そこにいない わたし 1
キーワードのとおり「ダーク」「女主人公」「現代」「バッドエンド」「サイコホラー」を含んだ内容になります。救いはありません。それでも気に入っていただけたら幸いです。
教室でも、家でも、わたしの居場所はどこにもなかった。
朝、教室に入った瞬間、空気がひとつ淀むのがわかる。
わたしの机のまわりだけ、半端に空いたスペース。誰も近づかないように、見えない柵でもあるみたいに。
視線がぶつかるたび、すぐに逸らされる。笑い声が聞こえるたび、わたしの名前が混ざっている気がして、喉が詰まる。
声をかけても返事はない。代わりに返ってくるのは、うっすら笑った口元と、露骨な無視。
教科書のページをめくる音だけが、わたしの世界のすべて。
ノートに書いた文字の上に、消しゴムのカスが投げ込まれる。気づかないふりをする。息をひそめる。見えないふり、聞こえないふり。
――いい気になって。
――なんであいつが。
――いなくなればいいのに。
そんな声が、頭の中に焼きついて、耳の奥でずっと反響してる。
静かな教室のなかで、ただ息をして座っているだけ。
家に帰っても、似たようなものだった。
兄は優秀で、完璧だった。成績も、態度も、将来も。
親が口を開けば、兄の話ばかり。
「お前も見習え」って言われることすら、もうなくなった。
わたしがどんな顔で帰ってきても、誰も気に留めない。
心配されることも、期待されることも、叱られることすらなくなった。
ある日、家出してみた。
財布とスマホだけ持って、数日間、帰らなかった。
でも──帰ったときに言われたのは、ただひとこと。
「帰ってきたのか。」
怒鳴られもしない。理由も聞かれない。
まるで、わたしがいなくても何も変わらなかったように。
昔は、もっと気にかけてほしいって思ってた。
でも、何度も何度も無視されるうちに、もうどうでもよくなった。
もしかしたら、この世界に、わたしの居場所なんて、最初からなかったのかもしれない。
だから、学校の片隅の、使われなくなった空き教室は、わたしにとって安心できる唯一の場所だった。
わたしはそこで毎日、部屋の隅にうずくまりながら、目を閉じていた。
誰かが来ないことを願いながら、
でも心のどこかで、誰かが見つけてくれることも、願っていた。
そして、あの日。
「こんにちは……こんなところで何してるの?」
その声が、教室のドア越しに響いた。
──先生との出会いは、そんな風にして訪れた。
ドアの隙間から、誰かが覗き込むように立っていた。
黒いパンツスーツ、真っ直ぐな黒髪。歳は……20くらい? 明るい雰囲気。私とは別の世界の住人だと思った。でも、どこか近い。話しかける距離感が、自然だった。
「スクールカウンセラーの者だけど……ここでなにかあったの?」
その声に、わたしは咄嗟に首を横に振った。何も言いたくなかった。話す理由もなかった。
それ以上は、先生のほうから何も聞いてこなかった。
ただ入り口近くの机に腰掛けて、私を見ながら、こう言った。
「誰にも話したくないなら、それでいいの。……でも、ひとりでいられる場所は、大事にしてね」
その言い方が、どこか不思議だった。
言葉を選んでいるみたいで、ほんの一拍だけ、間があって。
わたしを、壊れものみたいに丁寧に扱おうとしているような、そんなふうに感じた。
そのとき、わたしの中で何かがほぐれた。
翌日も、わたしは同じ教室にいた。先生も、またやってきた。
「こんにちは、みずほさん」
わたしは驚いた。名乗った記憶はないのに。
「あ……どうして、名前……」
先生は、何も言わずに、ただ微笑んだ。
その笑顔がなぜかすごく優しくて、追及するのがもったいないような気がした。
わたしの名前をちゃんと呼んでくれることが、ただうれしかった。
先生はその日もまた、わたしの話を聞いてくれた。
うなずきながら、ときどき目を細めて、何かを噛みしめるようにして。
わたしが話すとき、先生は静かに目を見ていた。
その視線が、なんとなく何かを確かめているようにも見えたけど、
……気のせいだと思った。
先生と話せる時間が、日に日に楽しみになっていった。
会えるたび、胸がじんわりあたたかくなって、
別れ際になると、どうしようもなく、さびしくなった。
五月の終わり。風が強くて、手が冷える季節だった。
「寒いね、手。……ほら」
先生はそっと、自分の手で、わたしの指先を包み込んだ。
細くて、でもしなやかな指だった。女の人の手。
あたたかくて、優しくて、すこしだけ、なつかしい感じがした。
一瞬、心臓が跳ねた。
でも、拒む理由なんてどこにもなかった。
そのぬくもりは、あまりにも自然で、あまりにも懐かしかった。
ふれてもらえることが、こんなにも安心できるものだったなんて──思い出せなかった。
それから、先生はときどき、自然にふれてくるようになった。
「うん、頑張ったね」
ちょっとしたことで頭を撫でてくれる。
「今日は顔色悪いね、大丈夫?」
そう言っておでこに軽く手を当ててくれる。
それはどれもほんの一瞬のことで、
ただの挨拶のように、さりげなく、何気ないふうをしていた。
でも、わたしにとっては──その一瞬がすべてだった。
先生の手がふれたとき、
肩を支えてくれたとき、
指先がわたしの髪をかすめたとき。
そのどれもが、胸の奥をドクンと跳ねさせた。
もっと触れてほしいなんて、恥ずかしくて言えるわけがない。
でも、先生が帰ったあと、誰もいない教室で、
肩に残ったぬくもりを思い出しながら──ひとりで、泣いた。
誕生日には、小さなブレスレットをくれた。
先生の指が、わたしの手首に巻いてくれるとき。肌がふれた瞬間。
その一瞬だけで、胸がいっぱいになった。
「……わたし、先生のこと……」
そう言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「うん?」
「ううん、なんでもない……」
でも、あのとき。
私はもう、はっきりと気づいてた。
──わたし、先生のことが、好きなんだ。
だけど、そのころから。
先生と会える日が、週に三日になった。
「ちょっとバタバタしててね」と笑う声は変わらず優しくて、
でも、わたしの中には少しずつ、不安が溜まっていった。
もっと、会いたい。
もっと、ふれてほしい。
もっと、見ていてほしい。
その日、どうしても先生と長く話していたくて、わたしはこんなふうに言った。
「うまく寝られないの。……体が、痛いとかじゃなくて。なんか……ずっと、落ち着かない」
「うん、わかるよ。そういうとき、心がずっと走り続けてるの。止めたくても止まらないんだ」
わたしはうなずいた。
先生の声はやわらかくて、安心できる。
先生だけが、わたしをわたしとして扱ってくれる。
「どこにいても誰かに見られてるみたいで、気が休まらないの。誰もいないのに。帰りも。うちでも。」
「それは、疲れてる証拠だね。心がずっと緊張してるのかも。」
先生は何かメモを取ると、しばらく悩んでいるようだった。
「少し、休ませてあげようか」
先生は、鞄の中から小さな銀色のケースを取り出した。
中には、丸い白い錠剤が三つ。
「これはね、余計なことが静かになるの。落ち着けるように、心の音量を少し下げてくれるの」
わたしは黙って、それを見つめた。
先生はしばらくそのケースのフタをケースのフタを指先でなぞりながら、そっと言った。
「でも、本当は、こんなの使わないのが正解。……ただ、誰でも、しんどいときはあるから」
先生は私のほうを見て。
「もし──みずほちゃんが、そうしたいと思ったら。……ひとつ、あげる」
わたしは、こくりと頷いた。
「……飲みます」
そのとき、先生の目がわずかに細められた。
瞳の奥に、一瞬だけ、何かを“確認するような”光が宿った気がした。
次の瞬間──
先生は、ひとつの錠剤を自分の口にそっと含むと、
わたしの顔に両手を添えて、唇を重ねてきた。
押しつけるでもなく、優しすぎるわけでもなく。
ただ、必要な動作として。
そのまま、唇がふれあい、
歯のすき間から舌が入ってきて、
小さな薬が──わたしの口の中へと滑り込んだ。
息も忘れそうな距離で、先生の体温と吐息が伝わってくる。
わたしは、こくん、と喉を動かした。
唇が離れても、先生の手はまだ、わたしの頬にそっと添えられていた。
でもそれは、まるで何かの位置を確かめるような手つきだった。
包み込むというより、保持するみたいに。
「せ、先生……? どうして……」
わたしが戸惑って問いかけると、先生はほんの少し首をかしげて、淡く笑った。
「……あんまり、壊れそうだったから。もし嫌だったら、ごめんね」
その言葉は、やさしい音をしていた。
けれど、意味はわからなかった。
でも、声は穏やかで、目は静かで。
わたしの胸は、なぜか高鳴っていた。
選ばれたような気がして。
それだけで、うれしかった。
「……もし、この効果が切れて、またそうしたいと思ったら、そのときに飲めるように。追加で二錠だけ渡しておくわ」
先生は、銀色のケースをわたしの手にそっと握らせた。
指先がふれて、少しだけ熱が走る。
でも先生の手つきは、淡々としていた。
まるで、何かをきちんと配置するみたいに。
「まとめて飲んじゃダメよ。ちゃんと、必要なときだけ」
その声はやさしくて、静かで、どこか遠かった。
わたしが何かを言う前に、先生はすっと立ち上がった。
制服の裾を軽く整えて、いつものように笑ってみせた。
「じゃあ、今日はこれで。……夜までには効いてくると思うわ。無理しないでね」
その言葉も、優しい響きだった。
でも、わたしの胸の奥には、どこか取り残されるような寂しさが残った。
「先生……」
呼びかけた声は、かすれてしまって、
結局、その背中を引き止めることはできなかった。
頭がぽうっとして、うまく考えられなかった。
指先がじんじんしていた。
唇の感覚も、まだ少し残っていた。
わたしは、胸に手を当てたまま、先生の後ろ姿が見えなくなるまで、じっと見送った。
現実なのに、夢みたいで。
でも、確かに──
先生の体温が、まだ頬に残っていた。