第15話:声が出なくなった過去と、ずっと傍にあった古いギター
ギルドから宿屋に帰ってきた私は、冷たい水で顔を洗い、ベッドに力なく倒れ込んだ。
窓の外には、いつものように赤と青の二つの月が浮かび、静かに街を照らしている。
床に置かれた赤いベルベットのギターケースの中では、黒猫が丸くなってスゥスゥと規則正しい寝息を立てていた。
今日ばかりは、その可愛らしい寝顔を見ても、胸の奥のズキリとした痛みが消えなかった。
『歌は、歌わないのかい?』
ガルドさんの不器用で真っ直ぐな言葉が、何度も頭の中でリフレインする。
悪気がないのは分かっている。むしろ、私の音楽をもっと楽しみたいという、純粋な好意だった。
だからこそ、応えられない自分がひどく情けなかった。
私はゆっくりと身を起こし、壁に立てかけてあるアコースティックギターを引き寄せた。
所々塗装が剥げ、細かい傷が無数についている、使い込まれた古いギター。
これを手に入れたのは、私が声を失ってから少し経った頃だった。
元の世界にいた中学生の頃、私は歌うことが大好きだった。
決して上手くはなかったけれど、好きなアーティストの曲を口ずさんでいる時だけは、自分が特別な人間になれたような気がしたからだ。
あの日も、教室の隅で一人、イヤホンから流れるお気に入りの曲に合わせて小さく歌っていた。
誰も聞いていないと思っていた。自分の世界に浸っていただけだった。
『ねえ、ちょっとやめてくれない?』
突然、イヤホンを乱暴に外された。
見上げると、クラスの中心にいるような派手な女の子たちが、冷たい目をして私を見下ろしていた。
『さっきから変な声出して、気持ち悪いんだけど』
『空気読めないの? 自分が上手いとでも思ってるわけ?』
クスクスという嘲笑。周囲のクラスメイトたちの、見て見ぬふりをするような痛い視線。
それは、狭い教室という世界で生きる私にとって、死刑宣告にも等しいものだった。
顔がカッと熱くなり、次に全身の血がサッと引いていくのが分かった。
何か言い返さなきゃ。謝らなきゃ。
そう思ったのに、喉の奥がキュッと締まり、ヒュッと掠れた音しか出なかった。
それ以来、私は声を出せなくなった。
心因性失声症。病院の先生はそう言ったけれど、私にはただ、見えない透明な壁が喉を塞いでいるようにしか感じられなかった。
歌うことはおろか、日常の挨拶すらまともにできなくなった私は、ますます周囲から孤立していった。
そんな息の詰まるような灰色の毎日の中で、偶然立ち寄ったリサイクルショップの片隅に、このギターは埃を被って置かれていた。
お小遣いをはたいて買ったその古い楽器は、声を出せない私にとって、唯一の「出口」になった。
弦を弾くと、木のボディが震える。
その振動を胸に抱え込んでいると、まるで自分の体の中から声が出ているような錯覚に陥ることができた。
悲しい時、苦しい時。
私はいつだって部屋に引きこもり、この古いギターをかき鳴らした。
言葉の代わりにコードを弾き、涙の代わりにメロディを紡いだ。
気がつけば、このギターは私の声そのものになっていた。
「……」
私はベッドの上でギターを抱きしめ、その傷だらけのボディにそっと頬を擦り寄せた。
この世界に来てから、たくさんの温かい人たちに出会った。
私のギターの音を聴いて、笑ってくれて、拍手をしてくれる。
温かいスープをくれて、不器用な差し入れをくれる。
みんな、声が出ない私をそのまま受け入れてくれている。
だからこそ、私はいつか、自分の声で「ありがとう」を伝えたいと思うようになっていた。
でも、過去の呪縛はそう簡単には解けてくれない。
あの日の嘲笑がフラッシュバックするたびに、私の喉は硬く閉ざされてしまうのだ。
私は小さく息を吐き、静かに目を閉じた。
今はまだ、無理だ。
でも、いつかきっと。この温かい街の人たちのために。
* * *
【黒猫の視点】
(……チッ。どうにも寝覚めが悪い)
俺は赤いベルベットのケースの中で、薄く目を開けた。
ベッドの上で丸くなり、木箱を抱きしめるようにして眠っている娘の寝顔には、まだ微かな涙の跡が残っている。
(あのガルドという筋肉ダルマめ。悪気はないのだろうが、俺の専属楽士に無神経な言葉をかけおって)
娘の魔力の揺らぎを見れば分かる。
こいつは今、深い悲しみと過去の恐怖に囚われている。
いつも広場で聴かせてくれる、あの極上のマタタビの音色とは程遠い、冷たくて暗い感情だ。
(俺の肉球は、どんな凶悪な魔物でも一撃で粉砕できる)
(だが……こいつの心の中にある『過去の傷』とやらは、物理的に殴り飛ばすことができないから腹立たしい)
俺はケースから音もなく抜け出し、ベッドの上の娘の胸元へと軽やかに飛び乗った。
娘はピクッと身を震わせたが、俺の匂いに安心したのか、再びスゥッと寝息を立て始めた。
『おい人間。お前は俺が選んだ、世界で一番の楽士だぞ』
俺は誰にも聞こえない声で呟き、娘の顔のすぐ近くで、喉の奥を大きく鳴らし始めた。
ゴロゴロ、ゴロゴロ。
俺たち伝説の魔獣が発するこの振動は、周囲の魔力を安定させ、精神を深く癒やす『治癒の魔法』の側面を持っている。
普段は俺自身がリラックスするために鳴らしているが、今日は特別だ。
(泣くくらいなら、俺の毛皮の温もりとこの振動で、嫌な記憶ごと上書きしてしまえ)
俺は娘の首筋に柔らかい頭を擦り付けながら、夜が明けるまでずっと、治癒のゴロゴロ音を鳴らし続けた。
こいつがいつか、過去の傷を乗り越えて、新しい音――いや、『声』を紡ぐ日が来るまで。
俺は最強の用心棒として、この娘の不器用な歩みを、世界の果てまで守り抜いてやるつもりだった。
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次回お楽しみに。




