第9話:広場での演奏が、私の新しい「日常」になる
異世界の森に放り出されてから、およそ二週間が経った。
元の世界での時間はどうなっているのだろうと、たまに考えることはある。
けれど、不思議と焦りや強い不安はなかった。
毎朝、宿屋の女将さんが焼いてくれる香ばしいパンの匂いで目を覚ます。
窓を開けると、石畳を走る荷馬車の音と、商人たちの活気ある声が聞こえてくる。
私の体は、すっかりこの街の呼吸と重なるようになっていた。
「おはよう、お嬢ちゃん! 今日もいい天気だね!」
「気を付けて行くんだよ。後で演奏を聴きに行くからね」
ギターケースを背負って広場へ向かう道すがら、すれ違う人たちが次々と笑顔で手を振ってくれる。
言葉の意味は完全に理解できなくても、その温かい響きだけで十分だった。
私も足を止め、一人一人にペコリと頭を下げて挨拶を返す。
声が出せなくても、誰もそれを咎めたり、変な目で見たりはしない。
ここでは、それが『私』という人間なのだと、皆が自然に受け入れてくれている。
『おい人間。油断して歩くな。俺の歩幅に合わせろ』
足元を歩く黒猫が、クルリと振り返って偉そうに尻尾を揺らした。
私はクスッと笑い、黒猫の歩くペースに合わせて歩幅を小さくする。
この小さな相棒の存在も、今では私の日常に欠かせないものになっていた。
いつもの噴水広場に到着すると、女神像の下の縁――私の『指定席』は、綺麗に空けられていた。
それどころか、私が座りやすいように、誰かが木箱をひっくり返して小さなテーブル代わりに置いてくれている。
その上には、綺麗に磨かれた赤いリンゴが一つ、ちょこんと乗っていた。
「あ……」
私が驚いて周囲を見渡すと、少し離れたところで果物屋のおばさんが、ウインクをして親指を立ててみせた。
どうやら、昨日の演奏のお礼らしい。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
私はリンゴを両手で包み込むように持ち上げ、おばさんに向かって深くお辞儀をした。
『ふむ。なかなか美味そうな果実だな。演奏が終わったら、半分は俺がもらうぞ』
黒猫はそう宣言すると、いつものように私の足元で丸くなり、目を閉じた。
本当に、ちゃっかりしているんだから。
私はギターケースを開け、ゆっくりとチューニングを合わせる。
ポロン、ポロンという単音が響くだけで、周囲の人たちが「おっ、始まるぞ」という顔をして足を止めてくれる。
最初の頃は、自分の身を守るため、不安を紛らわすための演奏だった。
元の世界では、人間関係から逃げるための盾としてギターを抱えていた。
でも、今は違う。
私のギターは、この街の人たちと心を通わせるための架け橋だ。
私は深呼吸をして、明るく軽快なカントリー調の曲を弾き始めた。
チャカチャカ、ジャーン!
リズムに乗って弦を叩くように弾くと、広場の空気が一気に明るく跳ねる。
「おおっ、今日はなんだか楽しい曲だねぇ!」
「ほら、お前たちも手拍子しな!」
お母さんに手を引かれた子供たちが、キャッキャと笑いながら私の前に集まってくる。
大人の商人たちも、荷下ろしの手を少しだけ止めて、足でリズムを取ってくれていた。
みんなが笑っている。私の音楽を聴いて、笑顔になってくれている。
ただそれだけのことが、こんなにも嬉しい。
私は目を閉じ、溢れそうになる感情をすべて指先に込めて、思い切り弦をかき鳴らした。
私の新しい日常は、こんなにも優しくて、温かい音に満ちている。
* * *
【黒猫の視点】
(……素晴らしい。今日の音の弾み具合は、今までで一番だ)
(弦の軽やかな振動が、大気を伝って俺の全身の毛細血管まで染み渡っていく。この至福のゆらぎ。これこそが、俺の求めていた極上のマタタビだ)
俺は女神像の影で丸くなりながら、心地よい微睡みの中にいた。
あの娘の心の安定が、そのまま音色に表れているのだろう。
街の連中もすっかりあの娘を気に入り、俺のシマの住人として受け入れているようだ。
(悪くない。俺の専属楽士がチヤホヤされるのは、俺にとっても鼻が高いというものだ)
そう思って気持ちよく尻尾を揺らした、その時だった。
ピクッ、と俺の耳が嫌な音を拾った。
広場の隅にある、下水道へと続く鉄格子の奥から、ジリジリと這い上がってくる不快な気配。
(……チッ。どこのドブネズミかと思えば、本物の『大ネズミ(ジャイアントラット)』か)
薄く目を開けると、鉄格子の隙間から、野良犬ほどもある巨大なネズミの魔物が這い出してくるところだった。
人々はあの娘の明るい演奏と手拍子に夢中で、背後から忍び寄る魔物に誰も気づいていない。
大ネズミの濁った赤い目が、広場の真ん中で無防備にギターを弾くあの娘に狙いを定めた。
(……馬鹿め。誰の楽士に牙を剥こうとしているのか、分かっていないらしい)
俺は音もなく立ち上がり、影から影へと瞬時に跳躍した。
人々が手拍子に合わせて「ワッ!」と盛り上がったその一瞬の隙を突く。
大ネズミが娘に向かって飛びかかろうと後ろ足に力を込めた瞬間、俺はその巨大な頭の上に音もなく舞い降りた。
「ヂィッ!?」
「俺の極上タイムを邪魔するドブネズミは、下水道の底で泥でも啜っていろ」
俺は魔力を込めた右前足で、大ネズミの眉間を容赦なく踏み抜いた。
必殺・『肉球スタンプ』である。
ドゴォッ!!
鈍い衝撃音と共に、大ネズミの巨体は石畳にめり込み、そのままピクピクと痙攣して動かなくなった。
手拍子の音とギターのストロークにかき消され、誰一人として今の惨劇に気づいていない。
(ふん。他愛もない。俺の肉球の弾力と破壊力を舐めるなよ)
俺は大ネズミの尻尾を咥え、誰にも見られないうちに、再び下水道の鉄格子の奥へと放り投げた。
証拠隠滅も完璧だ。
毛繕いをして埃を払い、俺は何事もなかったかのように娘の足元の定位置へと戻った。
ちょうど曲が終わりのフレーズに入り、ジャーン!という明るい和音で締めくくられる。
広場は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
あの娘は、少し照れくさそうに笑いながら、何度も何度も頭を下げている。
『おい人間。今日の演奏はなかなか良かったぞ。さあ、約束通りその赤い果実を割れ』
俺が前足でリンゴをチョイチョイとつつくと、娘はクスクスと笑ってリンゴを半分に割ってくれた。
(まったく。俺という最強の用心棒がいなければ、今頃どうなっていたことか)
俺は心の中で呆れながらも、娘が差し出してくれた甘いリンゴを、美味そうに齧ったのだった。
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次回お楽しみに。




