第一話 知らない名前を呼んだ日
何かが壊れたのだと思った。
低い音だった。駅前の商業施設を出て、ストローの袋を剥がしていた三崎七海は、手を止めた。音のあとから大勢の声が聞こえ、それから拍手が重なった。
「何、今の」
隣を歩いていた西野結衣も、同じ方を見ていた。
屋根のある広場に、人が集まっている。いつもなら植木鉢とベンチの向こうまで見通せる場所が、今日は人の肩と背中で埋まっていた。その上に、青い柱のようなものが四本立っている。
結衣が爪先立ちになった。
「イベント?」
「そうじゃない?」
「ちょっと見ようよ」
返事を待たず、結衣は広場の方へ歩き出した。七海もストローをカップに刺し、あとを追った。
十月最初の土曜日だった。
今日の目的は、結衣の秋物の服を買うことと、新しくできた店のミルクティーを飲むこと。その両方が済んだので、あとは駅まで歩いて帰るだけだった。
結衣の紙袋には、袖口に小さなリボンのついたカーディガンが入っている。七海は同じものを試着して、買わなかった。鏡の中で袖が少し短かったのと、似合っていると言われたとき、どういう顔をすればいいかわからなかったからだ。
高校に入ってから、制服以外の服を選ぶのが難しくなった。
身長は百七十センチある。中学の頃はまだ伸びるかもしれないと期待していた母も、最近は「裾を出せるか見てみよう」と言うようになった。背が高いのはいいことだ、と何度も言われたけれど、七海には、何にいいのかまだよくわからない。
「七海、見える?」
人垣の後ろで結衣が振り返った。
こういうときには、少し役に立つ。
「四角い台がある」
「ステージ?」
「周りに、ひもみたいなのが……」
言いかけたところで、甲高い金属音が鳴った。
人の隙間から、台の上に倒れている女の人が見えた。すぐそばに、片腕を上げられている別の女の人がいる。二人とも、光る布でできた服と、膝まである靴を身につけていた。
倒れていた人がゆっくり起き上がると、近くの客が何か声をかけた。その人は顔をしかめながら、手だけを上げて応えた。
「プロレスだ」
結衣が言った。
「女の人もやるんだ」
七海が呟くと、結衣は少し考えてから答えた。
「やるんじゃない? たぶん」
二人とも、知識はその程度だった。
広場の入口に立つ旗には、虹色の細い線で囲まれた英字があった。
PRISM。
その下に、小さく「女子プロレス」と書かれている。
七海が読んでいると、首から札を下げた女性が声をかけてきた。
「よかったら、どうぞ。次が最後の試合です。観覧無料ですよ」
結衣がすぐに七海を見た。
「無料だって」
「聞こえた」
「十分くらい見ていかない?」
断る理由はなかった。
女性の案内で人垣の横を抜けると、パイプ椅子の列に二つだけ空きがあった。後ろから二列目。前の席には、膝に買い物袋を載せた年配の女性が座り、その隣で男の子が両脚を揺らしている。通路を挟んだ向こうには、首にタオルを掛けた人たちが並んでいた。
七海は座る前に、一度振り返った。後ろの人の邪魔にならないか気になったのだが、立って見ている人たちは皆、もっと高いところを見ていた。
改めて正面を見る。
リングというのは、こんなに大きいのかと思った。
青い柱の間には、太いロープが三本ずつ張られていた。床は白に近い灰色で、中央に旗と同じ文字がある。照明の代わりに屋根の隙間から午後の日が差し込み、隅の金具を光らせていた。
すぐ向こうで、パン屋の店員がトレーを補充している。焼きたてを知らせる声と、リングの上のマイクの音が、同じ広場に流れていた。
*
音楽が変わった。
軽快なドラムに合わせて、客席の一角から手拍子が起こる。
七海がそちらへ顔を向けると、幕の張られた通路から、一人の女の人が小走りに出てきた。
黄色だった。
肩から腰にかけて白い線の入った黄色のコスチュームと、同じ色の膝当て。片側で結んだ髪が、歩くたびに跳ねていた。客席へ手を振り、子どもの前では少し屈んで、差し出された手に自分の掌を合わせる。
「なつほー!」
近くの誰かが呼んだ。
女の人はそちらを向き、口を大きく開けて笑った。
「小っちゃいね」
結衣が囁いた。
七海も頷いた。リングの階段を上がる姿を見て、ようやく身体の大きさがわかった。自分よりずっと小さい。細いわけではなかった。肩にも腿にも、動くたび形を変える筋肉があった。それでも、さっきリングにいた二人より、ずいぶん若く見えた。
黄色の人はロープをくぐり、リングの中央へ走った。両手を高く上げると、手拍子が大きくなった。
七海はカップを膝に挟み、周りに合わせて何度か手を叩いた。まだ、自分が拍手をしていい相手なのか、少し迷っていた。
次の音楽は、腹に響くような低い音から始まった。
黒と紫の服を着た選手が、ゆっくり歩いてくる。髪の内側だけが明るい銀色で、目尻には長い線が引かれていた。肩に羽織った上着が歩くたびに揺れ、その背中に、白い牙のような模様が見えた。
黄色の人とは、歩く速さから違った。
客席から名前を呼ばれても、そちらを見るだけで笑わない。七海はなぜか、背筋を伸ばした。
「強そう」
結衣が言った。今度も同意するしかなかった。
黒い選手はリングに上がると、片手でロープを引き、客席を見回した。黄色の人が何か言う。聞き取れなかったが、黒い選手は追い払うように手を振った。
名前が紹介された。
黄色は、小野寺夏帆。
黒と紫は、稲城怜。
夏帆の名前が呼ばれると、先ほどの男の子が両手を口に当てて叫んだ。
「なつほ、がんばれー!」
怜が、その子を見た。
「こっちは?」
マイクを通さない声が、思ったよりよく響いた。
男の子は隣の女性の腕に半分隠れながら、首を振った。
「なつほ!」
「正直だな、おい」
怜が腰に手を当てた。客席が笑った。
七海も笑っていた。怖そうだと思ったばかりの顔が、少しだけ不満そうに口を尖らせている。それを見た夏帆が得意げに胸を張ると、怜は今度はそちらを指さした。
「あんたじゃなくて、あんたの応援が褒められてんの」
「褒めてたんですか、今」
「そこ拾うな」
結衣が七海の腕を軽く叩いた。
「何か、面白いんだけど」
七海は頷いた。口元が、まだ勝手に緩んでいた。
ゴングが鳴った。
夏帆が前に出て、右手を差し出した。怜はそれを見下ろし、客席を一度見てから握った。
握手をしたのだと思った。
次の瞬間、夏帆の身体が引き寄せられた。怜が腕を捻る。夏帆の膝が折れ、靴底がマットを擦った。
「え、もう?」
七海は声を漏らした。
夏帆は片手を床につき、身体を回した。手品を見るようだった。さっきまで捻られていた腕がほどけ、今度は怜の腕を取っている。客席から短い拍手が起こった。
しかし怜は、夏帆の頭を自分の脇へ抱え込んだ。
夏帆の顔が見えなくなる。彼女は怜の腰を押し、足を踏み替えた。怜の腕には、さっきまでなかった筋が浮いている。
近かった。
画面を通して見たこともろくにないのに、七海はなぜか、こんなに近いはずではなかったと思った。靴の底が擦れる音も、息を吐く声も、ちゃんと聞こえた。
夏帆が怜の身体をロープへ押した。反動で二人が離れ、怜が走って戻ってくる。
肩と肩がぶつかった。
鈍い音がして、夏帆だけが倒れた。
七海の指がカップを強く押した。蓋の小さな穴から、ミルクティーが一滴出てきた。
「うわ」
結衣が隣で言った。
怜は倒れた夏帆を見下ろし、片腕の力こぶを指で叩いてみせた。客が笑い、誰かが「大人げないぞ」と声をかけた。
「大人なんで」
すぐに返した怜に、また笑いが起きた。
夏帆はその間に起き上がり、背後から彼女の腰に両腕を回した。
怜の眉が上がった。足が浮きかける。
「ちょ、待て待て」
急に声の調子が変わった。怜は脚を広げ、腰を落とした。夏帆がもう一度持ち上げようとする。怜は首を振り、肘を引いて逃れた。
見ていた男の子が叫んだ。
「こわいのー?」
怜が振り向いた。
「作戦!」
結衣が声を立てて笑った。七海もつられて、ストローをくわえたまま笑いそうになった。
その笑いが収まるより先に、夏帆が走った。
両足が床を離れた。膝が上がり、靴の底がまっすぐ怜の胸へ向かう。怜の身体が後ろに飛んだ。
さっきとは違う、大きな音がした。
七海はカップを口から離した。
夏帆は床を転がり、すぐに立った。片腕を上げる。その顔を見た途端、七海の喉から短い声が出た。
「すご」
最後まで言葉にならなかった。
あんなふうに人が跳べることを知らなかった。足を振り上げたのでも、何かに乗って飛び降りたのでもない。何もない床から、身体ごと浮いた。
膝にカップを挟み直して、拍手をした。今度は周りを確かめなかった。
*
けれど、夏帆がよかった時間は長く続かなかった。
二度目に走ったところを怜に受け止められ、身体を抱え上げられた。
一瞬、夏帆の靴が怜の肩より高くなった。
七海は息を止めた。
背中から落ちる音が、椅子の脚を通して足元まで響いた。
広場の入口で聞いたのは、これだった。
夏帆の口が開いた。声は聞こえなかった。片脚を曲げ、背中をわずかに浮かせたあと、またマットに戻る。
「大丈夫なの、あれ」
結衣の声が、さっきより小さかった。
七海には答えられなかった。
怜が夏帆に覆いかぶさり、片脚を抱えた。縞模様のシャツを着たレフェリーが床に伏せ、掌でマットを叩く。
「ワン!」
二つ目が鳴ったところで、夏帆の肩が浮いた。
レフェリーが指を二本立てる。怜は少し顔をしかめたが、夏帆から身体を離した。
七海も、ようやく息を吐いた。
隣の通路側に座る女性が、小さく頷きながら拍手していた。膝の上には、黄色いタオルが畳んである。
七海が見ているのに気づくと、その人は少しだけ顔を向けた。
「三つで終わりなんです」
「あ、はい」
「肩、上がったから」
それだけ言って、女性はすぐリングへ視線を戻した。
七海も前を向いた。わかったことが一つ増えるだけで、見るところが変わった。起き上がれるかだけでなく、肩が床につくたびに、そこを見てしまう。
夏帆は、なかなか攻め返せなかった。
腕を取られて引かれ、隅へ追い込まれる。反撃しようと身体を起こすと、怜の前腕が胸に当たった。何度も受けるうちに、夏帆の片膝が床についた。
七海は椅子の前の方へ座り直していた。
さっき、楽しそうに手を振っていた人と同じ人なのだと、何度も確かめるように顔を見た。前髪が額に張りついている。黄色い膝当ての縁がずれ、膝の下に赤い線が見えた。
「夏帆ー!」
タオルの女性が呼んだ。
客席のあちこちから、同じ名前が上がる。
七海は口を開きかけて、閉じた。
初めて見たばかりなのに。名前をさっき知っただけなのに。呼び捨てにしていいのだろうか。周りの人のように声が出なかったら、かえって変ではないだろうか。
そう考えている間にも、夏帆は立とうとしていた。
怜が何か言った。夏帆は顔を上げる。膝に置いていた手を離し、胸に一発、打ち返した。
怜の身体が少し揺れた。
夏帆がもう一度打つ。怜が返した。夏帆は後ろへ下がりかけ、足を止めた。
七海の腹のあたりに力が入った。
打たれるのは嫌だった。顔をしかめるところを見ると、こちらまで首が縮んだ。けれど、夏帆が一歩前に出るたび、胸の奥に何かが溜まった。上手な言葉にはできなかった。ただ、今、もう一度返してほしかった。
「頑張れ」
小さく言った。
隣の結衣にさえ聞こえなかったかもしれない。
夏帆がまた打った。今度は怜が一歩下がった。客席の拍手が速くなる。七海も手を叩いた。夏帆は怜の腕を取り、引こうとしたが、逆に引き戻された。怜の腕が横に伸びる。
夏帆は身を屈め、その下を抜けた。
ロープが背中を受け止めた。弓のようにしなり、戻る。
次の瞬間、夏帆はまた跳んでいた。
今度は怜が大きく倒れた。
声が、一度に広場を満たした。
七海は腰を浮かせ、慌てて座った。立つつもりなどなかったのに、身体が先に動いていた。
結衣が目を丸くしてこちらを見た。七海も見返し、二人で笑った。何がおかしいのか、説明する間はなかった。
夏帆が怜へ近づいた。
腕を取り、身体を寄せる。さっき持ち上げようとして止められたときと、似た形だった。
怜が踏ん張った。
夏帆の足が滑りかける。それでも離れなかった。もう一度近づき、腰を落とした。首の横の筋が浮き、歯を食いしばった口元が見えた。
七海は、いつの間にか立ち上がっていた前の男の子の背中越しに、その顔を見た。
「なつほー!」
男の子が叫んだ。
七海も口を開いた。
「夏帆!」
思っていたより、大きな声だった。
怜の片足が浮いた。
夏帆が身体を反らし、二人が倒れ込む。黒と紫が、黄色の向こうへ大きく回った。
音が鳴った瞬間、七海は息を吸ったまま笑っていた。
投げた。
小さなあの人が、自分より大きな相手を投げた。
夏帆はすぐに怜の上へ身体を重ねた。レフェリーが滑り込む。客席から、数を数える声が上がった。
七海も二つ目から一緒に数えた。
けれど三つ目の前に、怜の肩が上がった。
「ああっ」
自分の声が、結衣の声と重なった。
七海は口を開けたまま、膝に手を置いた。今、勝つと思った。本当に、そう思った。
隣の女性が「惜しい」と言い、タオルを握り直した。怜は片肘をついて起き上がり、肩で息をしている。
七海は初めて、怜も疲れるのだと気づいた。
ずっと余裕があるように見えた。夏帆をどうにでもできるのだと思っていた。その人の髪が乱れ、口が開き、笑わなくなっている。
夏帆が、そうさせた。
夏帆はリングの隅へ向かった。
ロープを掴み、角の少し高いところへ上がる。
「何するの」
結衣が呟いた。
七海は答えず、カップを両膝で挟み直した。飲み物のことをほとんど忘れていた。中で氷が崩れ、軽い音がした。
夏帆が身を低くした。
怜が立つ。
黄色が宙へ出た。
さっきより高かった。足が伸び、怜の胸へ届く。二人が倒れる大きな音に、七海は肩を震わせた。怖さと興奮が、もう別々にならなかった。
夏帆が這うように近づき、押さえ込む。
一つ。二つ。
怜が返した。
七海は両手で自分の膝を叩いた。もう少しだった。さっきより、もっと。
「夏帆、もう一回!」
今度は迷わず声が出た。
夏帆が顔を上げた。こちらを見たのかもしれなかったし、その向こうを見たのかもしれなかった。確かめる余裕はなかった。彼女は立ち、怜を起こしていた。
怜の腕が動いた。
夏帆の身体が引かれ、二人の位置が入れ替わる。怜が踏み込み、腕を横へ振った。
夏帆の背中が落ちた。
七海の声が止まった。
怜が覆いかぶさった。片脚が抱え込まれる。レフェリーが腕を振り上げた。
一つ目が聞こえた。
夏帆の靴の先が動いた。
二つ目が聞こえた。
七海はその肩を見ていた。上がると思った。さっきのように、最後の瞬間に浮くと思った。
三つ目の音が鳴った。
*
ゴングが続けて鳴ったあとも、七海はしばらく手を動かせなかった。
怜が夏帆から離れ、膝をついた。レフェリーに声をかけられて立ち上がり、片腕を上げられる。客席から拍手が広がった。
負けたのだ。
ほんの少し前には、勝つと思っていたのに。
悔しかった。自分が何かしたわけではないのに、喉の下が詰まったようになった。
結衣が小さく息を吐いた。
「惜しかったね」
「うん」
返事をすると、自分の声が少しかすれていた。
リングの上で、怜が夏帆の方へ歩いた。何かを言い、右手を差し出す。
夏帆は仰向けのまま、その手を見ていた。少ししてから手を伸ばし、引かれて起き上がった。すぐには立てず、膝に手を置いて呼吸を整える。
怜は待っていた。
その横顔を見て、七海はようやく拍手をした。さっきまで夏帆に勝ってほしくて、怜が倒れるたびに喜んでいた。なのに今は、その人にも何かを伝えたかった。
夏帆が立ち、二人が客席へ頭を下げた。
七海は手を叩き続けた。掌が熱かった。
興行の終わりに、ほかの選手たちもリングへ上がってきた。
怜がマイクを持ち、次の大会の案内をした。試合中とは違って日付も会場名もはっきりしていて、七海は少し驚いた。あの人がちゃんと告知をするのが、なぜか面白かった。
夏帆もマイクを渡された。
「今日は、応援ありがとうございました」
まだ息が整いきっていない声だった。
「次は勝ちます。また見に来てください」
言い終えたところで、さっきの男の子が「くるー!」と答えた。夏帆が笑った。怜が横からマイクを借りる。
「次はこっちも、ちょっとだけ応援して」
「なつほー!」
「ぶれないなあ」
七海はまた笑った。負けて悔しかった気持ちは残っている。それなのに、笑えた。
終わってほしくない、と思った。
人が席を立ち始めると、急に買い物の続きのような空気になった。
袋を持ち直す人、子どもの上着を着せる人、夕飯の相談をする人。リングの向こうで、パン屋がまた焼きたてを知らせていた。
「十分じゃなかったね」
結衣がスマートフォンを見て言った。
思っていたより、ずっと時間が経っていた。
「ごめん」
「何で七海が謝るの。私も見てたし」
結衣は立ち上がり、肩を回した。
「面白かった。あの黒い人、好きかも」
「え、そっち?」
「顔怖いのに、ずっと子どもに負けてる」
言われて、七海は笑った。
好きになるところが違う。そのことも、少し面白かった。
手の中のミルクティーを飲むと、氷が溶けて薄くなっていた。買ったときは写真まで撮ったのに、半分以上残っている。
結衣が出口の方を向いた。
七海は一緒に歩きかけ、止まった。
広場の端に長机が並び、選手の写真やタオルが置かれていた。そこに黄色い姿がある。
夏帆だった。
コスチュームの上に白いTシャツを着て、椅子を一脚運んでいる。まだ頬が赤い。腰を下ろす前に膝当ての位置を直し、息を吐いてから、机の上の写真を揃えた。
七海は、足元を見た。自分の白いスニーカーと、リングで跳んでいた黄色い靴が、今は同じ床の上にある。
「行ってみる?」
結衣が聞いた。
「でも」
「見てきたら。私、あっちでこれ捨ててくる」
空のカップを軽く持ち上げられ、七海は小さく頷いた。
*
夏帆の前には、三人並んでいた。
先頭の人が写真を差し出し、何かを話している。夏帆は笑いながらペンを動かした。次の人とは、今日の試合のことを話しているらしかった。
七海は列の一番後ろで、バッグの紐を握り直した。
何を言えばいいのだろう。
すごかった。惜しかった。面白かった。
どれも本当なのに、口に出す前から薄く感じた。もっと違う何かがあったはずだった。あの、人を投げた瞬間。怜の肩が上がった瞬間。自分の声が思っていたより大きかったこと。
前の人が離れた。
夏帆が顔を上げる。
「こんにちは」
「こんにちは」
七海は、少し頭を下げた。
近くで見ると、夏帆はますます若かった。頬に細い髪が一本張りつき、左の眉の端が汗で薄くなっていた。写真の中では、その同じ人が明るく笑っている。
「見てくれてました?」
「はい。初めてで」
「プロレス?」
七海が頷くと、夏帆の顔が明るくなった。
「どうでした?」
「すごかったです」
結局、その言葉しか出なかった。
夏帆は、嬉しそうに「よかった」と言った。
沈黙ができかけた。七海は慌てて言葉を足した。
「あの、持ち上げたところ。相手の人を。できないかと思ってたら、持ち上がって」
「ああ、あそこ」
夏帆は自分の手を見た。指を一度握り、それから開いた。
「怜さん、重いんですよ。体重だけじゃなくて、こう、持たせてくれないっていうか」
両手で何かを抱える仕草をしてから、少し照れたように笑った。
「ごめん、わかりにくいね」
「でも、すごかったです」
二回目になってしまった。
夏帆は笑わなかった。ちゃんと頷いてくれた。
「ありがとう」
七海は机の上の写真を見た。黄色の衣装を着た夏帆が、青空を背に片腕を上げている。その横に、次の大会のチラシがあった。
「また、試合するんですか」
「うん。来週の日曜日。ここから電車で三つ先」
夏帆がチラシを一枚抜いた。
真ん中にはベルトを肩に載せた知らない選手が大きく写っている。夏帆は下の方にいた。それでも、黄色ですぐに見つけられた。
会場名には見覚えがあった。中学のとき、合唱コンクールをした市民会館だった。
「負けたあとでも、すぐにやるんですね」
言ってから、七海は顔を上げた。
「すみません、そういう意味じゃ」
「大丈夫」
夏帆は一度、リングの方を見た。
「悔しいけどね。今も、すごく」
笑っているのに、その言葉は思ったよりまっすぐ届いた。
「でも、今日やりたかったこと、一個できたから」
「投げたところですか」
「それも」
夏帆は、そこから先を少し考えているようだった。やがて七海を見て、首を傾けた。
「もっとできそうだったでしょう?」
七海は頷いた。
あの三つ目の音の直前まで、終わると思っていなかった。
「私も。だから、次」
夏帆の指が、チラシの日付に触れた。
七海は財布を出しかけて、止まった。
来週の日曜日。部活には入っていない。友達との約束もなかった。ただ、家には何も言っていない。
「これ、あとからでも買えますか」
「買えるよ。ここから予約できる」
夏帆がチラシの端を指した。四角い模様の下に、予約について書かれていた。
「高校生?」
「一年です」
「じゃあ、学生の席がある。日にち確認して、よかったら」
夏帆はチラシを七海の方へ向け直した。
来なければいけないような言い方ではなかった。それがかえって、七海には嬉しかった。
「行きたいです」
予定が空いていたら、と言うつもりだった。
口から出たのは、もっと短い言葉だった。
夏帆は目を細めた。
「うん。待ってる」
*
物販から離れると、結衣は少し先の柱のそばにいた。
七海の手のチラシを見て、笑う。
「次も行くんだ」
「まだ、家に聞いてないけど」
「七海が自分から行きたいって言うの、珍しいね」
「そう?」
「いつも私が決めてない? 今日の店も」
七海はチラシへ目を落とした。
嫌なことを我慢していたわけではない。今日だって楽しかった。結衣と服を見て、飲み物を買って、二人で写真を撮った。そういう休日は、ちゃんと好きだった。
それでも今、自分の手の中にある日付には、少し違う感じがした。
「結衣も来る?」
「来週、従姉の家行くんだよね」
「そっか」
「別の日なら。またあの黒い人出るとき」
七海は笑って頷いた。
いつもなら、じゃあ別の日にしようと言っていたかもしれない。今日は、来週の日付をもう一度確かめた。
駅へ向かう途中、七海は何度も広場を振り返った。
選手の姿は、もう人に隠れて見えなかった。リングの柱だけが、店の看板の間に少し見えていた。
右の掌を開いたり閉じたりすると、指の付け根がじんわり熱かった。喉も少し痛い。知らない人の名前を、あんなふうに呼んだのは初めてだった。
改札の前で結衣と別れ、一人になってからスマートフォンを出した。
母とのやり取りを開く。
来週の日曜日、というところまで打って、七海は一度止まった。何を見に行くのかを書けば、きっと驚かれる。どうして急に、と聞かれるかもしれない。
自分でも、まだ説明できなかった。
けれど、もう一度見たいと思っていることだけは、はっきりしていた。
続きを打った。
『来週の日曜日、市民会館に女子プロレス見に行ってもいい?』
送信してから、手の中のチラシを広げた。
小野寺夏帆。
小さな写真の下にある名前を、心の中で読んだ。
ホームに電車が入ってくる音がした。七海はチラシを雑に折りかけ、途中でやめた。バッグから、学校帰りにも使っているクリアファイルを出す。
中には月曜日に提出する進路希望調査が入っていた。将来やりたいことの欄は、まだ白かった。
七海はその裏へ、チラシをそっと差し込んだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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