36 思いの力
理沙さんを連れて逢坂さんと幽の待つ部屋へと戻る。
逢坂さんは目を覚ましていた。彼が無事であることが不幸中の幸いだ。
中野は依然として姿が見えないし電話にも出ない。無事だろうか。心配だったが、とりあえず俺たちは理沙さんを見張ることで精一杯だと判断し、二七階の部屋に立てこもることにした。
ホテルの部屋の中には、理沙さんの動きを封じる都合の良いものがなかった。考えた結果、俺たちは理沙さんを後ろ手で縛り、縛ったロープに輪っかを作ってその輪っかに椅子の足を通すことにした。椅子には一乗寺が座る。
しばらくの間は、理沙さんは眠ったようになっていた。
だからか、俺たちもまたウトウトしてしまっていたのだが──。
ガタン ガタン ガタン
何かが激しく打ち付けられるような音を合図に、一乗寺が叫ぶ。
「来たぞ!」
一乗寺は、理沙さんが暴れた勢いで椅子から吹っ飛ばされた。
肌の色が無段階で変化していき、植物が枯れるように生気のない濃灰色へと滑らかに移り変わる。骸骨のように真っ黒い穴が両目に現れて、理沙さんの美しい姿は見る影もなくなった。
それでも、逢坂さんは変わり果てた理沙さんを迷いなく抱きしめて抑える。
「理沙!!」
逢坂さんは、念動力のようなもので勢いよく弾き飛ばされた。
背中から壁にぶつかり、砂袋を床に落としたような鈍い音が響く。座り込んで絞り出すように呻きながら、しかしすぐさま顔を上げてまた理沙さんへ向かっていく。
その度に壁に叩きつけられ、その度に逢坂さんは立ち上がった。
現在時刻は朝の九時半を超えている。もうすぐタイムリミットだ。
それに、これ以上逢坂さんを好きにさせればいずれひどい怪我を負ってしまいそうだった。結婚式を控える新郎に、怪我なんてさせるわけにはいかない。
俺は決断し、逢坂さんへ合図する。
「控え室で準備に入って」
「でも! まだ理沙が」
「ミココは絶対に来る。俺たちを信じて、式の準備へ行ってくれ」
理沙さんを見つめる逢坂さんの目に涙が溜まっていく。
やがて、後ろ髪をひかれながらも彼は理沙さんへこう告げた。
「理沙。愛してる。必ず幸せな式をあげよう」
逢坂さんが部屋を出ていく。
理沙さんの口元から、血が一筋流れた。
「うううらやましいいいいいい うううらやましいいいいいい」
ガクガクと震える体。俺たちは理沙さんへ飛びつき、逢坂さんと同じように体全体を使って抑え込む。そして、逢坂さんと同じように幾度となく弾き飛ばされた。
壁や調度品へ衝突する度にどこかを強打し、体の動きは鈍くなっていく。相当に恐怖心があったはずだけど、不思議なことに、何度も必死に抑え込もうと試みているうちいつの間にか俺はこの霊のことを考えていた。
仮に生前の人生を想像するなら、ミココが言う通りこいつは幸せな結婚が叶わなかった人なのだろう。
「そうだよな。うらやましいよな。お前は、願いが叶わなかったんだから」
「げ けひ ひ ひ ひ 」
理沙さんの動きが一瞬止まったせいで油断した。理沙さんの頭は、まともに俺のこめかみへ衝突した。
遠慮のない一撃だ。自分の血飛沫が床に散ったが、俺は理沙さんを離さない。
「かずくん!」
「大丈夫か、守勢くん!」
頭突きされた頭は痛かったけど、今、気にすべきはそこじゃない。
理沙さんの動きが止まったのは偶然じゃない。だから、俺は自分がいま成すべきことを明確に理解していた。
「理沙さん。聞いてるかよ?」
ああああ、と震えるような怒号がまた始まる。
しかし俺は、構わず続ける。
「逢坂さんは、理沙さんのために、結婚式を成功させたいんだ」
霊なんか跳ねのけろ。言いなりになるな。
霊とは思念の塊。であるが故に、憑依は、取り憑いている者と取り憑かれている者のせめぎ合い。
だからこそ、取り憑かれている者の意志の強さが霊の支配を弾く力となる。母ちゃんはそう言っていた。
「理沙さんが抱いてるご両親への想いを大切にしたいから、絶対に結婚式を成功させたいんだって逢坂さんは言ってた。逢坂さんは理沙さんのこと、すごく愛してるよ。二人は、きっと幸せになれる」
怒号が止まった。
俺は理沙さんの頬を両手で掴んで、彼女の両目を染める闇と真正面から向き合った。
「だから負けるな。思い出すんだ。逢坂さんのこと、お父さんとお母さんのこと。きっと大丈夫。二人なら、きっと大丈夫だから」
暗く沈んだ眼窩が、片方だけ変化していく。
白目と瞳が区別できるようになり、愛らしい右目が蘇った。
その目尻からは滴が垂れ落ち、彼女の頬を掴んだ俺の手を濡らしていく。動画で聞いた生来の声が、灰色の口で愛する者の名を呼んだ。
「とも、や」
しかし理沙さんの体はこの一言の直後にドクンと跳ねた。
俺たちは三人ともその勢いで弾き飛ばされ、後ろの壁に叩きつけられる。目はまたもや闇に覆われ、床に座り込んでいる理沙さんは手を縛っていたロープを力づくで引き千切った。
「うううらやましいいいいいいわあああああたあああしいいもおおおおおお」
理沙さんに語りかけたことで、霊の恨みを増幅させてしまったのか。
見えない力で壁に押し付けられて俺は体が動かせない。横目で見ると、一乗寺も、幽も。胸が圧迫されて、息さえもできなかった。
理沙さんは、俺たちの目の前でゆらりと立ち上がる。
叫んでも、拳に力を入れてみても、体は少しも動かなかった。
くそが。馬鹿野郎……動け、この、馬鹿野郎が!!
「雪代みなみ」
透き通るような女性の声が、俺の知らない誰かの名前を口にした。
俺は体を動かせないから、誰が来たのか確認することはできなかった。だけど、その声はうちの探偵が間に合ったことを示していたんだ。
なぜなら、理沙さんは、口を開けたまま固まっていたから。言霊に捕縛されて体を震わせ、表情には恐怖が広がっていた。
「大好きな人との結婚式を──期待に夢を膨らませながら未来を想像していたのじゃな。結婚式当日に、その男性が別の女性と駆け落ちをした」
霊となった経緯を読み上げながら、ミココが部屋へ入ってくる。体が動かせない俺は、横目であいつの姿を視認した。
朽ちた鏡を手に持っているミココは俺を一瞥すると、再び霊に視線を向けて続きを読み上げる。
「愛する人に裏切られ、結婚式を挙げる予定だったホテルで命を絶った哀れな女の霊よ。うぬの居場所はここではない。生ける者の幸せを返し、おとなしく黄泉の国へと向かえ」
「ああああああああああああ」
理沙さんの体から黒っぽいガスが噴き出した。それは、朝日を浴びてキラキラと輝く雪の結晶みたいなものが混ざり合い、渦巻きながら散っていく。
理沙さんは力無くその場に倒れた。
呪縛が解かれた俺たちは、慌てて理沙さんに駆け寄った。




