第5話:二日目の朝。いつもの広場と、裏で「お掃除」する黒猫
ギィッ、ギィッという、荷馬車の車輪が石畳を擦る音で目が覚めた。
チュンチュンという可愛らしい小鳥の鳴き声ではなく、クエッ、クエッという聞き慣れない野鳥の声が窓の外から聞こえてくる。
ゆっくりと身を起こし、固い木製ベッドの上で背伸びをした。
窓から差し込む朝日は少し眩しくて、空にはまだうっすらと青い月が残っている。
「……んん」
声にならない寝息を漏らしながら、私は自分が本当に異世界で朝を迎えたのだと実感した。
昨日の夜は泥のように眠ってしまったけれど、体の疲れはすっかり取れている。
ふと床に視線を落とすと、私の大切な赤いベルベットのギターケースの中で、黒い毛玉が丸まっていた。
スゥ、スゥと規則正しい寝息を立てている小さな相棒。
伝説の魔獣だか何だか知らないけれど、寝姿は完全にただの可愛い猫だ。
「……」
私は音を立てないようにベッドから降り、水差しに入った冷たい水で顔を洗った。
冷たさが心地よくて、頭が一気にクリアになる。
身支度を整え、制服のシワを手でパンパンと伸ばす。
それから、ギターケースの横にしゃがみ込み、黒猫の柔らかい頭を人差し指でそっと撫でた。
『にゃ……? ふわぁぁ……』
黒猫は大きな欠伸をして、琥珀色の目をぱっちりと開けた。
そして私を見ると、ピンと尻尾を立てて立ち上がる。
『おはよう人間。よく眠れたようだな。さあ、まずは腹ごしらえだ。俺の腹も限界に近い』
偉そうな口調に思わずクスッと笑い、私は頷いた。
昨日稼いだ銅貨を数枚ポケットに入れ、ギターケースを背負って一階の酒場へと降りていく。
朝の酒場は、昨晩の喧騒が嘘のように静かだった。
カウンターの奥から漂ってくる、焼きたてのパンと何かのスープの匂いがたまらなく食欲をそそる。
女将さんに銅貨を渡し、身振り手振りで朝食をお願いする。
出てきたのは、とろとろのチーズがかかった熱々のオートミールのようなお粥と、甘い果実水だった。
一口食べると、濃厚なチーズの塩気と麦の優しい甘さが口いっぱいに広がる。
美味しい。言葉は通じなくても、美味しいという感情は万国共通だ。
足元では、黒猫も自分用の小皿に盛られたお肉をガツガツと平らげていた。
自分の演奏で稼いだお金で、こうしてご飯を食べることができる。
元の世界ではただの趣味、あるいは逃避でしかなかった私のギターが、ここでは生きるための大切な「声」になっている。
その事実が、私の胸の奥をじんわりと温かくしてくれた。
朝食を終え、宿屋を出る。
朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、私たちは昨日と同じ噴水広場へと向かった。
広場はすでに多くの人で賑わっていた。
商人たちの威勢のいい声、子供たちの笑い声、そして噴水の水の音。
私は昨日と同じ、女神像の下の縁に腰を下ろし、ゆっくりとギターケースを開いた。
『よし。今日も頼むぞ、人間。俺の極上のマタタビタイムの始まりだ』
黒猫は早々に私の足元に陣取り、目を細めてゴロゴロと喉を鳴らし始める。
私は小さく深呼吸をして、ギターを構えた。
二日目の朝。少しだけこの世界に馴染めたような気がして、選んだのは穏やかで優しいアルペジオの曲。
ポロン、と最初の和音を鳴らす。
朝の澄んだ空気に、アコースティックギターの木の温かい音が溶けていく。
目を閉じ、指先の感覚だけに集中する。
昨日よりも指が軽く動く。私の心の中の穏やかな気持ちが、そのまま音に乗って広場に響き渡っていくのが分かった。
「おっ、昨日のお嬢ちゃんじゃないか」
「朝からいい音色だねぇ。心が洗われるよ」
目を開けると、昨日演奏を聴いてくれた人たちが、今日も足を止めてくれていた。
中には、笑顔で銅貨をケースに投げ入れてくれる人もいる。
私は嬉しくて、ペコリと頭を下げながら、さらに心を込めて演奏を続けた。
やっぱり、音楽ってすごい。
言葉なんてなくても、こうして誰かと繋がることができるんだから。
私は再び目を閉じ、気持ちよく曲のサビへと入っていった。
* * *
【黒猫の視点】
(ふむ。今日の音色は、昨日よりもさらに澄んでいて心地よい)
(弦の振動が足元から伝わり、俺の魔力核を極限までリラックスさせていく。たまらん。このまま一生ここで昼寝をしていたい気分だ)
(……しかし、どうやらこの街には、俺の極上の時間を邪魔したがる阿呆が多すぎるらしい)
俺は薄く目を開け、広場の端からこちらへ近づいてくる三人組の男たちを睨みつけた。
革の鎧を着崩し、腰に安っぽい剣を下げた、いかにもなチンピラ冒険者だ。
「おいおい、見ない顔だな。ここで商売するなら、俺たち『赤牙団』にみかじめ料を払ってもらわねえとなぁ」
ニヤニヤと下品な笑みを浮かべ、男たちが俺の楽士に近づいてくる。
だが、あの娘は目を閉じたまま、気持ちよさそうにギターを弾き続けていて全く気づいていない。
(あのバカ。少しは警戒心を持てと言いたいところだが……まあいい。あのマタタビを中断されるのは俺も不本意だ)
俺は音もなく立ち上がり、娘の足元からスッと影の中へ溶け込んだ。
そのまま男たちの背後に回り込み、ニヤケ面のリーダー格の肩にポンと前足を置く。
「あ? なんだこの黒猫……ひっ!?」
振り返った男の顔が、恐怖に引き攣る。
当然だ。俺は今、伝説の魔獣としての『本気の殺気』をほんの少しだけ解放しているのだから。
周囲の人間には気づかれないよう、こいつら三人にだけ、俺の姿が巨大な死神に見えているはずだ。
「いいか、ネズミ共。俺の安眠スポットに近づく奴は、ただでは済まさん」
「ひ、ひぃぃぃっ! ば、化け物ぉぉっ!」
悲鳴を上げて逃げ出そうとした三人組。
だが、遅い。
ドカッ! バキッ! ドゴォォッ!
俺は目にも止まらぬ連続『肉球フルスイング』を放ち、三人まとめて広場の裏路地へと蹴り飛ばした。
空中で綺麗に弧を描いた三人は、そのまま路地裏のゴミ箱に頭から突っ込み、綺麗に星となった。
(ふん。これでよし。俺のシマの風紀は、俺が守らねばな)
俺は何事もなかったかのように広場に戻り、再び娘の足元で丸くなった。
ちょうど曲が終わりを迎え、娘がゆっくりと目を開ける。
チャリン、チャリンと、今日もたくさんの硬貨がケースに投げ込まれた。
娘は不思議そうに首を傾げ、俺を見下ろした。
『ねえ、今なんか、男の人の悲鳴みたいなのが聞こえなかった?』という顔をしている。
「ただの野良犬の遠吠えだ。気にするな。それより、次の曲を弾け」
俺がそう言って尻尾を振ると、娘は安心したように微笑み、再びギターの弦に指を置いた。
まったく、世話の焼ける楽士だ。
だが、この極上の音色のためなら、いくらでも裏でお掃除をしてやるとしよう。
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次回お楽しみに。




