母が残したメモ
午後11時30分。
リビングの照明を全部つけたまま、ソファに寝転がってピザを食べていた。
母さんのいない家は、思っていたより静かだった。
いつもなら母さんが、
「もう、こんな遅い時間に何食べてるの!」
なんて小言を言ってくるはずなのに、今はテレビの音だけが部屋に響いている。
母さんは今日、友達と一泊二日の旅行に出かけた。
だから俺は、自分だけの自由を思う存分満喫していた。
けれど、それから間もなく。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
ピザを一切れ口に入れようとした瞬間、俺の手が止まる。
こんな時間に?
母さんはまだ旅行中だし、宅配便でもないはずだ。
ピンポーン。ピンポーン。
また鳴った。
今度は少し長かった。
俺はソファから体を起こし、リビングの照明をさらに明るくした。
その時だった。
「……ミツヤ? 母さんよ。ドア、開けてくれない?」
その声は、間違いなく母さんの声だった。
一瞬で背筋が冷たくなった。
ありえない。
母さんは確か、伊豆へ旅行に行ってくると言っていた。
今頃はもうペンションに着いて、友達と楽しく騒いでいるはずだ。
それに、うちの玄関はタッチ式の電子錠だ。
六桁の暗証番号を入力すれば、そのまま開く。
本当に母さんなら、どうしてわざわざチャイムを鳴らして、俺にドアを開けろと言っているんだ?
考えが次々と頭の中を巡っていた、その時。
冷蔵庫の扉にセロハンテープで貼り付けられた、黄色いメモ用紙が目に入った。
ピザを食べる前までは大して気にも留めなかった、母さん特有の走り書きだった。
俺は何かに引き寄せられるように冷蔵庫の前まで歩き、メモを掴んだ。
その瞬間。
玄関の外から、電子錠のパネルを手のひらでゆっくり撫でるような、不吉な摩擦音が聞こえた。
インターホンのスピーカーを通して、その音がリビングへと流れ込んでくる。
メモには、こう書かれていた。
『ミツヤへ! 母さんがいない間、絶対に読んでね!』
一つ目。
ミツヤ。
母さんは友達と一泊二日の旅行に行ってくるから、週末は出前でも頼んで食べなさい。
テーブルの上に三千円置いておいたから、チキンかピザでも頼んで食べるのよ。
二つ目。
母さんがいないからって、電気を全部消して夜遅くまでスマホゲームしないこと。
夜の十二時近くになったら、配達員や宅配便の人が来ても、絶対に玄関を開けちゃダメ。
最近は物騒だからね。
三つ目。
……それから、一番大事なこと。
夜遅く、玄関の外から、
「買い物から帰ってきた」
とか、
「荷物が重いからドアを開けて」
なんて母さんの声が聞こえても、絶対に騙されてドアを開けちゃダメ。
その時間、母さんは車で移動しているはずだから。
四つ目。
冷静に考えてみなさい、ミツヤ。
外に立っているのが本当に母さんなら、どうして玄関の暗証番号を入力しないの?
どうしてわざわざチャイムを鳴らして、あなたにドアを開けてくれって必死に頼むの?
あれらは、うちの電子錠の暗証番号を知らない。
だから、あなたが内側から鍵を開けてくれるのを待っているの。
五つ目。
あれらは、あなたがドアを開けるまで母さんの声で泣いて、懇願して、そのうち苛立ちながらドアを叩き始める。
絶対に返事をしないこと。
インターホンの画面も見ちゃダメ。
画面を見た瞬間、目が合って%&¿される可能性があるから。
なぜか五つ目の途中だけ、文字が無惨に削り潰され、黒く汚染されていた。
ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。
チャイムが、今度は執拗なほど鳴り始めた。
一回。
二回。
三回。
徐々にリズムが速くなっていく。
まるで、俺が聞いていることを知っているかのように。
「……ミツヤ? どうしたの? 母さんよ。ドア、開けてくれない? 荷物が重すぎるの……」
声がだんだん懇願するような調子に変わった。
母さん特有の少し高い声。
わずかに疲れたような息遣いまで、完璧に真似ていた。
俺は息を殺したまま、冷蔵庫の前に立ち尽くしていた。
手に握ったメモが、ぶるぶると震えている。
インターホンの画面は点いていなかった。
いや。
点けなかった、という方が正しい。
五つ目の規則。
読めないほど潰された文字の直前に、はっきり残っていた言葉。
『目が合って』
その一文が、頭の中をぐるぐると回っていた。
インターホンの画面を点けた瞬間。
この明るいリビングの向こう。
カメラのレンズに、一体何が映っているのか。
想像することさえ恐ろしかった。
母さんの声を出す、あの異様な何か。
あれと目が合ったら、本当にどうなるんだろう。
削り潰された記号の奥に隠されていた言葉は、
『死』
あるいは、それよりもっと恐ろしい何かに違いなかった。
ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン!
チャイムが、ほとんど狂ったように鳴り響く。
一度に四回ずつ。
規則正しく。
俺はもう一度、母さんのメモを読んだ。
手が震えすぎて、文字がまともに頭に入ってこなかった。
六つ目。
ミツヤ。
あれがドアの外から優しい声で暗証番号を聞いてきても、絶対に答えちゃダメ。
あなたの声を家の中の空気を通して認識した瞬間、あれらの体の一部が玄関ドアの下の隙間を抜けて、リビングまで入ってくるから。
うちのミツヤなら、返事をしないでじっと我慢できるよね?
七つ目。
それから、もしリビングの電気を全部点けているなら、このメモを読んだ瞬間に寝室へ逃げなさい。
明るいリビングの真ん中でぼんやり立っていたら、ベランダの大きなガラス窓に映ったあなたの影を見つけて、あれらが玄関ではなく、ベランダの窓を丸ごと叩き割って入ってくるかもしれない。
必ず電気を消すか、部屋に隠れること。
八つ目。
今すぐ寝室のベッドの下にある狭い隙間へ潜り込みなさい。
それから、タンスの一段目を見れば、母さんが入れておいた黒い有線イヤホンがあるはず。
それを見つけて、耳の奥までしっかり押し込みなさい。
音量は、あなたが耐えられる限界まで上げること。
外から聞こえる異様な音を完全に遮断しなければ、うちの息子は正気を保ったまま生き残れない。
母さんの言うことを忘れないで。
九つ目。
ベッドの下へ入ったら、冷蔵庫から持ってきたピザや飲み物は絶対に口にしないこと。
床の遠くへ投げておきなさい。
あれらは食べ物の匂いを嗅ぎつけて、寝室の敷居まで這ってくることがある。
お腹が空いても、朝までは我慢するのよ。
十個目。
イヤホンの音楽をどれだけ大きくしても、
ガリッ、ガリッ。
玄関の外で電子錠のパネルを引っ掻く音が、頭の中へ直接入り込んでくるはず。
それは耳で聞いている音じゃない。
あなたの精神を汚染するために、あれらが幻聴を植え付けているの。
怖くても、絶対にイヤホンを外しちゃダメ。
十一個目。
もし午前二時頃。
寝室のドアの隙間越しに、リビングの電気が消えるのが見えたり。
母さんの足音が、ベッドのすぐ横まで近づいてきたように感じても。
絶対に目を開けたり、ベッドの下から外を覗いたりしないこと。
あれらは、あなたがそこに隠れているか確かめるために、髪の毛を少し触ることがある。
でも反応しなければ、そのまま通り過ぎるから。
十二個目。
もし金縛りや激しい恐怖で息が詰まりそうになったら、舌から血が出るまで強く噛みなさい。
痛みで現実感を保つの。
恐怖で気を失った瞬間、あれらはあなたの夢の中まで侵食してくる可能性がある。
うちのミツヤは男の子なんだから、耐えられるよね?
十三個目。
午前四時を過ぎれば、ドアの外は静かになる。
でも、騙されて出てきちゃダメ。
あれらは玄関の前で息を殺して伏せたまま、あなたがドアを開けて出てくるのを待つという、狡猾な罠を仕掛けているから。
十四個目。
空が明るくなって。
マンションの廊下から、近所の人たちが出勤する音や、エレベーターが動く音が確実に聞こえるまで。
絶対にベッドの下から出ちゃダメ。
廊下の人感センサーライトが点くのを確認できれば、安全。
十五個目。
ミツヤ。
母さんが書いた、この十五個の規則を絶対に守って、生き残るのよ。
分かった?
何があっても朝まで目を閉じて、耳を塞いで耐えなさい。
愛してるよ、ミツヤ。
絶対に生き残って、日曜日の夜に母さんと一緒に美味しいものを食べようね。
ガチャッ。
ガタンガタンガタン――!
玄関のドアノブが、上下へ狂ったように激しく揺れた。
金属が悲鳴を上げる音が、リビング中に響き渡る。
ドアが壊れそうなほど揺さぶられ、リビングの床が微かに振動するほどだった。
俺は息を詰まらせたまま、冷蔵庫の前で凍りついたように立っていた。
十五個目の規則。
最後の一文。
『愛してるよ、ミツヤ。絶対に生き残って、日曜日の夜に母さんと一緒に美味しいものを食べようね』
これが最後だった。
その瞬間。
ドンッ!
玄関のドアが乱暴に叩かれた。
一回。
二回。
三回。
人間の力では、絶対に出せないほどの強さだった。
「……ミツヤァァァ!!!」
母さんの声が、ドアの隙間越しに血の混じったような絶叫へ変わった。
「どうして開けないの!! 母さんがこんなにお願いしてるのに!! お前のせいで私は……お前のせいで!!」
声が徐々に歪んでいった。
母さんの声が裂け。
いくつもの声が重なって聞こえ始める。
赤ん坊の泣き声。
老人の呻き声。
女の悲鳴。
男の笑い声。
その全てが、一つの口から同時に噴き出していた。
――本当に、あれは母さんじゃない。
そう思った瞬間。
全身の毛が逆立つ感覚がした。
ドン! ドン! ドン!
ドアを叩く音が、さらに激しくなる。
もう拳ではない。
何か重い物を使って、ドアを破壊しようとしているような衝撃だった。
「……ミツヤァァァァ!!!」
声が完全に壊れた。
母さんの声が数十もの別の声へと裂け、同時に叫び始める。
「ドアを開けろ!!」
「お願い……お願い……!」
「お腹が空いた……お腹が空いた……」
「お前のせいで……お前のせいで私は……」
俺はメモを強く握り締め、寝室へ全力で駆け込んだ。
バタン!
寝室のドアを勢いよく閉めて鍵をかけた瞬間。
玄関の方から、何かが全速力で衝突する音がした。
ズゥン――!
ドアが僅かに浮き上がるほどの衝撃。
壁が微かに震えた。
俺はベッドの下へ潜り込みながら、必死にタンスを手探りした。
黒い有線イヤホン。
母さんが、
「非常用だから」
と言って入れておいたイヤホンだった。
手が震えすぎて、耳に差し込むことさえ難しかった。
音楽アプリを起動し、音量を最大まで上げる。
耳が裂けそうなほど痛かった。
それでも、ドアの向こうから聞こえるあの恐ろしい音を遮るため、さらに大きな音にした。
俺はただ、この時間が早く過ぎ去ることを願いながら。
外の音を無視し。
そのまま目を閉じた。
どれほど時間が経ったのだろう。
イヤホンの音量を最大にしたまま。
耳が裂けそうな痛みに耐えながら、何時間も過ごした。
午前四時を過ぎた頃。
寝室の中は、完全に静まり返った。
ドアの外から聞こえていた恐ろしい音も。
ガリッ。
ガリガリ。
という音も。
声も。
ドアを叩く音も。
全て消えていた。
廊下から、エレベーターが動く音。
近所の人たちが出勤する足音。
人感センサーライトが点灯する、カチッという音。
それらが微かに聞こえてきた。
朝が来た。
俺はベッドの下から、ゆっくりと這い出した。
全身が凝り固まり。
噛んだ舌からは、まだ血の味がしていた。
俺は慎重に寝室のドアを開けた。
リビングは、まだ明るかった。
照明は全て点けたまま。
一晩中、点きっぱなしだった。
玄関のドアは閉じていた。
電子錠も、再び施錠されている。
十五個の規則。
最後の一文まで、全て守った。
俺は震える手で、玄関のインターホンを点けた。
画面には、何も映っていなかった。
……廊下だけが、空っぽだった。
俺はしばらくの間。
インターホンの画面を、呆然と見つめていた。
何もいない。
けれど。
画面の端に。
小さな黒い手形のようなものが、薄く残っていた。
そして。
インターホンのスピーカーから。
とても小さな。
ほとんど聞き取れないほどの母さんの声が、囁いた。
「……ミツヤ……ありがとう……ドア、開けてくれて……」




