表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/9

ここにいる みずほ 1

あれから、どれくらいの時間が経ったのか、よくわからない。

時計も、カレンダーも、もう必要なくなった。


わたしは、いまもそれを探している。

あのぬくもり。あの指先。あの感覚。


先生の手は、どんどん腐っていった。

においがして、色が変わって、皮がめくれて──

それでも、わたしは抱きしめ続けた。


毎晩、何度も、何度もさわった。

朝になっても、すこしもぬくもりは戻らなかった。

触れても、もう、なにも返ってこなかった。


なのに、わたしは……

それでも、先生の手だと思っていた。


……でも、ダメだった。

もう、ただの「モノ」になってしまった。


それでも、しばらくはそばに置いていた。

夜中に泣きながら握ったこともある。

でも、もう……そこに、わたしはいなかった。


──だから、代わりを探している。

先生の手に似たものを。あのぬくもりに近いものを。


わたしは、あちこちを転々としている。

名も知らない街、通り過ぎる駅、人気のない路地裏。

どこかに、先生の手がある気がして、ただそれだけを信じている。


でも、どれも違う。

似ていても、違う。

ぬくもりがあっても、違う。


ふれてみても、握ってみても、

何も──感じない。

世界は色を取り戻さない。


「……ちがう……これじゃない……」


そうつぶやいて、また手放す。

使っていたナタは、いまでも先生のアトリエから持ち出したまま。

感覚のないこの手には、重さなんて関係なかった。

切れれば、それでよかった。


わたしの背中には、あのときの古びたジャケット。

先生のもの。少しだけ匂いが残っている。

それをかぶると、少しだけ、ましになる。

──ほんの少しだけ、世界に存在できる気がする。


でも、足りない。

手がない。

あのぬくもりがない。


わたしはまだ、探している。

先生の手を。

それと同じものを。


また、ちがった。

ちがう。ちがう。なにも、ちがう。


手のひらを握ってみても、

爪のかたちをなぞってみても、

──世界は、沈黙したままだった。


わたしの中に、何も戻ってこない。

そこに手があっても、

わたしの輪郭は浮かんでこない。



何度目かの失敗だった。


「……ちがう……これも、ちがう……」


声にならないつぶやきが、夜風に溶けた。

足元には、またひとつの違った手が転がっている。

わたしはそれを見下ろし、

しばらく何も感じないまま──ただ、じっと見ていた。

そして、ある瞬間、ふと、何かがひらめいた。


……あれ?

どうして、いままで気づかなかったんだろう。

ないなら、探すばかりじゃなくて……


──つくれば、いいんじゃない?


先生の手がダメになったのは、時間のせい。

腐って、感覚がなくなって、ただのモノになっただけ。

なら、生きているうちに──

温かくて、やわらかくて、ふれてくれる「手」を、

最初から、わたしのものとして作ればいい。

先生の手「みたいなもの」じゃなくて。

ほんとうの先生の手。

わたしのためだけの手。

それを……わたしだけのものにすればいい。



その子を見つけたのは、地方の小さなバス停だった。


夕方、空がわずかに赤く染まり始めたころ。

一台のローカルバスが停まり、制服姿のその子が降りてきた。

その子は、バスを降りたあと、一瞬だけポケットからスマホを出して画面を覗いた。

……でも、すぐにしまって、歩き出した。

細くて、指が長くて、すこしだけ先生に似ている──そんな手だった。


わたしは、少し離れた場所から見ていた。

フードを深くかぶり、だぶだぶのジャケットで全身を隠すようにして。

あたりは静かで、人影もほとんどなかった。

その子は、ひとりで歩き出した。

わたしはゆっくりと、その後を追った。


舗装の消えかけた山道を、夕暮れのなか、とぼとぼと進んでいく。 

やがて、木々のあいだから古びた山小屋が見えてきたとき、

わたしの手は自然に伸びていた。

──先生の手を思い出すように、そっと。


気づいたときには、その子は小屋の床に転がっていた。

わたしのリュックには、あの片刃のナタが入っていた。

先生のアトリエから持ち出した、重くて、鋭いやつ。

わたしの手には少し大きすぎる……でも、他に選べるものはなかった。

……でも、今は、使わない。

この子の手は──まだ、ちゃんと生きているから。



わたしは、目を覚ましたその子のそばにしゃがみこんだ。

怯えた目で、こちらを見ていた。

でも、まだ大丈夫。ちゃんと、動いている。

わたしはその子の手をそっと持ち上げ、静かになぞった。

細くて、やわらかくて、

節の並びも、骨の角度も、すこしだけ──先生に似ている。

爪のかたちも悪くない。割れもない。

……うん。これなら、きっといける。

この手なら、まだ間に合う。

これから、ちゃんと──先生の手に、なってもらうんだから。


ポケットの奥から、小さな薬のケースを取り出す。

2錠だけ残っていた。

あの薬。

すべてが始まった、感覚を奪った、わたしの世界を変えた薬。


わたしはケースを開け、ひとつをつまみ上げる。

指先がかすかに震えた。

でも、それでいい。これはわたしの祈りのかたち。


「ね、ちょっとだけ、お願いがあるの。これ……飲んでくれる?」


そう言って、そっと錠剤を差し出す。

にっこりと笑いながら。

それはわたしの誠意だった。


「これ……ね。ちょっと、不思議なやつなんだ。わたしも、せんせいからもらったの。……そしたら、世界がしずかになったの。」


そして、わたしはまっすぐに告げた。


「そしたら──あなたの手は、わたしを世界とつなげてくれるんだよ」


これは、わたしのなかにある、たったひとつの願い。

──この手が、わたしにふれてくれたら。

それだけで、

わたしはまた、生きていける。


だから──ね、お願い。

せんせいの代わりになって。


……せんせいの手になってよ──

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ