ここにいる みずほ 2
最初は──ただの視線だった。
バスを降りたとき、背中にふと違和感を覚えた。
誰かに見られているような気がして、振り返った。
けれど、そこには誰もいなかった。
夕方の光の中、山道の先には、ただ小さな影が立っていた。
大きなジャケットに身を包み、フードを深くかぶった女の人。
その顔は──うす暗がりに隠れて、よく見えなかった。
わたしは足を早めた。
通い慣れた帰り道のはずなのに、足取りが重くなった。
後ろから、かすかに足音がついてくる。
気のせい──そう思い込みながら、山道を抜けるように進んだ。
けれど、ふと気がつくと、世界は暗く揺れていた。
──小屋の中だった。
床の冷たさが、頬に伝わってくる。
頭が鈍く痛んだ。
手足は重く、意識は霞のようにぼやけている。
体を動かそうとしても、思うようにいかない。
視界の奥に、あの女がいた。
小さくしゃがみ込み、フードの奥から口元だけが見えていた。
笑っていた。にっこりと、優しく。
「目、覚めたんだ。よかった……ね、大丈夫だよ。怖くないからね」
声を出そうとしたが、喉がひりついて、うまく出なかった。
体を動かそうとしても、まるで重りを抱えているように、指先も思うように動かなかった。
そのときだった。
彼女の手が、わたしの手をそっと持ち上げた。
そして、無言のまま、一本ずつの指をなぞっていく。
節のかたち、骨の角度、爪の輪郭──
ただ見ているのではない。
何かを確かめている。
まるで、モノとして選ばれているような感覚だった。
やさしげな微笑みの裏に、何かもっと冷たいものが潜んでいる気がした。
その指は細くて白くて、なのに信じられないほど強くて。
逃げられない。ここからどこにも。
「……うん。これなら……いける」
その独り言が、ふわりと聞こえた。
何が「いける」のか、まったく分からなかった。
彼女はポケットから銀色のケースを取り出し、そこから白い錠剤をつまみ上げた。
「ね、ちょっとだけお願い。これ……飲んでくれる?」
わたしは、わずかに首を振って拒んだ。
「これ……ね。ちょっと、不思議なやつなんだ。わたしも、せんせいからもらったの。……そしたら、世界がしずかになったの。」
怖い。なにそれ。絶対におかしい。
──その瞬間だった。
彼女のもう片方の手が、わたしの頬をやさしく押さえた。
細くて、白くて、骨ばったその手。
でも、その力は信じられないほど強くて、まるで逃げ道を封じるみたいだった。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ……ね、すごく、気持ちよくなるから……」
頬に手を添えたまま、反対の手でそっと顎を持ち上げた。
まるで「ふれる」ような優しさで、でも逃がさない圧で。
指先が口元にかかり、錠剤がぐいっと舌の上に押し込まれた。
息を止めようとしても、無理だった。
喉が勝手に動いた。
舌の上で溶けかけた薬が、苦味とともに喉の奥へ流れていった。
「っ……けほ……っ……!」
咳き込みながら、床を這う。逃げなきゃ。ここは、おかしい。
この女──絶対にまともじゃない。
「っ……や、だ……っ……」
崩れそうな身体を無理やり起こして、這うように床を進んだ。
ドアを探さなきゃ、外へ出なきゃ──
でも、足に力が入らず、そのまま崩れるように倒れ込んだ。
「ねぇ、やっぱり……ちょっとだけ眠ってたほうがいいよ」
彼女は、まるで赤ん坊を寝かしつけるように笑った。
でも、そんな言葉で、眠れるわけがない。
わたしは壁にもたれ、必死に目を見開いていた。
怖くて、体が冷えて、息さえままならない。
……なのに。
指先の感覚が、ふと遠のいた気がした。
冷たさも、ぬくもりも、だんだんわからなくなっていく。
手のひらと壁のあいだに何があるのか、もうよく分からない。
さっきまでひりついていた喉も、今はただの空洞みたいだった。
わたしの体が、わたしのものじゃなくなっていく。
境界がぼやけていく。
息を吸っても、吸ってる実感がない。
視界の端が黒く染まっていく。
でも、それより怖かったのは、
体のどこにも「わたし」がいなくなっていくことだった。
喉の奥に、さっきの薬の苦味だけが残っていた。
あれのせいだ。間違いない。
わたしの感覚を、ぜんぶ奪っていく。
彼女は、もう一度やさしく笑った。
「だいじょうぶ、あたしがそばにいるから。すぐに、わかるようになるから──」
その手が、わたしの頬にふれた。
ぬるくて、冷たくて、感情のない手だった。
その瞬間、心の底が、ぞくりと冷えた。
──違う、これは優しさなんかじゃない。
眠らされていくのは、わたしの意志じゃなかった。
すべてが、ずっと前から決められていたような、そんな感覚だった。