ここにいる みずほ 1
あれから、どれくらいの時間が経ったのか、よくわからない。
時計も、カレンダーも、もう必要なくなった。
わたしは、いまもそれを探している。
あのぬくもり。あの指先。あの感覚。
先生の手は、どんどん腐っていった。
においがして、色が変わって、皮がめくれて──
それでも、わたしは抱きしめ続けた。
毎晩、何度も、何度もさわった。
朝になっても、すこしもぬくもりは戻らなかった。
触れても、もう、なにも返ってこなかった。
なのに、わたしは……
それでも、先生の手だと思っていた。
……でも、ダメだった。
もう、ただの「モノ」になってしまった。
それでも、しばらくはそばに置いていた。
夜中に泣きながら握ったこともある。
でも、もう……そこに、わたしはいなかった。
──だから、代わりを探している。
先生の手に似たものを。あのぬくもりに近いものを。
わたしは、あちこちを転々としている。
名も知らない街、通り過ぎる駅、人気のない路地裏。
どこかに、先生の手がある気がして、ただそれだけを信じている。
でも、どれも違う。
似ていても、違う。
ぬくもりがあっても、違う。
ふれてみても、握ってみても、
何も──感じない。
世界は色を取り戻さない。
「……ちがう……これじゃない……」
そうつぶやいて、また手放す。
使っていたナタは、いまでも先生のアトリエから持ち出したまま。
感覚のないこの手には、重さなんて関係なかった。
切れれば、それでよかった。
わたしの背中には、あのときの古びたジャケット。
先生のもの。少しだけ匂いが残っている。
それをかぶると、少しだけ、ましになる。
──ほんの少しだけ、世界に存在できる気がする。
でも、足りない。
手がない。
あのぬくもりがない。
わたしはまだ、探している。
先生の手を。
それと同じものを。
また、ちがった。
ちがう。ちがう。なにも、ちがう。
手のひらを握ってみても、
爪のかたちをなぞってみても、
──世界は、沈黙したままだった。
わたしの中に、何も戻ってこない。
そこに手があっても、
わたしの輪郭は浮かんでこない。
何度目かの失敗だった。
「……ちがう……これも、ちがう……」
声にならないつぶやきが、夜風に溶けた。
足元には、またひとつの違った手が転がっている。
わたしはそれを見下ろし、
しばらく何も感じないまま──ただ、じっと見ていた。
そして、ある瞬間、ふと、何かがひらめいた。
……あれ?
どうして、いままで気づかなかったんだろう。
ないなら、探すばかりじゃなくて……
──つくれば、いいんじゃない?
先生の手がダメになったのは、時間のせい。
腐って、感覚がなくなって、ただのモノになっただけ。
なら、生きているうちに──
温かくて、やわらかくて、ふれてくれる「手」を、
最初から、わたしのものとして作ればいい。
先生の手「みたいなもの」じゃなくて。
ほんとうの先生の手。
わたしのためだけの手。
それを……わたしだけのものにすればいい。
その子を見つけたのは、地方の小さなバス停だった。
夕方、空がわずかに赤く染まり始めたころ。
一台のローカルバスが停まり、制服姿のその子が降りてきた。
その子は、バスを降りたあと、一瞬だけポケットからスマホを出して画面を覗いた。
……でも、すぐにしまって、歩き出した。
細くて、指が長くて、すこしだけ先生に似ている──そんな手だった。
わたしは、少し離れた場所から見ていた。
フードを深くかぶり、だぶだぶのジャケットで全身を隠すようにして。
あたりは静かで、人影もほとんどなかった。
その子は、ひとりで歩き出した。
わたしはゆっくりと、その後を追った。
舗装の消えかけた山道を、夕暮れのなか、とぼとぼと進んでいく。
やがて、木々のあいだから古びた山小屋が見えてきたとき、
わたしの手は自然に伸びていた。
──先生の手を思い出すように、そっと。
気づいたときには、その子は小屋の床に転がっていた。
わたしのリュックには、あの片刃のナタが入っていた。
先生のアトリエから持ち出した、重くて、鋭いやつ。
わたしの手には少し大きすぎる……でも、他に選べるものはなかった。
……でも、今は、使わない。
この子の手は──まだ、ちゃんと生きているから。
わたしは、目を覚ましたその子のそばにしゃがみこんだ。
怯えた目で、こちらを見ていた。
でも、まだ大丈夫。ちゃんと、動いている。
わたしはその子の手をそっと持ち上げ、静かになぞった。
細くて、やわらかくて、
節の並びも、骨の角度も、すこしだけ──先生に似ている。
爪のかたちも悪くない。割れもない。
……うん。これなら、きっといける。
この手なら、まだ間に合う。
これから、ちゃんと──先生の手に、なってもらうんだから。
ポケットの奥から、小さな薬のケースを取り出す。
2錠だけ残っていた。
あの薬。
すべてが始まった、感覚を奪った、わたしの世界を変えた薬。
わたしはケースを開け、ひとつをつまみ上げる。
指先がかすかに震えた。
でも、それでいい。これはわたしの祈りのかたち。
「ね、ちょっとだけ、お願いがあるの。これ……飲んでくれる?」
そう言って、そっと錠剤を差し出す。
にっこりと笑いながら。
それはわたしの誠意だった。
「これ……ね。ちょっと、不思議なやつなんだ。わたしも、せんせいからもらったの。……そしたら、世界がしずかになったの。」
そして、わたしはまっすぐに告げた。
「そしたら──あなたの手は、わたしを世界とつなげてくれるんだよ」
これは、わたしのなかにある、たったひとつの願い。
──この手が、わたしにふれてくれたら。
それだけで、
わたしはまた、生きていける。
だから──ね、お願い。
せんせいの代わりになって。
……せんせいの手になってよ──