ここにいない わたし 4
二重に表記されてたところなど修正しました。
……どうして?
……そんなの……。
「……だって……ふれてくれないと、わたし……いなくなっちゃうから……」
先生は、また「わたし」に視線を戻した。
その横顔からは、何の感情も読み取れなかった。
それでもわたしは、そこにしかすがれなかった。
たとえその問いが、わたしの「答え」など初めから求めていなかったとしても──
「そういえば、どうして──わたしの手だけ、そうなると思う?」
突然の問いだった。
でもわたしは、答えられなかった。
わたしは、先生の手だけ感じることができる。
それは、きっと絆だから。愛だから。そう信じてた。
「答え、教えてあげる」
先生は、ごく自然に笑って言った。
「薬を飲んだとき──わたしの手が、あなたの頬にふれてたの、覚えてる? ……左の、ここ」
覚えてる。先生の唇が離れて、こくりと飲み込んだ時も、ふれていた。
「あの薬ね、ちょっと面白くって。
飲んだときに『ふれてる』って思ってたもの“だけ”、脳がちゃんと感覚として受け取れるようになるの。ね、不思議でしょ?」
脳の奥が、ぎり、と音を立てた気がした。
「服って、普段ふれてても意識しないじゃない? それと同じで、ちゃんと認識してたものだけが、感覚の窓口になっちゃうのよ」
……そんなはず、ない。
そう思いたかったのに、口はもう、何も言えなかった。
「だからね──愛とか、そういうのとは、まったく関係ないの。ほんとに、ね?」
そして──彼女は、あまりにも無邪気に、笑った。
「全部、みずほちゃんがどのくらいで壊れちゃうかなーって、ちょっと試してみただけ」
どこまでも、他人事のような声。
「──それだけ」
なんでもないことのように、その人は微笑んだ。
わたしは、その瞬間、崩れた。
あのぬくもりは、愛情だと信じていた。
あの声には、わたしを呼ぶ意味があると思っていた。
……でも、それは、全部、わたしの独りよがりだったんだ。
「あのあともね、こっそり見てたの。みずほちゃんが、どう動くのかなーって思って。
そしたら、街に出ていくんだもん。びっくりしちゃった!
だって他の子はね、おうちの中で壊れちゃうことが多かったのに……
こんなふうに頑張ってくれた子、はじめてだったの。だから──これは記念に、って思っちゃっていろいろ準備したのに。
きっとね、会えたら元に戻してって泣きつかれちゃうんだろうなって──ふふ、そういうの、ちょっと期待しちゃってたの。
でもね、思ったより早く終わっちゃった。
最初はちょこっとだけがんばってたのに、すぐ『先生……』って寄ってきちゃって。
……ふふ、ちょっと拍子抜けだったかな。
もっとね、野良猫みたいに必死で抗って、どうしようもないと思い知って、それでも『わたし、わたし!』って縋りついてくれたら、きっとすごくきれいだったのに。
そういうみずほちゃん、見てみたかったのに。
……ねぇ、ほんのちょっとだけ、つまんなかったよ?」
……じゃあ、なんで。
なんで、「わたし」だけが、先生に触れてもらえるの?
「だって──あのときのみずほちゃんは、まだ壊れてなかったでしょう?
ちゃんと、まっすぐで、頑張って、抗ってて……ね、いちばん可愛いみずほちゃんだったから。
だから、その瞬間を逃さずに、ちゃんと型を取っておいたの。
いまの、こわれちゃったみずほちゃんとは違って──あの子はちゃんとしてるの。
……見て。ほら、こんなにきれい」
わたしは立ち上がって、部屋の隅に目を向けた。
そこには、くしゃくしゃに丸められたまま放ってあった、あの制服があった。
ゴミ袋の下に半分埋もれていたそれを、わたしは両手で引きずり出した。
よれよれで、汚れていて、もう誰も見向きもしないような布きれ。
でも、わたしには、たったひとつの形だった。
わたしは先生に与えられた服はすべて脱ぎ捨ててそれを着た。震える手で、ボタンを留めた。
そして、叫んだ。
「ねえ、先生。わたし、ちゃんとここにいるよ!
ここに……いるから……! ねえ、見てよ、先生!!」
──その時、先生がどんな顔をしていたのか。
もう、思い出せない。
……でも、その声は、届かなかった。
「みずほちゃんは、もう完成しちゃったの。
だからね……壊れちゃったほうのみずほちゃんは、いらないかな?」
先生の言葉が、最後の杭だった。
それが抜けた瞬間、わたしの中で何かが壊れた。
気づいたときには、彫刻刀を握っていた。
それは、先生が「わたし」の形を削るときに使っていたものだった。
作業台の上に無造作に転がっていた、切り出し型の刃。
小さくて、鋭くて、細部を整えるのに使われていた──
まるで、「わたし」の身体に命を彫り込んでいたみたいに。
その刃を、今度はわたしが使う番だった。
ふれるためじゃなく、奪うために。
──ザクッ。
鈍い音とともに、刃が先生の腹部にめり込む。
先生は、ほんの少しだけ目を見開いた。
「……え……?」
声にもならない声。
本当に、何が起きたのかわからないような顔。
小さな刃は、細く、鋭い。
動かせば、皮膚をすべるように裂けていった。
ただの動作だったのに、確かに切れていた。
肉の奥に、わたしの「意味」を彫り込むような、そんな錯覚。
でも、それはただのまねごとだった。
……ふれてくれなきゃ、わたしには本当に生きてる実感なんてなかった。
そして、静かに伸ばしてきた先生の手が、わたしの頬にふれた。
その瞬間、全身に感覚が走る。
ビリビリと痺れるように、生き返る。
ああ、これだ。
これが、欲しかった。
この手があれば、わたしはわたしでいられる。
わたしは、ゆっくりとささやいた。
「わかった。せんせいは、いらない……せんせいの、手があれば、それでいい……」
視線を足元に落とすと、作業台の横に、木彫用の片刃ナタがあった。
大きくて、重くて、骨まで届く刃。
仕上げにふさわしい道具。
何のためらいもなく、それを手に取った。
──ゴリッ。
最初の一撃で、骨が軋む音がした。
先生は痛みに呻きながらも、叫びはしなかった。
ただ、困惑だけが瞳に浮かんでいた。
「──みず、ほ、ちゃん……?」
「だいじょうぶ……すぐ、終わるから……」
ナタを振り上げ、さらに深く叩き込む。
鈍い音と、骨の軋むような反発が返ってくる。
わたしの腕も手も、ただ重りを運んでいるみたいで、何も感じなかった。
でも──先生の手だけは、まだあたたかかった。
──ついに、腕が切り離された。
わたしは、それを胸に抱いた。
震えるほどの感覚。ふれるたび、蘇る存在の実感。
「……感じる……! ねえ、先生。これがあるから、もうだいじょうぶ……!」
振り返ると、「わたし」が見えた。
あの冷たい、空っぽの抜け殻。
わたしの形をしていながら、わたしじゃないもの。
──でも、先生はこの偽物に触れてた。
わたしじゃないものに、あの手を重ねていた。
……違う。ちがう。
その手は、わたしだけのもの。
わたしが、手に入れた。
「……これは、あなたには絶対、触れさせない……」
「先生の手は、わたしだけのものだから──」
わたしは、ナタを振り上げた。
そして、「わたし」を粉砕していった。
わたしのかわりに愛されたふりをして──ふれてもらって──
そんなの、許されるわけがない。
──そう、これは処分。当然のこと。
樹脂の破片が飛び散る。音も感触もなかったけど、それでも破壊する感覚だけが、確かにあった。
そして、静かに立ち上がる。
あの人は、床に倒れていた。
意識はある。血に染まりながらも、まだこちらを見ていた。
……あの人の目に、何かが宿っていた。
苦しみ? 後悔? それとも、同情?
でも──もう、関係ない。
あの人の意思も、言葉も、表情も、
そんなもの、わたしには必要なかった。
胸にあるこの手があれば、わたしはいられる。
わたしでいられる。
……でも。
このまま先生の手を持っていったら、きっと誰かに見られる。奪われる。
それだけは、絶対にだめ。
わたしは作業台の下に転がっていた古いシーツを手に取った。
ぐしゃぐしゃのまま、肩から頭まで深くかぶる。
その上に、あの人のジャケットを重ねて──完全に、隠した。
これでいい。
これでもう、誰にも見つからない。誰にも、奪わせない。
胸にあるこの手だけが、わたしの世界だった。
ほら、もう──全部そろった。
わたしは、夜のアトリエをあとにした。
静かに、足音だけを響かせながら──誰にも気づかれない影として、夜の街へと溶けていった。