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持参金の代わりに赤字屋敷を渡された娘ですが、帳簿を締めたら辺境伯が離してくれません

作者: 冬野 しほ
掲載日:2026/08/23

「その箱は落とさないでください! 中身は私の着替えです。婚姻契約書より替えが利きません!」


 雪まみれの御者が、危うく荷箱を石段へ落としかけた。


 危険なもの。一つ、凍った石段。二つ、傾いた荷箱。三つ、花嫁より先に屋敷へ運び込まれていく契約書。


 紙のほうが手厚く扱われている。大丈夫。実家でも似たようなものだった。


「辺境伯様へお渡しするのは、こちらの二部です」


 モーリスは使用人たちの前で革表紙の書類を掲げた。私が三晩かけて計算した借金残高の報告書も挟まっている。数字は私の字、末尾の署名は彼の名。いつもの分業である。私が働き、モーリスが働いたことになる。便利!


「こちらの娘は家で帳面を触らせておりましたが、計算係としては不要です。辺境伯家の正規の帳簿など、任せられる者ではございません」


 荷箱を抱え直した老家令の眉が上がった。


「モーリス様。契約書には、奥様が婚家の取引資料を閲覧できると」


「借金の相殺額を確認させるための形式です。リュシエンヌ、余計な口を挟むな。あなたの働きは要りません」


 正確な数字だけ持っていき、計算した人間は置いていく。荷ほどきが早い。


 私は指を折った。


「借金一つ、花嫁一人。確かに受け取りましたと、辺境伯様から署名をいただければよろしいのですね」


「理解が早くて助かる」


「理解だけは早いのです。計算ができませんので」


 老家令が咳払いをした。笑うところではないらしい。残念だ。


「その署名は、私がする」


 玄関広間の奥から低い声がした。


 杖をついた男性が、侍従の腕を断ってこちらへ歩いてくる。黒い上着の下で肩が薄い。けれど青灰色の目だけは、モーリスの手にある契約書から私へ、まっすぐ移った。


 モーリスは私を立たせたまま、自分から椅子を引いた。


「辺境伯様! ご病身でございますのに、わざわざお出ましいただき恐縮至極に存じます。こちら、すでにご承認済みの条件を——」


「彼女に椅子を」


 モーリスの手が机から落ちた。


「は、もちろんでございます」


 同じ口から出たとは思えない敬語である。人間の語尾は、爵位によってここまで伸縮するのか。


 エルヴェ辺境伯は契約書を開いた。実家の借金は私の持参金と相殺され、雪解けまでに屋敷の収支を立て直す。そこまで読んだところで咳をのみ込み、私へ頭を下げた。


「赤字の屋敷へ来てもらうことになった。あなたまで巻き込むつもりはなかった。申し訳ない」


 花嫁へ最初に謝る花婿というものを、私は知らない。


 知らないものは、とりあえず数えないことにする。


「謝罪より、帳場を見せてくださいませ。雪解けまで待ってくれる借金はあっても、今日の夕食まで待ってくれる空腹はありませんから」


 老家令が荷箱を床へ置いた。


「オスカーと申します。奥様、こちらへ」


 そして私は、婚礼の部屋より先に帳場へ案内された。


    *    *    *


 赤字は慎み深くなかった。


 机の上、棚の中、鍵付きの引き出し。開けるたびに増える。遠慮を知らない客よりひどい。しかも帰らない。


「止まっている給金が三か月分、薬屋への支払いも三か月分です」


 オスカーは背筋を伸ばしていたが、袖口には丁寧な継ぎが当たっていた。私財を崩した者の服だ。


「一つ、給金。二つ、薬代。三つ、屋根の修理。四つ——」


「奥様、十までございます」


「指が足りませんね」


「私のもお使いになりますか」


「まず帳簿を貸してください」


 最初に拾ったのは、薬屋の請求書だった。エルヴェ辺境伯の薬、八瓶分。ところが同じ束に、封が割れていた二瓶の返品票が挟まっている。日付は請求の三日前。返品を受けた者の署名もあるのに、請求は八瓶のままだ。


「八から二を引くと?」


「六でございます」


「よかった。この屋敷では引き算がまだ生きています」


 私は八瓶分の支払指図を止め、六瓶分だけを当日払いに直した。全額を止めれば、薬まで来なくなる。誤りに腹を立てて病人を干すのは、帳簿の勝利ではなく帳簿による殺人だ。


 薬屋の使いが訂正額を確認し、六瓶を机へ並べた。


「受領印をお願いいたします」


「辺境伯様ご本人に」


「私が押そう」


 いつの間にか、エルヴェ辺境伯が扉に立っていた。杖をつく手より先に、私の机の上の冷めた皿を見る。


「昼食を取っていないのか」


「薬の支払いが先でした」


「薬を飲む私が命じる。食べてくれ」


「では辺境伯様も、これを受け取ってください。六瓶です。七でも八でもありません」


「厳しい会計係だ」


「不要な二瓶へお金を払い、必要な六瓶を失うほうが厳しいです」


 彼は薬瓶を受け取り、私へ頭を下げた。


「助かった。ありがとう、リュシエンヌ」


 成果を持っていった者から礼を言われたのは、初めてだった。


 私は冷めたパンを二口続けてかじった。忙しかっただけである。口の中がいっぱいなら、返事が遅れても不自然ではない。完璧な防御!


 次に止めたのは、冬の客間へ掛ける刺繍布だった。客は来ない。道が雪で埋まっているからだ。刺繍は美しいが、使用人は刺繍を煮ても食べられない。


「手付金の残りを払うのは春。納品も春へ延期してください」


「注文先が承知するでしょうか」


「今すぐ解約して手付金を失うより、納期を延ばして全額受け取るほうが先方にも得です。文面は私が作ります。辺境伯様の署名を」


「呼んだか」


 今度は薬を飲んだ直後だった。来る口実が雑になっている。


「お休みの時間では?」


「署名が必要だと聞いた」


「まだ誰も呼びに行っておりません」


「……廊下で聞こえた」


 帳場の扉は厚い。


 私は数えかけた指を握った。嘘一つ。害は今のところなし。保留。


 延期の承認が取れ、残っていた現金を一人分の給金へ回した。全員分には遠い。それでもゼロと一の間には、冬を越せるほど大きな差がある。


 オスカーは最初の硬貨袋を両手で受け取った。礼を言うより先に扉を開ける。


「料理長、厨房係、洗濯係、厩番、門番、倉番! 順番に帳場へ。まず一人分が戻ります。次も必ず戻します!」


 廊下へ集まった使用人たちは歓声をのみ込んだ。代わりに、硬貨袋を抱いた厨房係の肩を、全員が一度ずつ叩いた。


 エルヴェ辺境伯はその列を見てから、私へ向き直った。


「一人ではない。屋敷全体の顔を変えた」


「一人分しか払えておりません」


「だから、次を頼みたい」


 褒めすぎる人。一名。


 支出ではないので、帳簿には記載しなかった。


    *    *    *


 三度目の赤字は、荷車十七台でやって来た。


 冬越し用の穀物代。請求書には十七台分とあり、実家の会計印と売り手の署名、そして南方仕入れを預かるモーリスの署名が揃っていた。


「これは通例の請求だ。すぐ支払え」


 モーリスは私の前の机を指で叩いた。エルヴェ辺境伯がいないと、彼の指はよく働く。


「倉へ入ったのは十一台です」


「帳面を見ただけの女に何が分かる。辺境の冬を支える商慣行だ」


「女にも倉の壁は見えます。あの倉は十七台分入りません」


「口答えをするな。お前は請求額だけ計算すればいい」


「では計算します。入らない六台分まで払えば、給金二か月分が消えます」


「使用人にはもう少し我慢させればよい。実家への送金は期日どおり処理しろ」


 オスカーの顎が動いた。声にはしなかった。


 私は請求書を裏返した。


「倉を測ります。オスカー、倉番と門番を。搬入札も全部お願いします」


「私の許可なく——」


「何の許可だ」


 エルヴェ辺境伯が帳場へ入った。


 モーリスの指が机から消えた。見事。冬眠に入ったらしい。


「辺境伯様、ご機嫌麗しく存じます。こちらは例年どおり、ご承認済みの穀物代でございます」


 彼は自分の椅子を引いてエルヴェ辺境伯へ勧めた。


「私は承認していない」


「先代からの慣例という意味でして」


「リュシエンヌには立ったまま命じ、私には椅子を引くのも慣例か」


 普段抑えた声の人が、モーリスだけを見た。


「ずいぶん安い忠誠だな」


 モーリスは椅子の背から手を離した。


 私たちはそのまま倉へ向かった。外は雪だった。膝まで埋まる場所を厩番が先に踏み、倉番が縄と物差しを運び、門番が十一枚の搬入札を革袋から出す。


 私も裾を膝へ巻きつけた。


「奥様、帳場でお待ちください」


「十七台が入るなら、私も荷の隙間へ詰めてもらいます」


「詰めません」


 エルヴェ辺境伯が即答した。


「荷車半台分くらいにはなります」


「ならない。戻ったら昼食を取るように」


「まだ朝です」


「予約だ」


 彼は杖を雪へ刺し、自分の足で倉まで来た。病身を椅子へ置いてくればいいのに、そういうわけにはいかないらしい。


 倉の床へ縄を伸ばす。横に四箱、奥へ十三列。ただし北壁から二列分は湿気を避けて空けなければならない。積める高さは三段。荷車一台に積む穀物箱の規格は十二箱。


 倉番が配置図へ線を引き、私は箱を数えた。現在ある分と、すでに厨房へ回った記録を足す。


「十一台です」


 倉番が言った。


 門番が搬入札を雪の上へ並べた。


「通した荷車も十一台。到着日と御者の印は全部合います」


 オスカーが札と倉番の記録を照合する。


「六台は門を通っておりません」


 推測ではない。壁と札と現物が、同じ数を出した。


 モーリスは鼻先を赤くして請求書を奪おうとした。私は一歩下がり、エルヴェ辺境伯がその間へ杖を置いた。


「請求には売り手の署名があります」


 私は紙の下段を示した。


「十七台分を受領したとする実家側の印も。モーリス、六台分はどこへ?」


「伯父の指示だった! 私は書類を整えただけだ。差額を別口へ送るのは実家と売り手が決めたことで——」


「先ほどは商慣行とおっしゃいましたね」


「同じ意味だ!」


「使用人の給金を止めて、実家への送金だけ期日前に通すことが?」


 モーリスが私を指した。


「この女も実家で同じ帳面を作っていた! 共犯だ!」


 その言葉だけは、よく磨かれていた。私の計算を彼の報告書へ写し、客前では計算のできない娘として追い出す。必要なときは手、都合が悪くなれば罪まで私のもの。大盤振る舞いだ。


 私は彼の鞄からのぞく報告書を抜いた。冒頭、私が実家で作った月別の穀物消費表。欄外には私の筆跡で、「最大十一台」とある。その下にモーリスの署名。


「私が作ったのは、倉へ入る十一台分の計算です。あなたはここから数字を写した。十七に増やした箇所だけ、あなたの字ですね」


 オスカーが二枚を並べた。


「辺境伯様。写しを取り、門番と倉番の記録を添えます」


「頼む」


 エルヴェ辺境伯は請求書を折らずに持った。


「モーリス。今この場で、取引代理の印章を返せ」


「お待ちください。長年の慣行には事情が——」


「返せ」


 モーリスは腰の革袋を押さえた。後ろで厩番が倉の扉を開く。冷たい風が吹き込み、彼の外套だけが大げさに膨らんだ。


 やがて、真鍮の印章が雪の上へ落ちた。


 オスカーが拾い、布で拭いてエルヴェ辺境伯へ渡す。


 エルヴェ辺境伯は取引権限書を倉の壁へ当て、モーリスの名を一本の線で消した。その下に日付を書き、署名する。


「以後、屋敷の帳場、倉、取引先への接触を禁じる。請求の返還は実家と署名者へ求める。リュシエンヌに負わせるものは一つもない」


 モーリスは私を振り返った。


「お前は実家の借金でここへ来たんだぞ。私を追い出せば、お前の戻る場所も——」


「門番」


「承知しました」


 門番がモーリスの鞄を持ち、厩番が雪道を指した。本人だけが手ぶらで、屋敷の門から出ていった。


 胸の中で何かが一つ、帳簿から消えた。


 しかし横領を止めても、現金は増えない。


 給金は残り三か月分。薬代も次の支払日が来る。悪人を追い出した爽快感で煮込み料理は作れない。世の中、そこだけはたいへん堅実である。


 私たちは雪を払い、帳場へ戻った。


「売れる銀器を分けます」


 エルヴェ辺境伯が棚の鍵を開けた。


「先代以前の品もございます」


 オスカーの声が低くなる。


「使用人の給金より大事な皿はない」


 エルヴェ辺境伯は銀の燭台二点、飾り鉢一つ、十二人分ある食器のうち六人分を売却箱へ入れた。家紋入りの杯だけは、私が止めた。処分すれば買い叩かれる。担保にして短期の借入へ回したほうが条件がいい。


「では私が町の銀細工師へ持ち込みます」


 オスカーが言う。


「厩番と二人で。評価額がこの線を下回れば売らずに戻ってください」


 私が最低額を書き、エルヴェ辺境伯が売却承認へ署名した。


 次は注文書だ。春用の客間敷物、二台目の馬車の塗り直し、夏服の飾り釦。納品前の三件を延期する。


「全部止めるのではないのですね」


「全部止めれば職人が冬を越せません。納期を三か月延ばし、手付金は残す。こちらは今月の支払いを免れ、向こうは仕事を失わない。嫌がられますが、憎まれるほどではありません」


「その境目が分かるのか」


「実家では、嫌われる側の帳面を作っておりましたので」


 エルヴェ辺境伯の指が止まった。


「では、ここでは違う帳面を作ろう」


 最後は穀物の売り手との交渉だった。十一台分まで消すことはできない。届いた穀物は、屋敷の者が食べる。


 先方の番頭を帳場へ呼び、私は売り手自身が署名した十七台分の請求書と、十一枚の搬入札を並べた。


「六台分は支払いません。十一台分のうち半額を今月、残りを雪解け後。延滞分は一分を上乗せします」


「こちらも仕入れ先へ払う金がございます」


「承知しています。ですから無利息とは申しません」


 番頭は腕を組んだ。


「信用できると?」


 エルヴェ辺境伯が杖を机へ立てかけた。


「私が当主として署名する。売却する銀器の目録も見せる。支払いが遅れる責任は私にある。彼女ではない」


「残額の支払日を明記してください」


「雪解け後、最初の市が立つ日の翌日」


「担保は家紋入りの杯を」


「認める」


 私が条件を書き、番頭が読み、オスカーが証人欄へ署名する。最後にエルヴェ辺境伯が封蝋を押した。


 一つずつだった。


 銀器の箱が硬貨へ変わった。三件の支払日が後ろへ動いた。穀物代の半分が春まで待つことになった。


 机の上へ、残りの給金袋が並んだ。


 オスカーは名簿を読み上げた。呼ばれた者が進み、金額を確かめ、受領欄へ署名か印を置く。


 厨房係は袋を胸へ押しつけた。洗濯係は硬貨を一枚ずつ数え、途中で数え直した。厩番は黙って帽子を顔へ当てた。門番は背を向け、倉番に肩を小突かれて戻った。


 誰も歓声を上げなかった。


 その代わり、最後の一人が袋を受け取るまで、誰も帳場から出なかった。


 薬屋への支払いも渡した。受領証を受け取った私の横で、エルヴェ辺境伯が小さく息を吐く。


「三か月分、すべてでございます」


 オスカーの報告に、扉の外まで重なっていた肩が一斉に下がった。


 役に立てた。


 その事実には、金額がある。署名がある。受け取った袋がある。薬瓶がある。


 だからもう、私の役目は終わりだ。


 私は机の引き出しから帳場の鍵を出した。


「辺境伯様。お返しいたします」


 エルヴェ辺境伯は受け取らなかった。


「なぜだ」


「収支は雪解けまで持ちます。直接取引へ切り替えれば、来季からはオスカーだけで締められます。婚姻契約の目的は果たしました」


「それで?」


「私は実家の借金の代わりに参りました。働きが終われば、置いていただく理由がありません」


 精算済みの帳面を、エルヴェ辺境伯が閉じた。


 私の手から鍵を取る代わりに、冷えた指を両手で包んだ。


「あなたの働きは要りません」


 息が入ってこなかった。


 視界の端で、閉じた帳面が滲んだ。


「違う。働くなという意味ではない」


 彼の手に力がこもる。


「帳簿を締められるから残ってほしいのではない。薬代を取り戻したからでも、給金を払ったからでもない。明日からこの屋敷の帳面が一行も乱れず、私が一人で歩けるようになり、あなたの助けが何一つ必要なくなっても——私はあなたにいてほしい」


 指が勝手に動いた。


 一つ。


「帰る理由なら、いくつも並べられます」


 二つ目の指を折る。


「実家の借金は消えました。モーリスもいません。私は、自分で働いて暮らせます」


 三つ目が上がらなかった。


 ここを離れたい理由は、一つも出てこなかった。


 エルヴェ辺境伯は急かさなかった。私の指を包んだまま、待っていた。


「私はあなたを、役目として迎えたくない」


 青灰色の目が逸れない。


「リュシエンヌ。私の妻として、ここに残ってほしい。あなたが望む仕事をし、望まない仕事を断り、あなたの取り分を受け取ってほしい。私のそばで。私が、あなたを必要としている」


 頬から落ちた雫が、返しかけた鍵に当たった。


 一つ落ち、もう一つ落ちた。数えるほど増えて、途中で諦めた。


「私で、よろしいのですか」


「あなたがいい」


「帳簿がなくても?」


「なくても」


「働けなくなっても?」


「そのときは私が、あなたの長椅子を運ぶ」


「辺境伯様もお身体が悪いのに」


「人を呼んで運ばせる」


 笑おうとしたのに、喉がうまく開かなかった。


 彼の親指が私の頬をぬぐう。何度ぬぐっても追いつかない。


「残ってくれますか」


 私は鍵を机へ置き、空いた手で彼の上着をつかんだ。


「はい」


 それだけでは足りなくて、もう一度息を吸う。


「ここにいたいです。エルヴェ様の妻として」


 抱き寄せられた。病人とは思えない腕だった。背中へ回った手が震えている。私も彼の肩へ額を押しつけた。


 扉の外で、何かが一斉に崩れた。


「予備のハンカチはこちらです。お一人一枚、料理長は二枚どうぞ」


 オスカーの折り目正しい声に、何人分もの鼻をすする音が重なる。扉まで揺れていた。


 エルヴェ様は私を放さなかった。


 私も、鍵を取り直さなかった。


    *    *    *


 モーリスと実家、売り手には、十七台分の請求書、十一枚の搬入札、倉番の記録、二種類の筆跡が揃った報告書の写しが送られた。


 返還を求める額は、利息込み。取引権限は剥奪。屋敷への接触も禁止。


 実家から私宛てに届いた釈明の手紙は、オスカーが「帳場に不要な紙でございます」と別箱へ入れた。処理が速い。私が育てた覚えのない弟子が優秀すぎる。


 私は家計管理の正式な報酬を受け取ることになった。自分の取り分が帳簿にある。最初はその一行を見るたび、誤記ではないかと三度確認した。


 そして春を待たず、帳場には大きな家具が増えた。


「右へもう半歩。壁から離してください。毛布が擦れます」


 長椅子に横たわったエルヴェ様が、運び込む使用人へ指示している。


「なぜ帳場に長椅子が必要なのですか」


「療養のためだ」


「寝室にございましたよね?」


「遠い」


「廊下を二つ挟むだけです」


「遠い」


 使用人たちが真顔でうなずく。味方がいない。


 私は指を折った。


「帳場に増えたもの。一つ、長椅子。二つ、毛布。三つ、仕事中の妻を見張る辺境伯」


「見張ってはいない」


「昨日は私が席を立って十四歩で呼び止めました」


「行き先を聞いただけだ」


「書庫です」


「一緒に行こうと思った」


「療養してください」


 オスカーが新しい備品台帳を開いた。


「奥様。長椅子は家具、毛布は消耗品として、旦那様はいかがいたしましょう」


 厨房係が即答する。


「帳場の備品では?」


 洗濯係が首を振った。


「奥様専用ですから、私物でしょう」


「持ち出しは禁止だ」


 長椅子から当主本人が口を挟んだ。


「誰が持ち出すのですか」


「念のためだ」


 エルヴェ様は毛布をめくり、私へ片手を差し出した。


「リュシエンヌ、冷えている。こちらへ」


「まだ帳面の途中です」


「手だけでいい」


 使用人たちの視線が集まる。全員、面白がっている。三か月分の給金を取り戻した恩は、こういうときには効かないらしい。


 私は差し出された手へ自分の指を預けた。すぐに包まれる。


 温かい。


「オスカー。旦那様は備品台帳へ入れなくて結構です」


「では、どちらへ?」


 閉じた帳面の上で、エルヴェ様の指が私の指に絡んだ。


「移動しない固定資産です」


 帳場中が笑った。


 当の固定資産だけは満足そうに目を閉じ、私の手を離さなかった。

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