32 隠れてやり過ごせ!
ドアの外から聞こえた声は、廊下を通り過ぎる客の声とは違う気がした。
俺は内臓をゾワっと撫でられたような気持ち悪さに駆られながらドアのほうへ忍足で近づく。耳を澄ませて外の様子を窺い……そして鳥肌が体中に走った。
この部屋のドアの前で、逢坂さんと理沙さんが話しているのだ。
逢坂さんが大きめの声を出している。会話内容は聞き取れないが、なんとなく俺は、このまずい状況を逢坂さんが俺たちへ知らせようとしているのではないかと思った。
さすがのミココも目を剥いている。俺たちは、あたふたしながら隠れる場所を探す。
でも、いくらスイートだとはいえ隠れ場所は限られている。
バスルームか、クローゼットか、バルコニーか。ベッドの下はとてもじゃないが人が入れる隙間はない……。
ガチャ、とドアの開く音。
隠れ終えた俺は耳を澄ませたが、逢坂さんたちの足音は絨毯が吸収するせいで聞き取れない。
しかし、話し声はクリアに聞こえてくる。声はだんだん大きくなってきた。
「どこに入れたの?」
「バッグの中よ。ごめんね、私、脂っこい食事だと気分が悪くなっちゃうから。胃薬を持っていくの忘れちゃって……」
ガサガサ、とバッグの中身を探しているらしい音がする。
聞き耳を立てていると、急に音がしなくなった。
静寂が支配する。
何をしているのか。薬を見つけたのか?
「どうしたの?」
逢坂さんが問い掛ける。
しかし理沙さんからの応答はない。
突如、バアン、と大きい音が鳴った。
俺は飛び上がりそうになるのを必死に堪えた。イメージ的には、何かドアのようなものを乱暴に開けたか閉めたか……続けて、同じようにまたバアンと鳴る。
「り、理沙? どうしたんだよ。お風呂とかトイレになんかある?」
「……ううん。誰かいるのかと思って」
動画で聞いた可愛らしい声色とは似ても似つかない。
感情の抑揚が消え失せて暗く沈んだ理沙さんの声は、情け容赦の感じられない響きを纏っていた。
「え……? ちょ、どこへ行くの」
バアン、という衝撃音。先の二回とは少し音質が異なる。
そして間違いなくさっきよりも近い。音がした方向にあるものでこんな音を立てることができそうなのはきっとクローゼットだろう。しかも、思いっきり力を入れて開けないとこんな音は鳴らないんじゃないだろうか。
「り、理沙! 何をしてるんだよ。誰もいるはずがないじゃないかっ」
ざっ、ざっ、という、靴と絨毯が奏でる小さな擦過音でさえ聞き取れるほどの距離感。
おそらく呼吸音ですら察知される。俺は、静かに息を吸ってから止めた。
ガララッという音とほぼ同時に鳴る、パシャーン、という衝突音。バルコニーの引き戸を全力で開けた音に違いない。
キーンと耳鳴りがする。俺は目を閉じたまま、祈る思いでじっと耐えていた。
「……気のせいかしら。バッグの中身の位置が変わっている気がしたんだけど」
「バッグの中身の位置なんて覚えてるの? すごいね……俺はそんなところは無頓着だから。さ、みんな待ってるよ。戻ろう」
やがてドアがガチャっと鳴ったが、俺は動かなかった。
ひたすら息を殺し続ける。
ドアだけ音を鳴らせて部屋内に残っているかもしれないし、仮に本当に部屋から出て行ったんだとしてもフェイントを掛けてもう一度入って来られたりしたら怖い。
理沙さんの声は、そんなことをしそうな雰囲気を秘めていたんだ。
だから俺はしばらくそのまま隠れていた。何も音がしないところからして、きっとミココもそうしている。
ガチャっと音が鳴った。
「ここで待ってるね」
「……ええ。ごめんなさいね」
理沙さんの声だ。やはり戻ってきた。
部屋のドアとは違う、戸を開けてから閉めるような小さな音がする。距離感と音質的に、さっきのバスルームやトイレの時と似ている気がした。
案の定、トイレを流す音がする。また戸を開け閉めする音がして、続いてガチャっとドアの音が鳴った。
さすがにもう大丈夫だとは思ったが、俺は動く気にはなれなかった。削られたメンタルのせいで体が動かなかったんだ。
時間にして一分半ほどだっただろうか、俺は引き続きその場で息を殺していた。
俺のことを隠してくれていた重そうなカーテンにひとしきり感謝してから、掃き出し窓の反対側にあるカーテンに隠れていたミココへヒソヒソ声で呼びかける。
「おい」
「ああ。危なかったな」
危なかったなじゃねえよ馬鹿……。
掃き出し窓の高さが高くてカーテンが大きかったお陰で、外から見られても目立たずに済んだ。窓やカーテンの形状に恵まれてなかったら間違いなく終わってた。
冷や汗でシャツが体にベッタリと張り付いている。ただでさえ真夏で暑いのに、正装の代わりということでブレザーまで着ているんだ。
「もう出よう。これ以上は危ないよ……」
「むしろこれ以降は大丈夫だと思うがな。まあ良い。残留思念は感じ取れたぞ」
ミココは、言うなりスマホを操作する。
「そうか。どうだった」
「動画じゃ」
「あ?」
「花嫁は、動画投稿サイトでホテルウェディングをいくつか観ておった。きっとこれから行う自分たちの幸せな結婚式を想像し、何気なく検索していたのじゃろう」
「えっと……それがなんの関係があんの」
「あるサイトを開こうとした瞬間、花嫁に異変が起こった。間違いなくこの瞬間に取り憑かれておるな。花嫁視点の動画サムネイルでしか確認できんかったが、そこに書かれておったホテル名が検索でヒットした。場所は中国地方にある、とあるホテル。現在は廃ホテルとなっているところじゃ」
ミココが俺へ見せてきたスマホには、心霊スポットと化した廃ホテルが表示されていた。
「中国地方……お前、まさか今からそこへ行くの?」
「当然じゃろ。花嫁はこの動画のせいで霊に取り憑かれておるのじゃから、この廃ホテルに霊の遺品がある可能性は高い」
「でも……今、夜の七時だけど」
「何時であっても、行かねば二人に明日はない」
想定した中では俺にとって最悪のパターン。ミココ抜きで明日の朝まで理沙さんに対処しなければならない状況へ突入することがいま確定した。
「……でも、どうやって行くんだよ」
「一乗寺のスタッフに連れて行ってもらう。おそらく新幹線やら車やらを使うことになるじゃろうが」
間に合うだろうか?
どんなに早くても、帰ってくるのはきっと明け方になるだろう。
「儂を信じて待て。頼んだぞ、イッポー」
こいつの真剣な目を見せられるたび、俺はいつも調子を狂わされてしまう。
憑依なんて気のせいであってくれ、頼むよ本当に。マジで。
切実にそう願っていたが、缶蹴り鬼のことを思い出すと……やっぱり覚悟を決めるしかないのかもしれない。
「ああ。早く帰ってこいよ」
俺とミココは、拳を互いに突き合わせる。
部屋を出たミココは、スマホで一乗寺に電話しながら、廊下を走って行った。




