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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

深夜短編集

母が残したメモ

作者: 短編工房
掲載日:2026/07/12

午後11時30分。


リビングの照明を全部つけたまま、ソファに寝転がってピザを食べていた。


母さんのいない家は、思っていたより静かだった。


いつもなら母さんが、


「もう、こんな遅い時間に何食べてるの!」


なんて小言を言ってくるはずなのに、今はテレビの音だけが部屋に響いている。


母さんは今日、友達と一泊二日の旅行に出かけた。


だから俺は、自分だけの自由を思う存分満喫していた。


けれど、それから間もなく。


ピンポーン。


玄関のチャイムが鳴った。


ピザを一切れ口に入れようとした瞬間、俺の手が止まる。


こんな時間に?


母さんはまだ旅行中だし、宅配便でもないはずだ。


ピンポーン。ピンポーン。


また鳴った。


今度は少し長かった。


俺はソファから体を起こし、リビングの照明をさらに明るくした。


その時だった。


「……ミツヤ? 母さんよ。ドア、開けてくれない?」


その声は、間違いなく母さんの声だった。


一瞬で背筋が冷たくなった。


ありえない。


母さんは確か、伊豆へ旅行に行ってくると言っていた。


今頃はもうペンションに着いて、友達と楽しく騒いでいるはずだ。


それに、うちの玄関はタッチ式の電子錠だ。


六桁の暗証番号を入力すれば、そのまま開く。


本当に母さんなら、どうしてわざわざチャイムを鳴らして、俺にドアを開けろと言っているんだ?


考えが次々と頭の中を巡っていた、その時。


冷蔵庫の扉にセロハンテープで貼り付けられた、黄色いメモ用紙が目に入った。


ピザを食べる前までは大して気にも留めなかった、母さん特有の走り書きだった。


俺は何かに引き寄せられるように冷蔵庫の前まで歩き、メモを掴んだ。


その瞬間。


玄関の外から、電子錠のパネルを手のひらでゆっくり撫でるような、不吉な摩擦音が聞こえた。


インターホンのスピーカーを通して、その音がリビングへと流れ込んでくる。


メモには、こう書かれていた。


『ミツヤへ! 母さんがいない間、絶対に読んでね!』


一つ目。


ミツヤ。


母さんは友達と一泊二日の旅行に行ってくるから、週末は出前でも頼んで食べなさい。


テーブルの上に三千円置いておいたから、チキンかピザでも頼んで食べるのよ。


二つ目。


母さんがいないからって、電気を全部消して夜遅くまでスマホゲームしないこと。


夜の十二時近くになったら、配達員や宅配便の人が来ても、絶対に玄関を開けちゃダメ。


最近は物騒だからね。


三つ目。


……それから、一番大事なこと。


夜遅く、玄関の外から、


「買い物から帰ってきた」


とか、


「荷物が重いからドアを開けて」


なんて母さんの声が聞こえても、絶対に騙されてドアを開けちゃダメ。


その時間、母さんは車で移動しているはずだから。


四つ目。


冷静に考えてみなさい、ミツヤ。


外に立っているのが本当に母さんなら、どうして玄関の暗証番号を入力しないの?


どうしてわざわざチャイムを鳴らして、あなたにドアを開けてくれって必死に頼むの?


あれらは、うちの電子錠の暗証番号を知らない。


だから、あなたが内側から鍵を開けてくれるのを待っているの。


五つ目。


あれらは、あなたがドアを開けるまで母さんの声で泣いて、懇願して、そのうち苛立ちながらドアを叩き始める。


絶対に返事をしないこと。


インターホンの画面も見ちゃダメ。


画面を見た瞬間、目が合って%&¿される可能性があるから。


なぜか五つ目の途中だけ、文字が無惨に削り潰され、黒く汚染されていた。


ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。


チャイムが、今度は執拗なほど鳴り始めた。


一回。


二回。


三回。


徐々にリズムが速くなっていく。


まるで、俺が聞いていることを知っているかのように。


「……ミツヤ? どうしたの? 母さんよ。ドア、開けてくれない? 荷物が重すぎるの……」


声がだんだん懇願するような調子に変わった。


母さん特有の少し高い声。


わずかに疲れたような息遣いまで、完璧に真似ていた。


俺は息を殺したまま、冷蔵庫の前に立ち尽くしていた。


手に握ったメモが、ぶるぶると震えている。


インターホンの画面は点いていなかった。


いや。


点けなかった、という方が正しい。


五つ目の規則。


読めないほど潰された文字の直前に、はっきり残っていた言葉。


『目が合って』


その一文が、頭の中をぐるぐると回っていた。


インターホンの画面を点けた瞬間。


この明るいリビングの向こう。


カメラのレンズに、一体何が映っているのか。


想像することさえ恐ろしかった。


母さんの声を出す、あの異様な何か。


あれと目が合ったら、本当にどうなるんだろう。


削り潰された記号の奥に隠されていた言葉は、


『死』


あるいは、それよりもっと恐ろしい何かに違いなかった。


ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン!


チャイムが、ほとんど狂ったように鳴り響く。


一度に四回ずつ。


規則正しく。


俺はもう一度、母さんのメモを読んだ。


手が震えすぎて、文字がまともに頭に入ってこなかった。


六つ目。


ミツヤ。


あれがドアの外から優しい声で暗証番号を聞いてきても、絶対に答えちゃダメ。


あなたの声を家の中の空気を通して認識した瞬間、あれらの体の一部が玄関ドアの下の隙間を抜けて、リビングまで入ってくるから。


うちのミツヤなら、返事をしないでじっと我慢できるよね?


七つ目。


それから、もしリビングの電気を全部点けているなら、このメモを読んだ瞬間に寝室へ逃げなさい。


明るいリビングの真ん中でぼんやり立っていたら、ベランダの大きなガラス窓に映ったあなたの影を見つけて、あれらが玄関ではなく、ベランダの窓を丸ごと叩き割って入ってくるかもしれない。


必ず電気を消すか、部屋に隠れること。


八つ目。


今すぐ寝室のベッドの下にある狭い隙間へ潜り込みなさい。


それから、タンスの一段目を見れば、母さんが入れておいた黒い有線イヤホンがあるはず。


それを見つけて、耳の奥までしっかり押し込みなさい。


音量は、あなたが耐えられる限界まで上げること。


外から聞こえる異様な音を完全に遮断しなければ、うちの息子は正気を保ったまま生き残れない。


母さんの言うことを忘れないで。


九つ目。


ベッドの下へ入ったら、冷蔵庫から持ってきたピザや飲み物は絶対に口にしないこと。


床の遠くへ投げておきなさい。


あれらは食べ物の匂いを嗅ぎつけて、寝室の敷居まで這ってくることがある。


お腹が空いても、朝までは我慢するのよ。


十個目。


イヤホンの音楽をどれだけ大きくしても、


ガリッ、ガリッ。


玄関の外で電子錠のパネルを引っ掻く音が、頭の中へ直接入り込んでくるはず。


それは耳で聞いている音じゃない。


あなたの精神を汚染するために、あれらが幻聴を植え付けているの。


怖くても、絶対にイヤホンを外しちゃダメ。


十一個目。


もし午前二時頃。


寝室のドアの隙間越しに、リビングの電気が消えるのが見えたり。


母さんの足音が、ベッドのすぐ横まで近づいてきたように感じても。


絶対に目を開けたり、ベッドの下から外を覗いたりしないこと。


あれらは、あなたがそこに隠れているか確かめるために、髪の毛を少し触ることがある。


でも反応しなければ、そのまま通り過ぎるから。


十二個目。


もし金縛りや激しい恐怖で息が詰まりそうになったら、舌から血が出るまで強く噛みなさい。


痛みで現実感を保つの。


恐怖で気を失った瞬間、あれらはあなたの夢の中まで侵食してくる可能性がある。


うちのミツヤは男の子なんだから、耐えられるよね?


十三個目。


午前四時を過ぎれば、ドアの外は静かになる。


でも、騙されて出てきちゃダメ。


あれらは玄関の前で息を殺して伏せたまま、あなたがドアを開けて出てくるのを待つという、狡猾な罠を仕掛けているから。


十四個目。


空が明るくなって。


マンションの廊下から、近所の人たちが出勤する音や、エレベーターが動く音が確実に聞こえるまで。


絶対にベッドの下から出ちゃダメ。


廊下の人感センサーライトが点くのを確認できれば、安全。


十五個目。


ミツヤ。


母さんが書いた、この十五個の規則を絶対に守って、生き残るのよ。


分かった?


何があっても朝まで目を閉じて、耳を塞いで耐えなさい。


愛してるよ、ミツヤ。


絶対に生き残って、日曜日の夜に母さんと一緒に美味しいものを食べようね。


ガチャッ。


ガタンガタンガタン――!


玄関のドアノブが、上下へ狂ったように激しく揺れた。


金属が悲鳴を上げる音が、リビング中に響き渡る。


ドアが壊れそうなほど揺さぶられ、リビングの床が微かに振動するほどだった。


俺は息を詰まらせたまま、冷蔵庫の前で凍りついたように立っていた。


十五個目の規則。


最後の一文。


『愛してるよ、ミツヤ。絶対に生き残って、日曜日の夜に母さんと一緒に美味しいものを食べようね』


これが最後だった。


その瞬間。


ドンッ!


玄関のドアが乱暴に叩かれた。


一回。


二回。


三回。


人間の力では、絶対に出せないほどの強さだった。


「……ミツヤァァァ!!!」


母さんの声が、ドアの隙間越しに血の混じったような絶叫へ変わった。


「どうして開けないの!! 母さんがこんなにお願いしてるのに!! お前のせいで私は……お前のせいで!!」


声が徐々に歪んでいった。


母さんの声が裂け。


いくつもの声が重なって聞こえ始める。


赤ん坊の泣き声。


老人の呻き声。


女の悲鳴。


男の笑い声。


その全てが、一つの口から同時に噴き出していた。


――本当に、あれは母さんじゃない。


そう思った瞬間。


全身の毛が逆立つ感覚がした。


ドン! ドン! ドン!


ドアを叩く音が、さらに激しくなる。


もう拳ではない。


何か重い物を使って、ドアを破壊しようとしているような衝撃だった。


「……ミツヤァァァァ!!!」


声が完全に壊れた。


母さんの声が数十もの別の声へと裂け、同時に叫び始める。


「ドアを開けろ!!」


「お願い……お願い……!」


「お腹が空いた……お腹が空いた……」


「お前のせいで……お前のせいで私は……」


俺はメモを強く握り締め、寝室へ全力で駆け込んだ。


バタン!


寝室のドアを勢いよく閉めて鍵をかけた瞬間。


玄関の方から、何かが全速力で衝突する音がした。


ズゥン――!


ドアが僅かに浮き上がるほどの衝撃。


壁が微かに震えた。


俺はベッドの下へ潜り込みながら、必死にタンスを手探りした。


黒い有線イヤホン。


母さんが、


「非常用だから」


と言って入れておいたイヤホンだった。


手が震えすぎて、耳に差し込むことさえ難しかった。


音楽アプリを起動し、音量を最大まで上げる。


耳が裂けそうなほど痛かった。


それでも、ドアの向こうから聞こえるあの恐ろしい音を遮るため、さらに大きな音にした。


俺はただ、この時間が早く過ぎ去ることを願いながら。


外の音を無視し。


そのまま目を閉じた。


どれほど時間が経ったのだろう。


イヤホンの音量を最大にしたまま。


耳が裂けそうな痛みに耐えながら、何時間も過ごした。


午前四時を過ぎた頃。


寝室の中は、完全に静まり返った。


ドアの外から聞こえていた恐ろしい音も。


ガリッ。


ガリガリ。


という音も。


声も。


ドアを叩く音も。


全て消えていた。


廊下から、エレベーターが動く音。


近所の人たちが出勤する足音。


人感センサーライトが点灯する、カチッという音。


それらが微かに聞こえてきた。


朝が来た。


俺はベッドの下から、ゆっくりと這い出した。


全身が凝り固まり。


噛んだ舌からは、まだ血の味がしていた。


俺は慎重に寝室のドアを開けた。


リビングは、まだ明るかった。


照明は全て点けたまま。


一晩中、点きっぱなしだった。


玄関のドアは閉じていた。


電子錠も、再び施錠されている。


十五個の規則。


最後の一文まで、全て守った。


俺は震える手で、玄関のインターホンを点けた。


画面には、何も映っていなかった。


……廊下だけが、空っぽだった。


俺はしばらくの間。


インターホンの画面を、呆然と見つめていた。


何もいない。


けれど。


画面の端に。


小さな黒い手形のようなものが、薄く残っていた。


そして。


インターホンのスピーカーから。


とても小さな。


ほとんど聞き取れないほどの母さんの声が、囁いた。


「……ミツヤ……ありがとう……ドア、開けてくれて……」

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