第7話:常連の冒険者と、不器用な差し入れ。少しずつ広がる世界
異世界での生活が始まって、一週間が経とうとしていた。
最初は右も左も分からず、ただ恐怖と不安に押しつぶされそうだったけれど、人間の適応力というのは案外すごいものらしい。
毎朝、宿屋の女将さんが作ってくれる朝食の匂いで目を覚ます。
広場へ向かう道すがら、すれ違う商人たちと(言葉は分からないけれど)挨拶代わりに軽く会釈を交わす。
そして、いつもの噴水前でギターケースを開き、相棒の黒猫と一緒に音楽を奏でる。
それが、私の新しい『日常』になりつつあった。
今日も広場には、爽やかな朝の風が吹き抜けている。
私は丸太のような木の椅子に腰掛け、ゆっくりとアルペジオを弾き始めた。
ポロン、と澄んだ音が空気に溶けていく。
ギターを弾きながら周囲を見渡す余裕も、少しずつ出てきた。
荷馬車を引く人、色とりどりの果物を並べる露店のおばさん、走り回る犬の耳を持った子供たち。
私の演奏をBGMにして、この街の活気ある一日が動いている。
その風景の一部になれていることが、なんだかとても誇らしく、そして嬉しかった。
『ふむ。今日の弦の響きは、お前の心の穏やかさをよく表しているな』
足元で丸くなっていた黒猫が、薄く目を開けて尻尾をパタンと揺らした。
『その調子だ、人間。俺の極上のマタタビを、もっと広場の隅々にまで行き渡らせろ』
偉そうな口調にはもうすっかり慣れた。
私はクスッと笑い、黒猫の要求に応えるように、少しだけストロークのボリュームを上げた。
チャカチャカと軽快なリズムを刻み終え、最後の和音をジャーンと響かせて曲を締めくくる。
わぁっ、と周囲から温かい拍手が湧き上がった。
チャリン、チャリンと硬貨がケースに投げ込まれる音。
私は立ち上がり、いつものように深く頭を下げた。
その時、人混みを掻き分けるようにして、一つの大きな影が私の前に進み出てきた。
「おお、今日もいい音だったぜ、お嬢ちゃん!」
ドスの効いた野太い声。
見上げると、そこには身長二メートルはありそうな、顔に大きな傷のある厳ついおじさんが立っていた。
背中には身の丈ほどもある巨大な両手剣を背負い、革と鉄でできた重そうな鎧を着込んでいる。
数日前、初めて私の演奏を聴いて、温かいスープとパンを差し入れてくれた冒険者のおじさんだ。
あの日以来、おじさんはすっかり私の常連客(?)になり、時間があればこうして広場に顔を出してくれるようになっていた。
おじさんはニカッと白い歯を見せて笑うと、大きな手を私の前に差し出した。
その手には、木でできたコップが二つ握られている。
「ほら、今日は少し肌寒いからな。甘くて温かい果実茶だ。喉にいいぞ」
言葉の意味は正確には分からない。
けれど、コップから立ち上る湯気と、甘酸っぱい果実の香りで、それが温かい飲み物だということはすぐに理解できた。
「あ……」
私が恐る恐るコップを受け取ると、おじさんはもう一つのコップを足元の黒猫の前にコトリと置いた。
『ほう。気が利くデカブツじゃないか。どれ、毒見をしてやろう』
黒猫は偉そうに鼻を鳴らすと、ペロペロと果実茶を舐め始めた。
「はははっ! お嬢ちゃんの使い魔は、今日も愛想がないなぁ!」
おじさんは黒猫が人間の言葉を喋る(ように聞こえているのかは分からないけれど)のを気にする様子もなく、豪快に笑って私の頭をポンポンと大きな手で撫でた。
私は両手で包み込んだコップから、一口だけ果実茶を飲んでみた。
ほんのりと甘くて、少しだけ酸味のある優しい味が、胸の奥まで温めてくれる。
美味しい。そう伝えたくて、私はおじさんを見上げて満面の笑みでコクコクと頷いた。
「おう、美味いか! そりゃよかった!」
おじさんは満足そうに頷くと、ふと自分の胸をドンと親指で叩いた。
「俺は、ガルドだ。ガ・ル・ド」
ゆっくりと、はっきりとした口調で自分の名前らしきものを口にする。
そして、今度は私の方を指差して、小首を傾げた。
『君の名前は?』と聞いているのだ。
「……っ」
私の喉が、キュッと締まった。
名前。私の名前。
言わなきゃ。せっかくこうして、言葉を教えてくれようとしているんだから。
「わ、たし……」
かすれた空気が喉から漏れる。
でも、その先が続かない。
声を出そうとすればするほど、過去のトラウマ――心無い言葉をぶつけられ、笑われた記憶がフラッシュバックして、息が苦しくなる。
「……っ、ごめんなさい……」
結局、私は俯いてフルフルと首を横に振ることしかできなかった。
ギターを弾く時はあんなに堂々とできるのに、いざ声を出そうとすると、私は元の臆病な自分のままだった。
気まずい沈黙が落ちる。
せっかく親切にしてくれたおじさんを、困惑させてしまったかもしれない。
そう思って身を縮こまらせた時だった。
『……こいつは、今は声が出ないんだ。だが、お前の気持ちはちゃんと伝わってるぞ、ガルドとやら』
足元の黒猫が、静かな、けれど通る声でそう言った。
「お、おう? 猫が喋ったのか?」
『俺はただの猫ではない。伝説の……いや、今はただの専属マネージャー兼、用心棒だ』
黒猫は尻尾を揺らしながら、おじさん――ガルドさんを見上げて堂々と言い放った。
そして、前足で私のギターケースをポンと叩く。
『こいつの言葉は、この木箱の音色だ。名前なんてなくても、こいつの音はお前たちに届いているだろう?』
ガルドさんは目を丸くして黒猫を見ていたが、やがてフッと優しく微笑んだ。
「……そうだな。お嬢ちゃんの音楽は、俺たち冒険者の荒んだ心を癒やしてくれる、最高の魔法みたいなもんだ」
ガルドさんは再び大きな手で私の頭を撫でてくれた。
今度は、さっきよりもずっと優しく、労るような手つきで。
「無理に話さなくていいさ。俺たちは、お嬢ちゃんのその不思議な楽器の音が大好きなんだからな」
その言葉(意味は分からなくても、込められた温かい感情)に、私の目からポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
言葉が通じなくても、声が出せなくても。
私の音は、ちゃんとこの世界の人たちに届いている。
焦らなくてもいい。ゆっくり、自分のペースで生きていけばいいんだ。
私は袖口で涙を拭うと、ギターを抱え直し、ガルドさんに向けて弦を弾いた。
ジャーン、と明るく力強い和音が響く。
『ありがとう』という気持ちを、精一杯音に乗せて。
「おおっ! いい返事だ!」
ガルドさんは嬉しそうに笑い、広場の人々もつられて笑顔になる。
『ふん、泣き止んだならさっさと次の曲を弾け。俺のマタタビタイムはまだ終わっていないぞ』
足元で不器用に照れ隠しをする黒猫に、私は心からの感謝を込めて微笑んだ。
焦らず、少しずつ。
私と黒猫の、そしてこの温かい街の人々との日々は、確かな絆を紡ぎながら進んでいく。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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次回お楽しみに。




