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ここにいる みずほ 3

最初のそれは、ほんの数時間も経たないうちに起きた。

何も感じなかった。だから、気づけなかった。

床に敷かれたマットにゆっくりと染みが広がっていくのを見て──ようやく、気づいた


「……やだ……」


小さく、けれど確かに、口から漏れた。

顔が熱くなった気がした。喉が詰まるような錯覚があった。

……でも、それは本当に起きているのか、自分でもわからなかった。

足元を見た瞬間、涙があふれた。

でも、涙の感触はなかった。

ただ、視界が滲んでいくのを見て、ようやく自分が泣いているとわかった。


「うそ……やだ、やだ……!」


どれだけ叫んでも、誰も来なかった。

しばらくしてようやくドアが開き、フードの女がわたしの姿を見て──ため息まじりに微笑んだ。


「……そっか。最初はそうなるよ。

ね、着替えよう。恥ずかしいことじゃないの。すぐ慣れるから、大丈夫」


そう思う余裕もなく、わたしはただ、濡れた服に包まれていた。

ぬるさも冷たさも感じないのに、まとわりつく存在だけが重く残っていた。

脚のあいだから、じっとりと服が変色していた。でも、不快感すら、なかった。

フードの女はしばらく黙ってわたしを見つめ、それから静かに、タオルを差し出して言った。


「……よし、きれいにしよう。服、脱げる? 自分で、できそう?」


わたしは何も言わず、タオルだけを受け取った。

……この手だけは、まだ自分で動かせる。

だから、タオルだけは、自分の意志で受け取りたかった。

おそるおそる、服に手をかける。

指先に力を込めても、その感覚はなかった。

濡れた下着を引き下ろした瞬間、喉の奥がきゅっと詰まった。

見られていることが、わかっていた。

恥ずかしい、と思った。けれど、心のどこか遠くでそう思っているだけで、

それはまるで、他人の感情みたいだった。

タオルを濡らして、太ももを拭う。腹を、腕を、胸を──

一つひとつ、確かめるように、慎重に。

ほんの少し、ほんのわずかでも。どこかに、感覚が残っているかもしれない。

……でも、そこには、何もなかった。

肌の温度も、布の濡れも、指先の重さも。

きのうまでわたしだったものが、どこにも見当たらなかった。

まるで、空気を撫でているみたいだった。

それでもわたしは、最後まで拭き続けた。

泣きながら、意味のない動作を、止めることができなかった。


その夜、わたしはシーツの隅で、ひとりで泣いた。

声も出さずに、ただ、ひたすら泣いた。

自分の体が自分じゃないこと。

なにも感じないのに、すべては進んでいくこと。

痛みも、温度も、重さも──どこにもないこと。


それから、二日……三日……

わたしはほとんど何も食べられず、飲めず、口もきけなくなった。

全身が空っぽになっていくような感覚。

壊れていくのがわかった。

……でも、もう、止められなかった。

それでも──


その日、ふいに、フードの女が近づいてきて、

わたしの肩に手を置いた。

その瞬間だった。

ひゅっと、息が詰まった。

胸の奥が、きゅっと縮まるように苦しくなった。

その手が、あたたかかったわけじゃない。

でも──たしかに、何かが触れている感覚が、走った。

──わたしは、ここにいる。

ようやく、そう思えた。

世界が、少しだけ、戻ってきた気がした。


「……っ……」


わたしはその手に縋るように顔を向ける。

フードの女は、やさしく微笑んで、

まるで愛しいものに語りかけるように、こう言った。


「……感じたでしょ? ねぇ、うれしかった?」


彼女は、わたしの手をそっと撫でた。

その指が肌を這うたびに、わたしの中で色が戻ってくる。

さっきまで空っぽだった世界が、わずかに音を立てて揺れた。

わたしは、ただうなずくしかなかった。


「いいなぁ……ほんと、うらやましい……」


その声は、甘くて、熱っぽくて、どこか震えていた。


「それ、わたしには、もう、ないから」


ぽつりと、焦がれるように言うその目は、狂気と羨望に満ちていた。


「でもね、大丈夫。あなたの手──まだ先生じゃないけど、

きっと、なれるの。そうすれば……あなたが先生、わたしがあなた。ね?」


わたしは言葉を失った。

それが、何を意味しているのかなんて、わからなかった。

でも──その手の感触だけが、わたしと世界をつないでいた。


「だから、ちゃんと……先生に、なってね?」


その一言で、世界が反転したような気がした。


わたしは、ゆっくり──ゆっくりとうなずいてしまった。

理由も、意味も、わからないままに。


最初のうちは、まだ「わたし」があった。

名前を呼ばれても、返事はしなかった。

それでもフードの女は、気にする様子もなかった。


「違うよ、それじゃない。あなたはまだ先生じゃないもん」


そう言って、わたしの顔を優しくなでてくる。

でもその言葉の奥にあるのは、やさしさなんかじゃなかった。


何度も、何度も、呼びかけられた。

でも、わたしの名前ではなかった。

フードの女は先生という言葉を、まるで祈りのように、わたしにすり込んできた。

手を握られ、服を選ばれ、体を洗われ──

言葉よりも先に、行動で形を決められていく。


「おなかすいてない? ……わかってないだけだよ。先生はね、ちゃんと食べなきゃだめなの」


「大丈夫、わたしが教えてあげる。ほら、口あけて」


「トイレ? うん、だいじょうぶ、気にしないで。失敗しても、ちゃんと拭いてあげるから」


──反抗はできなかった。

できないように、なっていた。

体はまだ動くのに、意志が外へ出てこなかった。

食事も、排泄も、眠ることも、フードの女の手のひらの中。

わたしが何かを望む前に、すべてが用意されていた。

そしてフードの女は、まるでいい子を育てるように、わたしにふれてきた。


「ねぇ、ちがうの。あなたは先生じゃない」


「だから、言うとおりにして。ちゃんと、わたしの先生になって」


「わたしは、あなたが必要なの。だから、壊さないで……お願い」


その手に触れられるたびに、世界がかすかに戻る。

けれど、わたしはわたしのままではいられなかった。


毎日、毎日、何かが削れていった。

どこかで何かを落としていっている気がした。

拾いたくても、手が遠かった。まるで別の誰かの腕みたいだった。


──そして、ある夜。


フードの女は小さなケースを取り出した。

そこには、もうひとつ、あの白い錠剤が残っていた。


「もうすこしだと思うんだ……ねぇ、これ飲めば、あなたの中、もっとちゃんと先生になると思うの」

「ほら、ね? 怖くないから。いままでより、ずっと楽になるよ」


わたしは首を横に振った。

それでも、もう力はなかった。

フードの女の手が頬を押さえたとき、わたしの口は自然に開いてしまった。

細い指なのに、どうしてそんなに力があるのか。

それは人の手じゃなかった。

静かに、でも絶対的にわたしを閉じ込める力だった。


──そして、また、世界が遠ざかった。

あの薬は、最初の時よりも、ずっと強かった。

もともと何も感じなかった。

触れても、熱も、痛みも、ぬくもりも、もうなかった。

なのに、その何もない世界が、さらににじんでいった。

思考がとける。

感情がほどける。

意識だけが、静かに沈んでいく。

自分が誰だったかも、なぜここにいるのかも、もうどうでもよかった。

ただ、そこにフードの女がいて、語りかけてくる声だけがあった。


「ね、大丈夫。だんだんちゃんと感じられるようになるから……」


「ほら、あなたの手は、先生じゃないけど──なれるはずなの」


「だから、もうちょっとだけ……頑張ってみようね?」


わたしはうなずいた。うなずいてしまった。

そうすること以外、思いつかなかった。

でも──それは、ほんのわずかな異物のように胸に残った。


なにかが、おかしい。

なにかが、間違ってる。


──でも、なにが?


世界が揺れていた。

ぐらぐらと、深いところで軋むような音がしていた。


そのときだった。

視界の隅に、ナタがあった。

古びて、重そうで、鈍く光るそれが、机に無造作に置かれていた。

意識していないのに、身体が勝手に動いた。

腕が伸びていた。

感覚はない。

手に何かを持ったという重みも、皮膚に触れる冷たさもなかった。

でも、持ったという事実だけは、脳に強く響いてきた。

──これだけが、ここにある。

──これだけが、確かにわたしに属している。


わたしは立ち上がっていた。

ぐらつきながらも、ナタを抱え、フードの女に向かっていた。


「……だめだよ、それは。

危ないことしないで。あなたは、わたしの先生になるんだから」


その声が遠くで響く。

フードの女が、一歩、わたしに近づいてくる。

わたしの唇が震えた。


「……ちがう……わたしは……せんせい、なんかじゃない……」


自分の声なのに、ひどく遠く感じた。

でも、それは確かにわたしの言葉だった。

──壊されていく。

でも、壊されたまま終わらせたくなかった。

わたしは、ナタを振り上げた。


重さも、硬さも、痛みも、なかった。

ただ、動作だけがあった。


腕を振る。

空気が動く。

なにかが砕ける音がする。

それだけが、今のわたしと、この世界を結びつけていた。


「……っあ……」


鈍い音が響いた。

けれど、なにも感じなかった。

手の震えも、反動も、痛みも、重ささえも──

ただ、動作の結果だけが、世界に刻まれていった。


フードの女が一歩、下がる。

肩に切り傷ができて、服がじわりと赤く染まっていく。

けれど彼女は、怒りも、恐怖も浮かべなかった。


ただ、寂しそうに笑った。


「……ねえ、なんで……?」


「せっかく、ここまで作ってあげたのに……」


その声に、吐き気がした。

気持ち悪い。

どうして今まで、この声を受け入れていたのか。

もう、わたしは──終わらせたい。


「……ちがう……ちがう……!!」


わたしは、叫ぶようにナタを振るう。

視界がにじんだ。

フードの女が手を伸ばす。

触れられる前に、わたしはもう一度、ナタを振り抜いた。

彼女はようやく後退し、バランスを崩して倒れた。

その隙に、わたしは駆け出した。

感覚のない足でも、ただ反射だけで走った。

転びそうになっても構わなかった。

壁にぶつかっても、石につまづいても、立ち止まらなかった。


外は夜。

山の中の冷たい空気に包まれた小道を、わたしは裸足で駆け下りた。


どれくらい走ったのか、もうわからなかった。

でも、突然──見えた。


遠く、ガードレールの向こう。

車のライト。

人の声。


「──だれか……っ……!」


わたしは最後の力を振り絞って叫んだ。

その声は掠れていたけれど、誰かがこちらに気づいた。

懐中電灯が向けられ、複数の足音が近づいてくる。


「誰かいますか? 大丈夫ですか?!」


──助かった。

本当に、助かったんだ。

身体が崩れるように倒れこむ。

地面の感触はないけど、そこにあるとわかった。

誰かが毛布をかけてくれた。

誰かが無線で連絡していた。

遠くで、誰かが名前を呼んでいた。

でも、それが誰の声かも、自分の名前が何かも、思い出せなかった。


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