みのない学歴の話である。
「簡単に言えばあなた方の御孫さんは私に弁護士見習いの書生として預からせてくれないか」
東京で書生でいたら高等学校と大学に充分に通えるし学費の援助も吝かでない。
老夫婦と孫は黙っていた。
"弁護士が孫の後見人となって高校-帝大と面倒をみてくれる"
"生活費も学費も一切を面倒みてくれる。期せずして"あしながおじさん"が現れた"
「君は中学4年だったね。夏休みから受験勉強を始めたらどうだろうかな。君の実力なら一高は受かる。一中在学では僕より成績がいいんだから」
弁護士の受験競争を思い出す。
一中から一高に進学した際に二中や三中の連中と合格者の優劣を競い合ったことを思い出す。
一高在学中は出身の中学対抗でライバル意識丸出しで学業にスポーツに熱中したことも懐かしく思い出された。
「かわいい後輩に一高を狙ってもらいたいのが本音だけどな」
老夫婦には旅館の顧問弁護士(無償)となろうと提案をする。
「旅館もこれからは業務拡大をしていくべきですよ。あんなうまい料理を出して。たくさんの観光客や泊客に楽しみを与えるべきだ」
老夫婦は高校とは大学とはっ理解できない。
老夫婦は互いに顔を見合わせるのみである。だが崇高な弁護士の先生の仰ることである。
孫の人生に間違いはないとその場で承諾する。
「先生よろしくお願い致します。孫はワシらの自慢です。賢いことは小さな時からわかっております」
横で話を聞いた孫。
弁護士の話す高等学校と帝国大学は中学の寮でいつも夢に見ていた。
「先生ありがとうございます」
深々と畳に擦り付けるほど頭を下げた。あまりに嬉しかったのだろうか涙がポツリと溢れ落ちる。
「よし話は決まりましたなあ。じゃあ私はまた宴会に戻っていくよ。早く戻っていかないと料理がなくなってしまうアッハハ」
「夏休みは基礎知識を溜め込めたまえ。英語や代数は穴のないようにしたまえ。確実に知識を埋めていくんだ」
辣腕弁護士は家庭教師も兼務となる。
辣腕弁護士の事務所。
そこにいる弁護士(書生)は帝大を終えた若者ばかりである。
右を向けば弁護士
左を向けば帝国大学出身
期せずして家庭教師となった。
素晴らしい環境の中で新しい中学の書生は一高受験勉強に勤しむことになる。
夏休みはみっちりと東京で受験勉強して過ごす。
秋から寮に戻る。
夏休みに基礎固めを済まして新春の高校入試まで秋から冬と受験一直線という勢いであった。
若い書生らも孫の賢さに一目置かれる。
「あいつは頭のできが違う。なんと言うかな。思考過程が万人とは異なるんだ」
司法試験を目指す書生からも賢いぞと褒められた。
世に言う秀才タイプである。
年が明けると新春の入試を迎える。一中A組とB組から高等学校受験生が集まる。
「まず合格は間違いないだろう」
当時の日本は旧制高等学校が一高~八高とあり秀才たちは全国に散らばることになる。
孫は辣腕弁護士の指示通りに東京の第一高等学校(一高)を受験する。
東京の弁護士事務所。最後の追い込みに余念のない受験生となる。
「いよいよ入試だな。願書は一高(東京)に出したんだな。二高(仙台)や四高(金沢)なんて志願するなよ」
東京にある旧制第一高等学校。
それこそ日本にある旧制中学の秀才が入学の許しを得るため切磋琢磨して受験をしてくる。
書生(孫)は入試直前に弱音を弁護士に吐く。
「先生。一高はレベルが高いです」
成績優秀な一高受験生は試験の直前に弱気である。
受験する学力は問題のないところである。勉強を教えた書生たちが口を揃えて太鼓判を押していたくらいだ。
だから受験当日にとんでもないミスをしでかさない限り合格ラインに到達する答案を書ける。
一中の成績は4年首席である受験生。
辣腕弁護士は中学の後輩に勇気づける。
「何事にも言えることだが弱気はいけない。弁護の公判でもそうだがハッタリでも何でも自信満々な顔をしていないとな」
どうせ座る椅子は決まっているんだ。じたばたしなさんなっ。
「自信を持って一高入試に挑むべきだ。君は賢いんだから大丈夫。私の後輩だから受かるさ。一高ぐらいトップで受かるさ」
深夜に受験勉強をする書生の頭を優しく撫でた。
入試当日弁護士が保護者として一高までついていく。
辣腕弁護士には子供がいなかった。片田舎の旅館から孫を書生として連れてきた段階で"息子"ができたようなものである。
辣腕弁護士の奥さんも孫の身の世話して息子の誕生に喜びを感じていた。
朝、弁護士の自宅から一高に向かう途中である。
「私も一高受験する時は不安に襲われたよ。中学の成績が成績(中の上ぐらい)だったしな」
だがなるようにしかならない。
「一高の入試の前でジタバタするも落ち着き払うも受験生。ならば落ち着くんだな。どうせ受かるんだからと落ち着くんだ」
"息子"と一高の校門の前でしっかりと握手をした。
父親というものはこんな気持ちだろうかと入試に送り出す。
「しっかり答案を書いてきたまえ。我が一中の後輩よ。幸運を祈る」
握手をした弁護士の手は温かく力強かった。書生はその温もりを忘れずに一高の入試に向かった。
寒い風がピューと校庭に吹いて一高の入学試験は始まる。
一中のA組B組の秀才は顔を答案につけんばかりに解答に向かう。
熱心に鉛筆を運び問題を解く。
試験は3日間に及び受験生は精も魂も使い果たす。
キィンコン
カーンコーン
試験終了の鐘が鳴る。
一中の生徒は鉛筆を置くとフゥ~とため息をついた。
受験会場で互いに出来たかどうか気になるところだ。
「よし試験は出来た。代数の引っ掛けも見抜けた。心配をする先生に報告をしよう。まずは大丈夫だと」
筆箱を片付け風呂敷に詰める。受験のためにともに戦った同志である。
校門を出るとライバルである一中の生徒たちは肩を並べて一緒に帰る。
一高生になれば仲良くやっていかなくてはならない仲間である。
お互いに出来を聞いた。その一中の生徒が書生に尋ねた。
"噂で聞いたけど"
「オマエは一高に合格したら弁護士事務所の書生になるんだってな」
あの弁護士さんは一中の先輩なんだってな。
「書生としてお世話になるのか。一高のあとは綺麗に決まった人生が待っているんだな」
一高を合格して帝国大学法科に進学。
弁護士への道が拓かれていると羨ましく思える。
一中の同級生の中、とても裕福とは思えない身分の男が未来を約束されていた。
一中の同級生と別れて弁護士事務所に戻る。女子事務員から一高受験を労う言葉をもらう。
「中学4年で一高受験ですもの。本当に大変だわ。今までボクチャンなんて呼んでましたけど。今日からは書生の先生って呼ばないといけませんわ」
ボクチャンが出世をして弁護士事務所の晴れて書生さんと認められたのである。
出世した書生は旅館に帰省する。
浜辺が見える駅に降り立つ。いつも見慣れた風景であるがなんとなく故郷に錦を飾った気分になっていた。
旅館の玄関口に来るとお坊っちゃまと呼ばれて従業員全員がお帰りなさいと出迎えてくれた。
老夫婦はニコニコして成長をした孫を見つめた。
「お勉強は大変だったわね。今夜は腕によりをかけてご馳走するわ。久しぶりに温泉につかって体を休めてちょうだい」
老夫婦は成長した孫に目を細めた。
いっそう逞しくなった孫である。
待ちくたびれた孫を出迎えた老夫婦は嬉しさで胸がはち切れそうであった。
その夜の旅館は一高合格を祈願して従業員全員で宴会を持つ。
料理は腕の確かな板前が受け持つ。また2ヶ月ほど前に新しく雇った若い板前。
この板前は旧制中学を卒業していた。
「お帰りなさいお坊っちゃま。将来の親方さまは天下の一高にお進みになるんですね。そんな偉い方がお帰りになられたんだ。俺も腕の見せどころだぜ。そんじょそこらの板とはひと味もふた味も違うことを天下の一高生に教えてやる」
板前は腕によりをかけ料理をこさえた。
野菜類は市場で仕入れたものを使うが魚は違う。
板前は直に漁船に乗り組んだ。
「旅館の大切な跡取りが一高に進むんだ。どうしても欲しい新鮮な魚を手に入れて食べてもらいたい」
大変な気の入れようである。
自らの味を手に入れるまでひたすら走り回る。料理に欲しい食材を全て厨房に仕入れるまで妥協しない男だった。
宴会のご馳走は各々の板前の腕に任せて大広間に並べられた。
「跡取りのお坊っちゃんが大出世されたことを祝いましょう」
従業員全員が拍手で温かく迎えた。
一高の合格を祈願。
大広間に掲げられたメッセージ。この言葉を聞いて気恥ずかしい思いである。
板前は板前で料理の腕前を最大に振うことができて満足である。
「お坊っちゃんのために精一杯のお造り(刺し身)をこさえれて嬉しい」
一高なんて言ったら日本を動かす人が集まる。
「お坊っちゃんが一高とかいう偉い学校を卒業なさる頃には俺も相当に腕をあげておくよ。次に帝国大学に入られたら大いに(料理を)期待してくれ」
旧制中学卒業のインテリ板前は将来の弁護士に固く握手を求めた。
約1週間後に一高の合格通知が知らされる。
東京の弁護士事務所にも合格の知らせは届く。
辣腕弁護士は飛びあがらんばかりに喜びである。
「おめでとう。よくやった。さすが私の後輩だけのことはある」
子供のいない弁護士夫婦。
実の息子が第一高等学校に合格したような気分である。
奥さんは早速に赤飯を炊き事務所の職員全員に振る舞った。
旧制一高は現在の東京大学教養部(1~2年)に相当する。
全国にあるナンバースクール高校の卒業生の数と帝国大学の入学数はほぼ同じ。
一高に進学は全国にある帝国大学に進学と同意義である。
「先生ありがとうございます」
手元に一高の帽子と羽織袴があった。
エリートへの第一歩を踏みしめた実感がした。