表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/9

ここにいる みずほ 2


最初は──ただの視線だった。


バスを降りたとき、背中にふと違和感を覚えた。

誰かに見られているような気がして、振り返った。

けれど、そこには誰もいなかった。

夕方の光の中、山道の先には、ただ小さな影が立っていた。

大きなジャケットに身を包み、フードを深くかぶった女の人。

その顔は──うす暗がりに隠れて、よく見えなかった。


わたしは足を早めた。

通い慣れた帰り道のはずなのに、足取りが重くなった。

後ろから、かすかに足音がついてくる。

気のせい──そう思い込みながら、山道を抜けるように進んだ。


けれど、ふと気がつくと、世界は暗く揺れていた。

──小屋の中だった。

床の冷たさが、頬に伝わってくる。

頭が鈍く痛んだ。

手足は重く、意識は霞のようにぼやけている。

体を動かそうとしても、思うようにいかない。


視界の奥に、あの女がいた。

小さくしゃがみ込み、フードの奥から口元だけが見えていた。

笑っていた。にっこりと、優しく。


「目、覚めたんだ。よかった……ね、大丈夫だよ。怖くないからね」


声を出そうとしたが、喉がひりついて、うまく出なかった。

体を動かそうとしても、まるで重りを抱えているように、指先も思うように動かなかった。


そのときだった。

彼女の手が、わたしの手をそっと持ち上げた。

そして、無言のまま、一本ずつの指をなぞっていく。

節のかたち、骨の角度、爪の輪郭──

ただ見ているのではない。

何かを確かめている。

まるで、モノとして選ばれているような感覚だった。


やさしげな微笑みの裏に、何かもっと冷たいものが潜んでいる気がした。

その指は細くて白くて、なのに信じられないほど強くて。

逃げられない。ここからどこにも。

「……うん。これなら……いける」

その独り言が、ふわりと聞こえた。

何が「いける」のか、まったく分からなかった。


彼女はポケットから銀色のケースを取り出し、そこから白い錠剤をつまみ上げた。

「ね、ちょっとだけお願い。これ……飲んでくれる?」

わたしは、わずかに首を振って拒んだ。

「これ……ね。ちょっと、不思議なやつなんだ。わたしも、せんせいからもらったの。……そしたら、世界がしずかになったの。」

怖い。なにそれ。絶対におかしい。


──その瞬間だった。

彼女のもう片方の手が、わたしの頬をやさしく押さえた。

細くて、白くて、骨ばったその手。

でも、その力は信じられないほど強くて、まるで逃げ道を封じるみたいだった。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ……ね、すごく、気持ちよくなるから……」

頬に手を添えたまま、反対の手でそっと顎を持ち上げた。

まるで「ふれる」ような優しさで、でも逃がさない圧で。

指先が口元にかかり、錠剤がぐいっと舌の上に押し込まれた。


息を止めようとしても、無理だった。

喉が勝手に動いた。

舌の上で溶けかけた薬が、苦味とともに喉の奥へ流れていった。


「っ……けほ……っ……!」


咳き込みながら、床を這う。逃げなきゃ。ここは、おかしい。

この女──絶対にまともじゃない。

「っ……や、だ……っ……」

崩れそうな身体を無理やり起こして、這うように床を進んだ。

ドアを探さなきゃ、外へ出なきゃ──

でも、足に力が入らず、そのまま崩れるように倒れ込んだ。


「ねぇ、やっぱり……ちょっとだけ眠ってたほうがいいよ」


彼女は、まるで赤ん坊を寝かしつけるように笑った。

でも、そんな言葉で、眠れるわけがない。

わたしは壁にもたれ、必死に目を見開いていた。

怖くて、体が冷えて、息さえままならない。


……なのに。

指先の感覚が、ふと遠のいた気がした。

冷たさも、ぬくもりも、だんだんわからなくなっていく。

手のひらと壁のあいだに何があるのか、もうよく分からない。

さっきまでひりついていた喉も、今はただの空洞みたいだった。

わたしの体が、わたしのものじゃなくなっていく。

境界がぼやけていく。

息を吸っても、吸ってる実感がない。

視界の端が黒く染まっていく。

でも、それより怖かったのは、

体のどこにも「わたし」がいなくなっていくことだった。


喉の奥に、さっきの薬の苦味だけが残っていた。

あれのせいだ。間違いない。

わたしの感覚を、ぜんぶ奪っていく。


彼女は、もう一度やさしく笑った。

「だいじょうぶ、あたしがそばにいるから。すぐに、わかるようになるから──」

その手が、わたしの頬にふれた。

ぬるくて、冷たくて、感情のない手だった。

その瞬間、心の底が、ぞくりと冷えた。

──違う、これは優しさなんかじゃない。

眠らされていくのは、わたしの意志じゃなかった。

すべてが、ずっと前から決められていたような、そんな感覚だった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ