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そこにいない わたし 2

帰りの電車。

車内の揺れが、なぜか全体的にくぐもっているように感じた。

いつもなら気になってしまう他人の体温、つり革の揺れ、電車の振動──

すべてが、ひとつひとつ削り取られていくような、不思議な感覚。


「……あれ?」


吊り革を握ったはずの手が、つかんでいる実感を伴ってこない。

空いた座背のクッションに腰を沈めても、沈んだかどうかがよくわからない。

気づけば、電車は自宅の最寄り駅に着いていた。


家に帰る。

靴を脱ぐ。

玄関マットの感触はない。

蛇口をひねる。

手に水が触れているはずなのに、冷たさを知覚できない。

わたしはそっと、頬を撫でてみた。

──なにも、なかった。

布団に潜っても、柔らかさも、あたたかさも、すべてが消えていた。

まるで、世界が遠ざかっていくように。

重さも、皮膚も、何もかも──

不安が、喉の奥から込み上げてくる。


わたしはすぐにスマホを手に取って、先生にメッセージを送った。


「何も感じません。これ、変です。どうすれば……」


すぐに返事が届いた。

《周りのことは気にならないでしょ? ゆっくり休んで。》

……まるで、今のわたしの状態が見えていないかのような、的外れな一文だった。


「……違う、そうじゃなくて……」


もう一度送る。

既読はつかない。

何度送っても、既読はつかない。

急に胸がざわついた。

さっきの頬に触れられた手のぬくもり、手触りだけが、嘘みたいに現実感を持って蘇ってくる。


焦って服を脱いで、肌に何かを触れさせてみた。

毛布、タオル、シャワー、冷水──

でも、全部空っぽだった。

顔を叩いても、足を爪先でつねっても、温度も痛みもない。

世界が、ただの映像になっていく。

動きはできる。でも、それだけ。

重さのない身体。

感触のない現実。

わたしは、その夜、ひとりで、何度も泣いた。

涙の感触だけが、なぜか最後まで残っていた。

──でも、それさえ朝には消えていた。


次の日、制服を着て、ふらふらになりながら学校に行った。

先生との場所。空き教室で一日待った。

先生は来なかった。


……それでも、時間は進んでいった。

お腹も空かないし、トイレに行きたい感覚もなかった。

けれど、翌朝、気がついた。

ベッドから起きようとしたら、立てなかった。

なんとか這い出すと、パジャマのズボンがべったりと汚れていた。

それがなにか、すぐには理解できなかった。

感じなかった。ただ、そうなっていた。

わたしはしばらく動けず、床に寝転んだまま天井を見つめていた。

やがて、体が冷えてきたような気がして──それから、ようやく、着替えを取りにいった。

台所まで這うようにして、冷蔵庫を開けた。

何が食べたいわけでもなかった。ただ、「なにかを口に入れるべき」だと思った。

牛乳のパックを手に取って、流しの前でそのまま少しだけ飲んだ。

味はしなかった。冷たさもなかった。でも、喉が動く感覚だけが、かすかにあった。

それからは、何も感じなくても、「やるべきこと」として定期的にトイレに行くようにした。

何かを食べることも。

それは、もう「生きている」というより、「動かすべき機械の管理」のようだった。


その次の日も、学校へ行った。

一昨日は先生は来なかったけど、それでも「もしかしたら」と思って待っていた。


4日目。

もう周りの視線なんて気にならなかった。

でも──やっぱり、先生は来なかった。

それで、わたしは確信した。

……先生は、もう来ない。

その日から、わたしは学校へ行くのをやめた。


制服を脱ごうとは思えなかった。

みずほとしてふれてくれた、その姿のままでなきゃ。

いつものわたしじゃなきゃ、もう一度あの手には届かない気がした。

もし違う服を着ていたら──あの人は、わたしだと気づいてくれないかもしれなかった。

制服は、わたしの最後の証だった。だから、着替えることもできなかった。靴も、そのまま。


疲れなかった。眠くも、空腹にもならなかった。

制服は次第に汚れて、裾はほつれ、靴下には穴があいた。

それでも、わたしは何も感じなかった。

だって、何も感じなかったから。


移動と補給のため、最低限の現金を確保していた。

財布の中に、昔のお年玉用の口座キャッシュカードが残っていた。

ATMでの引き出しは可能だった。

家族はカードの所在にもわたしの行動にも無関心だった。

わたしの存在そのものが、確認対象から外れていたのだと思う。


何度も顔を洗った。鏡を見つめた。でも、そこに映るのは「自分じゃないもの」だった。

髪はぼさぼさで、目の下にクマができて、唇は乾いて色を失っていた。

──でも、それでさえ、触れなければ痛くも痒くもなかった。


一度、動けなくなった日があった。

ビルの裏路地で。何時間も、ただ路上に倒れ込んだまま、立ち上がれなかった。

意識はあっても、体がまるで抜け殻みたいで──。

それ以来、他の生理的な処理と同様に、「休む」という行為もスケジュールに組み込んだ。

意味や感覚ではなく、必要だからそうしていた。


夜になると、人目のない場所を探すようになった。

雑居ビルの隙間、廃ビルの裏、ゴミ捨て場の奥。

風を防げる場所を見つけて、背を丸めて、じっと目を閉じる。

眠っていたのか、ただ時間が過ぎていただけなのか、もうよくわからない。

体は冷えても、痛くはなかった。

ただ、夢を見ることはなかった。


朝になると、また歩き出した。

今日も、同じ道を。あの人に会える可能性が、ゼロではなかったから。


探していた。理由も、目的も、もう定かではない。

ただ、「ふれてくれた」記憶だけが、わたしの存在を保証する唯一の要素だった。


世界は曖昧で、自分の形も消えかけていた。

それでも──あのぬくもりさえあれば、わたしは、まだ「わたし」でいられる気がした。


似た髪型。似た背格好。

光の加減や影の向きで、ふと「あの人」に見える瞬間があった。

どこかで見たような気がする人影に、何度も近づいた。

話しかけて、すれ違いざまにぶつかって──ときには、反射的に抱きついたこともあった。

けれど、どんな手も、どんな体も、なにも感じなかった。誰かの胸に飛び込んでも、そこにあの「ふれ」はなかった。

男の人がわたしを抱きとめても、ただ映像のように通り過ぎていくだけだった。

女の人に叩かれて地面に倒れたときも、痛みはなかった。

感覚がないということは、こんなにも自分がなくなることなんだと、

わたしはそのたびに思い知った。


そのうち、近所の人がヒソヒソと声を潜めるのが聞こえるようになった。


「……あれ、佐藤さんちの娘じゃない?」


「どうしたのあの子、服ボロボロ……」


「最近、学校も来てないみたいよ」


コンビニの店員には距離を置かれ、公園では子どもに避けられた。

図書館では、カウンターで話しかけようとしただけで警備員を呼ばれそうになった。

わたしは、ただ誰かにふれたかっただけなのに。

それだけなのに。

感覚がないということは、こんなにも自分がなくなることなんだ。

それでも──

その日も、諦めきれずに歩いていた。

駅前の裏路地、もう何度目かもわからない道。

……ボロボロの制服にスニーカーを引きずって、何も考えずに歩いていた。


──そのときだった。

雑居ビルの横をすれ違おうとしたとき、視界の端に、見覚えのある髪が揺れた。

わたしは、反射的に駆け寄っていた。


「……あの、待って……!」


振り向いたその人は──まぎれもなく、先生だった。


「お久しぶり。……どうしたの、そんな格好で。何かあった?」


その姿を見つけた瞬間、なにかが爆ぜた。


「……っ! 返して……!」


わたしは走り寄って、先生に叫んだ。


「返して! わたしの……わたしの、全部、返してよ!!」


通行人が振り返る。誰かがスマホを取り出した。


「やだ、なにあれ……」


「警察、呼んだほうがよくない?」


彼らの目線も、声も、どこか遠くの映像みたいだった。

わたしの髪は乱れていて、服もよれていた。

声は震えていて、目は涙でにじんでいた。

なのに、先生は──まるで何も聞こえなかったみたいに、やわらかく微笑んだ。


「……ごめんなさい。何か誤解があるみたいです。人目もあるし、少し落ち着いた場所で話してみましょうか?」


「ちがっ……誤解じゃない! 返して……返してよ!!」


先生は、一歩だけ近づいて──ごく自然な動作で、その右手を、わたしに伸ばした。

その手が、わたしの腕にふれた──

その瞬間、視界がぐらりと傾いた。

皮膚がひらくような感覚。

そこから、あふれ返るように、世界が流れ込んできた。

熱。重み。ざらつき。温度。ぬくもり。震え。

忘れていたはずのすべてが、一気に戻ってくる。


「……っ、あ……っ……」


声にならないうめきが、喉の奥から漏れた。

息がうまく吸えない。

鼓動が早すぎて、脈が跳ねて、手足の感覚が爆発する。

ただ、腕にふれられただけ。

それだけなのに、全身の感覚が暴れ出して、心が追いつかない。

体の奥が焼けるように熱い。膝が崩れ落ちそうになる。

ふれられている──それだけで、世界が全部、変わってしまった。

怒りも、戸惑いも、過去も、これまでのすべても。

いまこの瞬間、どうでもよかった。

ふれる感覚がある──

それだけで、何もいらないと思った。


先生がやさしく腕を引くと、

わたしは抗うこともできず、そのまま従っていた。

思考は濁って、視界はゆらいで、口はもう、うめきひとつさえ満足に出せなかった。

わたしはただ、生まれたばかりの赤子みたいに、

ふれられるという、それだけのために──わたしは先生に連れていかれた。


先生のアトリエは、古びたビルの最上階だった。

芸術家の隠れ家のような場所。キャンバスと木材と白い布に囲まれて、どこか現実味のない空間。

わたしは、連れ込まれたその瞬間──久しぶりの『触れられている感覚』の歓びに溺れて、何も見えていなかった。


だけど、その魔法は──長くはもたなかった。


「壊れてなくて、よかった。ふふ……残す価値、あるかもね。」


その言葉が、どこか遠くから聞こえた気がした。


はっとして気づけば、いつの間にか服は脱がされ、展示用の模型みたいに、身体の形がはっきり出る、無地で薄い、伸びる素材の服を着せられていた。型取りのベースのようなその服は、わたしの体にぴたりと貼りついていた。

汚れていた手足もきれいに拭かれて。でもわたしは、それすら理解できていなかった。

ふれている──それしか、わたしにはなかった。

恐怖も疑問も、すべてが遠くに霞んでいった。


「……ちょ、先生、なにしてるの!? やめてっ……!」


わたしの声は、空気に溶けて消えた。

抵抗しようと必死で身体を捻った。けれど、片足を軽く押さえられたとき、

その手が肌にふれて──

わたしの世界は、また色を取り戻した。


恐怖も拒絶も、何もかもが、ぬくもりの前に溶けていった。

頭の中が、ふれられた感触だけでいっぱいになっていく。


「……こんなこと……なんで……」


その手が離れた。

次の瞬間、すべてが無に還った。

もう一度、触れてほしくて、手を伸ばしかけたところで、先生が静かに言った。


「……言うこと、聞いてくれるなら、完成するまで……壊さずに触ってあげるから。」


「え……」


わたしは、息を飲んだ。

それが、条件。それだけ。

頭ではわかってた。おかしい、間違ってるって。

でも、それよりも──ふれてくれる、それだけで、他に何もいらなかった。

わたしは──うなずいていた。


先生はわたしを横たえると、身体の下に白い保護シートのようなものを敷いていった。

作業のあいだ、先生はずっとわたしに触れていた。

背中に添えられた手。腕を支える指先。

刷毛が服の上から腹部をなぞっても、それは何も感じなかった──

感触のない作業と、そこに残る「手のぬくもり」の違いだけが、はっきりとわかった。

その違いが、わたしにとっての「生きている」証だった。

先生の手がふれている──その実感だけが、すべてだった。


やがて、全身が白く覆われていった。

肩も、腕も、太ももも、指の一本一本まで。

最後に、先生はわたしの額に手を置き、そっと言った。


「ほらできた。あとは固まるまで我慢して。ずっと触っててあげるから」


動けないことは、もはや苦しみじゃなかった。

わたしの体は、ここにはなかったから。

先生の手が、たった一つの命綱だった。

わたしはそのぬくもりにすがるように、意識を集中させた。

──それがなければ、もう、自分の形すら思い出せなかった。


「……いい子ね。」


その声すら、もう、遠かった。

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