そこにいない わたし 3
しばらくして、わたしの体を覆っていた白い殻が、
パリ……パリ……と音を立てて、丁寧にはがされていった。
息もできないほど静かな時間。
先生は、壊れ物を扱うみたいに、ゆっくり、ゆっくりとわたしの外側を剥がしていく。
そして現れたのは──わたしの「抜け殻」。
わたしと同じ形をした、空っぽの「わたし」。
その中に、先生は何か透明な液体を流し込み、なにかの骨のような素材を組み立てて、
何層にも樹脂や素材を重ねては硬化させていった。
その背中に向けて。ついに言葉が出せた。
「返して……わたしの……わたしを、かえしてよ……」
震える声が、やっとのことで喉をすり抜けた。
すると先生は、ごく静かに、やわらかく微笑んだ。
それは、怒りでも困惑でもなく──ただ、優しい、母親のような表情だった。
「みずほちゃんは疲れて、ちょっと混乱してるだけよね。今日はもうゆっくり休みなさい」
先生が、何のためらいもなく、わたしの手を取った。
その瞬間、全身に感覚が満ちて──わたしはもう、何も言えなかった。
引かれるままに歩き、言われるままに、マットの上に体を預けた。
「目は閉じて。……深呼吸してごらんなさい」
先生が優しくささやくと、わたしは言われるままに目を閉じた。
「眠れなくてもいいの。体を止めるだけで十分。……ね、わたしの手、ここにあるでしょう?」
先生は、わたしの手をやさしく握った。
ただそれだけで、全身がしびれるような熱に包まれていく。
「今のあなたは、すごくきれい。……だから、だいじに、使わせてもらうわね」
先生の声が、ゆっくりと遠のいていく。
わたしの手は、ぬくもりを確かに握っていた。
──そのまま、意識が、ふっと、落ちていった。
どれくらいぶりだったろう。
眠れたのは。
そして翌日。
目が覚めたわたしは、用意されていた衣服を身に着けた。
先生が選んだ下着。先生が選んだ服。
布が肌に触れているはずなのに、何の感覚もなかった。
鏡の前に立っても、そこに映るのは形だけのわたしだった。
でも、それを着ても──何も変わらなかった。
……やっぱり、返して。
……これじゃ、だめ。わたし、ちゃんと、感じたいのに……
ふれているはずなのに、なにもわからない。
自分の輪郭さえ、つかめない。
わたしはもう一度、言おうとした。
けれど、言葉が喉に届くより先に、先生は明るい声で言った。
「ねえ、ちょっとだけ手伝ってくれる? そこのヘラ、取ってくれるかな」
そう言って、先生は何気なく、わたしの手にふれた。
それだけで、焼けつくような熱が胸の奥から広がっていく。
(先生が、わたしに触れてる──)
たったそれだけで、息が詰まりそうになる。
言葉が、喉の奥に引っかかって出てこなかった。
でも、ヘラを受け取ると──その手は、何事もなかったように離れていった。
その瞬間、世界が止まった。
ただの空気。
ただの重さ。
何も変わってない。
なのに、すべてが無意味だった。
感じられないというだけで。
わたしは立ったまま、ずっと先生の背中を見ていた。
黙々と作業を続けるその姿に声をかけることもできず、ただ――待っていた。
でも、先生の手は戻ってこなかった。
ほんの少し前までは、ただ欲しがっているだけで、まだ耐えられた。
でも──先生の手を知ってしまった今は、それがなければ、自分がどこにいるのかすらわからなかった。
わたしは、何度も唇を開いて、閉じた。
何を言いたかったのかさえ、わからなくなっていた。
作業が終わった気配を感じたとき、先生はふとわたしの方を見て、笑った。
「……なに? 何か言いたいこと、あったんだっけ?」
わたしは、ほんの少しだけ息を吸い込んで、
「……かんかくを……返して。……それか、せめて、触って……」
それは、声というより、ただ震えた息だった。
でも、先生は近づいてきて、そっと、わたしの肩に手を置いた。
その瞬間、わたしは──壊れた。
「……あ……あ……っ……」
声にならない声が喉の奥でひしゃげて、
息と一緒に、涙があふれ出した。
もう、言葉なんて出なかった。
みっともなくて、哀れで、でも、そんなことどうでもよかった。
ただその手にすがって、額を押しつけた。
子どもみたいに泣いた。
あたたかくて、うれしくて、くるしくて──生きていた。
作業は、何日も続いた。薬品の匂いと、硬化材の焼けるような匂いに包まれたアトリエの中で、先生はずっと──あの「わたし」に夢中だった。
でも。
その日、先生は作業の手を止めて、ふいにわたしの腕にそっと触れた。
その瞬間、肌の奥がじんと熱くなる。
指先が、わたしの腕をゆっくりなぞる。
ただそれだけのことで、胸の奥まであたたかくなる気がした。
「……せんせぇ……」
思わず漏れた声に、先生はふっと笑って、何も言わずまた作業に戻った。
でも、それで十分だった。
その指の余韻は、夜になってもずっと肌に残っていた。
次の日、先生はまた、わたしにふれた。
今度は、わたしの背中にそっと手を添えてきた。
その手が、背骨をなぞるようにゆっくり動いていく。
やさしくて、安心できて、涙が出そうになる。
わたしは何も言えず、ただ目を閉じていた。
ここにいていいんだって、思えた。
別の日には、先生はわたしの膝に触れた。
指がすっと太ももをなぞっていく。
そのぬくもりが肌を伝って上がってきて、喉がひとりでに震えた。
「……先生……」
声が出たけれど、先生は何も言わず、またわたしから離れていった。
でも、かまわなかった。
ふれてくれた。それだけで、生きている気がした。
去ろうとする先生の服を、無意識に指先でつまんだ。
つまんだはずなのに──なにも感じなかった。
触れているのかもわからないまま、それでも、先生の服の裾を引いた。
その動きに気づいた先生が、ふと振り返って──くすりと笑った。
「ふふ、みずほちゃんは甘えんぼうね」
わたしの心が、その一言で満たされていく。
たとえ先生がすぐに制作中の「わたし」へと視線を戻しても、さっきの感触は、まだ肌に残っていた。
昼間は、先生はほとんど「わたし」から目を離さなかった。
でも、夜になれば──願えば──必ず、そばに来てくれた。
肩に手を置いてくれるだけで、安心した。
指を絡めるだけで、胸の奥がじんわり満たされた。
「ふれられる」ことは、もう、生きることそのものだった。
先生の声も、匂いも、あのぬくもりも。
すべてが、わたしの世界の全てだった。
「……ねぇ、先生」
「なぁに」
「もうちょっと、だけ……そばにいて」
「……仕方ない子」
先生の指先が、わたしの背中に添えられる。
そのやさしい感触に、わたしは目を閉じた。
──わたしは、このためだけに、生きていた。
それから数日──先生は、まるでわたしがそこにいないかのように、触れてくれなくなった。
朝から晩まで、あの「わたし」の仕上げに夢中だった。
わたしの複製──首から下だけの冷たい身体。
それを撫でて、磨いて、削って、色をつけて……どんどん、それをわたしに変えていった。
気づけば、その手はもう、わたしに向けられることはなかった。
前なら、気まぐれでも、腕や頬に手を置いてくれた。
それだけでよかった。
でも今は、声をかけても、笑いかけても、目すら合わない。
わたしは、ひとりでベッドに座っていた。
裸足のつま先をこすり合わせてみても、なにもなかった。
ふれてもらわなければ、私は存在の形を失ってしまう。
このままじゃ、また無に戻ってしまう。
──嫌だ。
わたしは、アトリエの扉を開けた。
先生はなにも言わなかった。
気づいていたはずなのに、先生は背を向けたままわたしの像を整え続けていた。
止めてくれなかった。
外に出るのは、いつぶりだっただろう。
道には人がいて、車が走っていて、風が木を揺らしていた。
──けれど、それはすべて、遠い映像のようだった。
アスファルトの上に立っているはずなのに、地面の存在を感じられなかった。
人にぶつかっても、何も感じなかった。
車のエンジン音も、人のざわめきも、風の揺れも──全部、ただの映像だった。
自分だけが、ガラス越しの中にいるようだった。
わたしをよけて歩く人の視線。誰の口からも、言葉は向けられなかった。
世界は、そこにあるのに、わたしには触れられなかった。
ここにいるはずのわたしが、
どこにもいなかった。
焦りだけが、内側で膨らんでいく。
怖い。どうしてもここに戻らなきゃ。
先生の手に──ふれなきゃ。
気づけば、アトリエの前にいた。
ノブに手をかけたとき、「ひんやりとした感触があったような気がした」。
それだけで、涙があふれそうになった。
中に入ると、先生は「わたし」の前にいた。
「……あら、帰ってきたのね」
それだけだった。
でも、先生は いた。
そこに、あの手があった。
わたしは、床にへたりこんで、そこで泣いた。
声も出さず、ただ静かに、ぐしゃぐしゃに。
頬を伝ったのが涙かすら、もう確かめる術もなかった。
──先生に、ふれられたい。
それだけが、わたしの全部だった。
わたしは、何度も泣いて、叫んで、すがりついた。
「先生、お願い……お願い、もう一度だけ……」
「わたし、まだここにいるよ……だから、ふれて……」
「先生……せんせい……」
でも──先生は、わたしじゃなく、「わたし」だけを見ていた。
像の肌をヘラで整えるその手は、わたしにではなく、「わたし」にだけ向けられていた。
わたしの声が、空気に吸い込まれていく。
わたしという存在が、また色を失っていく。
それでも、諦めきれなくて、喉が痛くなるほど泣いた。
言葉にならない声で、何度も“ふれて”と願った。
──もう、わたし自身にも、わからなくなっていた。
ただふれてほしかった。ただそこにいたかった。
わたしの形を、誰かに確認してほしかっただけなのに──。
やがて──
先生はふとヘラを止めて、こちらを見た。
視線が交わる。けれど、そこには何の感情もなかった。
そして、まるで会話の続きを尋ねるように、ぽつりと言った。
「……ねえ、どうして?」
「どうして、そんなに──わたしに触れてほしいの?」
わたしは、言葉を失った。