第8話:宿屋のふかふかベッドと、ギターケースを占拠する相棒
オレンジ色に染まった夕日が、街の石畳に長い影を落とす時間。
広場に立つ魔法具の街灯に、ぽつりぽつりと温かい光が灯り始めた。
「ふぅ……」
私は小さく息を吐きながら、最後の一曲を弾き終えた。
今日一日で集まった硬貨の数は、昨日よりもさらに増えている気がする。
『よし、今日の稼ぎも上々だな。人間、よくやったぞ』
足元で伸びをした黒猫が、満足げに尻尾を揺らした。
その言葉を合図に、私はギターの表面についた見えない埃を優しく払い、ケースの中へとそっとしまう。
チャリン、チャリン。
ケースの隅に集めた硬貨が、心地よい音を立てた。
この重みは、私がこの世界で生きていけるという確かな証だ。
『さあ、帰って飯にするぞ。今日は一段と腹が減っているんだ。女将に一番美味い肉を要求しろ』
黒猫がピンと尻尾を立てて歩き出し、私は背中にずっしりとした重みを感じながらその後を追った。
夕暮れの街は、昼間とはまた違った顔を見せる。
仕事を終えた商人や冒険者たちが酒場へと向かい、あちこちから香ばしい肉の焼ける匂いと陽気な笑い声が聞こえてくる。
すれ違う人たちの何人かが、私を見て軽く手を振ってくれた。
私もペコリと頭を下げて返す。
言葉は通じなくても、顔見知りが増えていくのは純粋に嬉しかった。
いつもの宿屋に着くと、一階の酒場はすでに大賑わいだった。
ジョッキがぶつかる音、豪快な笑い声、肉を焼く煙の匂い。
最初は怖かったこの空間も、今では「帰ってきた」と安心できる場所になっている。
カウンターの奥にいた女将さんが私に気づくと、パッと花が咲いたような笑顔を見せた。
「あらあら、お帰りなさい! 今日も広場でいい音を鳴らしてたらしいじゃないか!」
言葉の意味は正確には分からないけれど、身振り手振りとその明るい声で、私を歓迎してくれていることは伝わってくる。
私はポケットから銀貨を取り出し、カウンターにコトリと置いた。
宿泊代と、夕食代。
女将さんはそれを受け取ると、ウインクをして厨房の奥へと引っ込んだ。
すぐに出てきたのは、いつもの麦粥ではなく、大きなお肉の塊がゴロゴロと入った熱々のシチューだった。
それに、ふかふかの白いパンと、甘そうな木の実のタルトまでついている。
「あ……」
私が驚いて目を丸くしていると、女将さんは「おまけだよ!」というように片目をつぶり、親指をグッと立ててみせた。
どうやら、広場での私の演奏の評判が、この宿屋にまで届いているらしい。
『ほう、なかなか分かっている女将じゃないか。俺の指導の賜物だな』
黒猫も自分用のお皿に盛られた山盛りの肉を見て、ご機嫌に喉を鳴らしている。
私は両手を合わせて小さく「いただきます」と呟き、シチューを一口食べた。
お肉は口の中でほろほろと崩れ、野菜の甘みが濃厚なスープに溶け込んでいる。
美味しすぎて、思わず頬が緩んでしまった。
温かい食事でお腹を満たすと、一気に一日の疲れが押し寄せてきた。
女将さんに深く頭を下げてお礼を伝え、私たちは二階の自分の部屋へと向かった。
ギィ、と古びた木のドアを開ける。
狭いけれど、綺麗に掃除された私だけの部屋。
私は背中のギターケースを床に下ろすと、そのままベッドへダイブした。
「んんーっ……」
声にならないうめき声が漏れる。
今日のシーツは、いつもよりお日様のいい匂いがした。
女将さんが、天気のいい昼間に干しておいてくれたのかもしれない。
ふかふかのベッドに顔を埋めていると、体の芯からじんわりと疲れが溶け出していくのを感じる。
元の世界では、学校から帰ってもこんな風に安心できる場所はなかった。
異世界に来てからの毎日は、大変だけれど、とても充実している。
しばらくそのままの姿勢でぼーっとしてから、私はむくりと起き上がった。
寝る前に、明日のためにギターのメンテナンスをしておかなければ。
床に置いたケースを開け、ギターを取り出して柔らかい布で優しく拭く。
一日中外で弾いているから、結構埃がついているのだ。
丁寧に拭き終わり、さてケースに戻そうとしたその時だった。
スッ。
『……ふぅ。やはりこの極上のマタタビ箱の寝心地は最高だな』
見事な身のこなしで、黒猫が空っぽのギターケースの中に滑り込んだ。
そして、内張りの赤いベルベット生地に顔を擦り付け、ぐるぐると喉を鳴らし始める。
「あ……」
私は少し困って、ギターを持ったまま固まってしまった。
そこは、私の大事な相棒を入れる場所なんだけど。
『なんだ人間。そんなところに突っ立っていないで、お前もさっさとその柔らかい布の上で寝ろ』
黒猫は薄く目を開け、ベッドの方を顎でしゃくった。
私は身振り手振りで「ギターをしまいたいんだけど」と伝えてみる。
しかし、黒猫は全く退く気配を見せない。
『断る。この箱に染み付いた音の振動と、この赤い布の感触は、俺の魔力核を癒やすのに最適なのだ』
そう言って、黒猫はわざとらしく大きな欠伸をし、丸くなって目を閉じてしまった。
……完全に寝たふりだ。
「……もう」
私は声の出ない苦笑いを浮かべた。
仕方がない。今日だけは、ギターをケースの外に出して壁に立てかけておくことにしよう。
私はそっとギターを安全な場所に置き、自分もベッドへと潜り込んだ。
ランプの灯りを消すと、窓から青と赤の月明かりが差し込んでくる。
『……おい人間』
暗闇の中、ケースの中から黒猫の低い声が聞こえた。
『今日もいい音だったぞ。明日も期待しているからな』
その言葉に、私は胸がぎゅっと温かくなるのを感じた。
声が出なくても、言葉が通じなくても、私の音を待ってくれている存在がいる。
私は真っ暗な天井に向かって、小さくコクと頷いた。
おやすみなさい。また明日、いい音を響かせるね。
心地よい疲労感に包まれながら、私はゆっくりと目を閉じた。
* * *
【黒猫の視点】
(……ふん。ようやく寝たか)
ベッドの方から聞こえてくる、娘の規則正しい寝息を確認し、俺は薄く目を開けた。
(まったく、無防備な奴だ。俺がこうして寝ずの番をしているとも知らずにな)
この赤い布の張られた木箱の中は、確かに居心地がいい。
娘の奏でる音の余韻が染み付いていて、俺の闘争本能を心地よく落ち着かせてくれる。
だが、俺がこの箱を陣取っている理由はそれだけではない。
この箱は、あの娘にとって命の次に大切なものだ。
だからこそ、俺が直接この中で眠ることで、俺の魔力を箱の隅々にまで染み込ませているのだ。
こうしておけば、あの娘が背中に箱を背負っている限り、並の魔物や悪意を持った人間は、恐れをなして近づくことすらできない。
いわば、俺特製の『魔除け』の結界というわけだ。
(……この街は平和に見えるが、それでもネズミは湧くからな)
今日だって、広場の裏側でこそこそとあの娘の荷物を狙っていたチンピラを二人ほど、俺の肉球で夜空の星にしてやったばかりだ。
あの娘は、ただ笑ってあの箱を弾いていればいい。
そのために俺が、裏の面倒事は全て片付けてやる。
俺は暗闇の中で、静かに目を光らせた。
窓の外から吹き込む夜風の匂いに、危険な気配は混じっていない。
(よし。今夜は平和なようだ。……少しだけ、俺も目を閉じるとしよう)
俺は赤いベルベットの感触を肉球で確かめながら、心地よいマタタビの余韻と共に深い眠りへと落ちていった。
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次回お楽しみに。




