奪われた囁きの微光 第2章 聞き取り ④ 前半
【 フリードリヒ夫妻、マデリン、マリー 】
通路の先から、張りつめた女の声が突き抜けてきた。
重々しい石造りの廊下には、葬儀用に掲げられた黒と銀のドレープが垂れ、そこに響く声は鋭く反響して耳を打つ。
待機室の扉は開け放たれ、喪服姿の使用人たちが忙しげに出入りしている。
近づく一行の耳に、その声は一層鮮やかに届いた。
『……あんたには謝罪する謙虚さがないのかいっ!?』
カミーユがふと足を止めた。
「……姉上の声だな」
低く抑えた声の奥に、わずかな苦味が滲む。
「母上……居るね」
時同じく呟いたアントワーヌが肩をすくめ、半ば諦めたような声音でつぶやいた。
扉の内側では、六十代のマデリンが烈火の如き形相で立っていた。
ダークブラウンの長い髪は後ろで小さくシニヨンに束ねられ、家系を表す黄緑の瞳は怒りで鋭くなっている。黒の喪服に身を包んでなお、その背筋は剣のように真っ直ぐ。頬に涙の痕もあるが、今は怒りに紅潮していた。
対するのは二十代半ば、まだ若さが抜けきらないカトリーヌ。水色のボブヘアに、薄茶の瞳がぱっちりと輝いている。
しなやかな体をやや後ろに引き、挑むように顎を上げる姿は戦闘態勢を取っているかのようだった。
二人の間に走る空気は、冷たい稲妻のよう。
その様を周囲の参列者たちは遠巻きに眺め、気まずさと好奇心の入り混じった視線を向けていた。誰も口を挟まず、ただ成り行きを見守るしかない。
「ひどいことをおっしゃいますのね」
カトリーヌが扇で口元を隠し、薄く笑う。
「わたくしだって謝罪はいたしますわ……。
ですが、それは本当に謝罪が必要なときだけでございます」
「言い逃れなんて通用しないよ!」
マデリンは一歩踏み出し、声を張り上げた。
マデリンの娘マリーが、居たたまれない面持ちで母の後ろに控えている。
母よりも落ち着きと気品は漂うが、マデリンに物怖じしないカトリーヌの気の強さに押されていた。
「わたしはこの目で見たんだ。
あんたが、マリーのヴェールに脚をかけたところをっ!」
カトリーヌはわざとらしく首を傾げた。
「まあ……気のせいではありませんの?
御年配ともなれば視力も衰えると聞きますもの」
その挑発めいた物言いに、参列者の中から忍び笑いが漏れた。
「あんた以外に脚を曝け出した人は居やしないよ!」
「クスッ」という小さな音が、カトリーヌの耳に痛いほど響く。参列者の殆どは古き思想を美徳としている。確実に彼女を嘲笑っているのが分かり、頬がかすかに赤く染まった。
「確かに……。
御年配にはお分かりにならないかもしれませんが、今のトレンドですのよ?」
カトリーヌは自らのスカートをつまみ上げ、脚線の一部を誇らしげに見せつける。
葬儀の場にそぐわぬ仕草に、マデリンの額に血管が浮いた。
「ド・ベルフォール家に対する冒涜だ!
あんたはこの家の名に泥を塗るつもりかい。いったい、どんな教育を受けてきたんだい!」
「叔母上様っ!」
声が割って入った。
若い男が颯爽と駆け寄り、カトリーヌの隣に立つ。
ダークブラウンの髪に黄緑色の瞳は、一目で親族と分かる。フリードリヒである。
その顔には決意と愛情の入り混じった光が宿っていた。葬儀の場にもかかわらず、その声は朗々と響いた。
「彼女は、わたくしが見初めた女性です。
このド・ベルフォール家の第三子の嫁として迎え入れた。この、わたくしが選んだ女性ですよ」
誇らしげに胸を張るフリードリヒに、カトリーヌの表情がふわりと緩む。
「……ですのよ?」
可憐な声音で囁くと、その場の空気が一瞬揺れた。
「何を言ってるんだい!」
マデリンの怒号が返る。
「この家に入る資格もないくせにっ!」
「母上様……もう、このへんで」
マリーがそっと袖を引く。その声には悲しげな響きがあった。
「いいや!
今日という今日は──」
マデリンがなおも言葉を続けようとしたとき、静かながらも通る声が場を裂いた。
「叔母上様、恐れ入ります」
凛とした姿のエリザベートだ。
視線が扉の方へと集まる。
そこには、黒衣の執事と共に、霊柩士のミレイアも姿を現していた。
彼女の存在は、怒気を孕んだ空間に一条の冷たい風を吹き込む。
「こちらがド・ベルフォール家のマデリン様と御息女マリ=アントワネット様。マデリン様は前当主様の姉君にあらせられます。そして──」
執事の落ち着いた声が続き、フリードリヒ夫妻の名も告げられる。
ミレイアは一歩進み出て、深く一礼した。
「本日、浄昇のお手伝いをさせていただきます。霊柩士のミレイア・ルゥ・ラヴァンと申します」
その声音には、不思議な威厳と柔らかさがあった。
つい先ほどまで激昂していたマデリンの口も自然と閉じられ、カトリーヌも小さく息を整える。
葬儀の場における立場と礼節が、場を静めていった。
執事が促す。
「別室をご用意しております。ご案内いたします」
一行が動き始める中、エリザベートがふと立ち止まり、ミレイアに声をかけた。
「少しよろしいかしら?」
「はい。エリザベート様、なんでしょう」
「参列者の皆さま、このままで良いのかしら?
再開が後日になるのなら……」
ミレイアは騎士団が参列者に身元確認をしている様子に目を向けた。
「まだしばらく続きそうですね……。
再開まで、もう少しお待ちいただくことになるかと」
「こんなこと、よくあるのかしら?」
エリザベートは不安げに眉を寄せる。
「わたくし、葬儀は幼い頃に経験したきりで……」
「意外と知られていませんが、実はよくあることです」
ミレイアが柔らかく微笑むと、エリザベートは目を丸くした。
「まあ……そうなの?」
「ただ、葬儀再開までもう少し時間がかかりそうです。
その旨だけでもお伝えすれば、皆様ご安心なさるかと思います」
「そうね、そうするわ」
エリザベートは深く息を吸い、参列者へと向き直る。
「本日は亡き父のためにお集まりいただき、誠にありがとうございます。
お忙しい中を……葬儀の再開までは、もう少しお時間を頂戴いたします。
その間、どうか亡き父の思い出話に花を咲かせていただければ幸いでございます」
彼女の声が、黒衣の空間にしっとりと響いた。
場の空気が和らぎ、ミレイアは静かにその背を見送った。