第10話:【黒猫の裏側】路地裏のチンピラは星になり、今日も彼女の音色が響く
この街に来てから、季節が少しだけ進んだような気がする。
朝夕の風には微かな冷たさが混じるようになったけれど、日中の広場に降り注ぐ日差しは相変わらず暖かくて優しい。
石畳の道を歩く私の足取りは、随分と軽くなっていた。
背中のギターケースの重みは変わらないはずなのに、心が羽のように軽いのだ。
「おはよう、お嬢ちゃん。今日も一番乗りだね」
「この子の音が聴こえると、街がパッと明るくなる気がするよ」
噴水広場に到着すると、露店の準備をしている顔馴染みのおじさんやおばさんたちが、笑顔で手を振ってくれる。
言葉の意味は未だにぼんやりとしか分からないけれど、その声色や表情から伝わってくる温もりは、痛いほどに理解できた。
私も笑顔でペコリと頭を下げ、いつもの女神像の下へと向かう。
そこには今日も、誰かが置いてくれた木箱のテーブルと、差し入れの小さな花束が飾られていた。
『ふむ。すっかりこの街の顔役気取りだな、人間』
私の足元を歩いていた黒猫が、花束の匂いをフンフンと嗅ぎながら呆れたように言った。
『だが、悪い気はしない。俺の選んだ専属楽士が評価されるのは、俺の眼力がいかに優れているかの証明だからな』
相変わらずの偉そうな口ぶりに、私はクスッと笑って肩をすくめた。
この小さな相棒がいなければ、私は今頃どうなっていたか分からない。
言葉も通じない異世界で、私がこうして笑っていられるのは、間違いなく彼のおかげだ。
私は木箱の隣に腰を下ろし、丁寧にギターケースを開けた。
赤いベルベット生地の上に広がる、古いアコースティックギター。
弦を弾き、チューニングのポロンという音を響かせると、広場の空気がスッと静まるのが分かった。
皆が、私の音を待ってくれている。
元の世界では、誰の耳にも届かないと思っていた私の音が、ここではこんなにも求められている。
私は深く息を吸い込み、ゆっくりと目を閉じた。
今日の一曲目は、少しアップテンポで明るい、ケルト音楽のようなリズムの曲。
ジャカジャカと軽快に弦を弾き始めると、すぐに周囲から手拍子が湧き起こった。
私が足でリズムを取ると、子供たちが真似をしてその場でピョンピョンと跳ねる。
音楽が、人々の心を繋いでいく。
声が出せない私にとって、この瞬間こそが本物の「会話」だった。
私は全身でギターの振動を感じながら、喜びを爆発させるようにメロディを紡いでいった。
* * *
【黒猫の視点】
(……たまらん。今日のストロークは一段とキレがある)
(弦の弾ける音が空気を震わせ、俺の魔力核を優しく、そして力強く撫で回す。この極上のマタタビの波に、永遠に身を委ねていたい……)
俺は女神像の影という特等席で、目を細めて至福の時に浸っていた。
娘の精神状態が安定している証拠だ。弾き出される音色には迷いがなく、ただ純粋な喜びに満ちている。
だが、この街の平和な空気にあてられて、勘違いをしている馬鹿共がまた現れたらしい。
(……チッ。どこの田舎から流れてきたゴロツキか知らんが、ひどく耳障りな足音だ)
薄く目を開けると、広場の隅からこちらを品定めするように見つめる五人組の男たちがいた。
刃こぼれした剣や薄汚れた革鎧。まともな冒険者ではない。他の街を追われて流れてきた、野盗崩れのチンピラ共だ。
「おい見ろよ、あんなガキが随分と金を集めてやがる」
「あんな不思議な楽器、裏に流せば金貨数十枚にはなるぞ。それにあの小娘も……へへっ」
下劣な笑みを浮かべ、男たちがジリジリと俺の楽士に近づいてくる。
娘は演奏に完全に没頭しており、周囲の熱気も相まって、迫り来る悪意に全く気づいていない。
(あの馬鹿娘。少しは周囲を警戒しろと毎日言っているのに、本当に無防備な奴だ)
だが、まあいい。
あの娘は、あのまま気持ちよく笑って弾いていればいいのだ。
俺の極上のマタタビに泥を塗ろうとする輩は、この俺が全て排除する。
俺は音もなく立ち上がり、広場の喧騒に紛れて影から影へと跳躍した。
男たちが娘の背後に回り込もうと、薄暗い路地裏を抜けようとしたその瞬間。
「……あ?」
先頭を歩いていた男が、目の前に立ち塞がる小さな黒い影に気づいて足を止めた。
「なんだこの黒猫は。邪魔だ、どけ!」
男が俺を蹴り飛ばそうと足を振り上げた、その時。
『俺の安眠スポットを荒らそうとするドブネズミ共。その汚い足を、俺の楽士に向けるな』
俺は魔力を解放し、男たちの眼前にだけ『伝説の魔獣』としての巨大で恐ろしい幻影を見せつけた。
路地裏の空気が一瞬にして凍りつき、圧倒的な死のプレッシャーが五人を押し潰す。
「ひ、ひぃぃぃっ!? ば、化け物ぉぉっ!!」
「ご、ごめんなさ……っ!」
命乞いの言葉など、最後まで聞く耳は持たない。
俺は空中に跳び上がると、五人の顔面に向かって神速の連続攻撃を叩き込んだ。
バキィッ! ドゴォッ! メシャァッ!!
『必殺・肉球乱れ打ちフルスイング』。
俺の柔らかくも強靭な肉球が、男たちの顎を次々と正確に打ち抜いていく。
五人の男たちは悲鳴を上げる間もなく、文字通り夜空(今は昼間だが)の星のように、路地裏の奥深くへと吹き飛んでいった。
ゴミの山に突っ込み、綺麗に積み重なって気絶している。
(ふん。俺のシマで悪さをしようなど、百年早い)
俺は前足の埃をパンパンと払い、何事もなかったかのように広場へと戻った。
ちょうど、娘の曲がクライマックスを迎え、ジャーン!という華やかな和音と共に演奏が終わるところだった。
割れんばかりの拍手と、歓声。
そして、チャリンチャリンとケースに降り注ぐ、大量の硬貨の雨。
娘は少し息を弾ませながら、満面の笑みで何度も何度も頭を下げていた。
その笑顔を見て、俺は小さく鼻を鳴らした。
『おい人間。今日の演奏は、まあまあだったぞ。だが、まだまだ俺を満足させるには足りんな』
足元に戻ってきた俺に気づき、娘は嬉しそうに目を細めてしゃがみ込んだ。
そして、俺の頭を優しく撫でてくれる。
(……まったく。世話の焼ける楽士だ)
俺はわざとらしく顔を背けながらも、喉の奥でゴロゴロと満足げな音を鳴らしてやった。
声が出なくても、言葉が通じなくても。
この広場に響く彼女の音色は、確実にこの街の連中を魅了している。
そして、その音色を誰よりも愛しているのは、間違いなくこの俺だ。
「ありがとう」と、声にならない口の動きで娘が微笑む。
(……ああ。明日も、俺のためにその極上の音を響かせろ)
見知らぬ異世界で始まった、言葉のいらない私たちの日常。
私のギターと、偉そうな相棒の黒猫がいれば、この先もきっと大丈夫だ。
私は胸いっぱいの希望を抱いて、次の曲のコードをそっと押さえた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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次回お楽しみに。




