21 もう少し心配そうな顔しやがれ
「……え? なんなのこの壁。二階に行けないじゃん……」
途方に暮れたように呟いた幽の言葉に、全員が同調していただろう。
どうしてこんなことになっているのか。
唖然とする幽へ無意識に視線を移したとき、幽の後ろの壁に設置されている階段踊り場の大きな窓ガラスに違和感を覚えた。
階段の踊り場の正面壁は、腰高位置よりも上が全面窓ガラスだ。窓の向こう側は真っ暗だから、俺たちの姿がくっきりと映り込んでいる。
俺たちの姿が映っていること自体は何も変じゃない。外が暗いことも変じゃない。
なのに何かがおかしいと俺は思っている。
でも、何がおかしいんだろう?
二階の手前に壁があるという意味不明な状況をどうにかするよりも先に窓ガラスへ抱いた違和感の確認に耽っているうち、とうとう俺はその異常性に気がついた。
鏡に映った俺が、こちらを向いていない。
鏡の中の俺は三日月のように口の端を引き上げながら、首だけをゆっくりと俺のほうへ向ける。互いに引き寄せられた上瞼と下瞼が、ぼんやりと光り始めた赤い瞳の上下を削った。
「ダメっ、だ、逃げろっ」
ようやく絞り出した声。
鏡を指差しながら「きゃああっ」と幽が叫んでくれたおかげで情報の共有は一瞬で完了した。俺たちは一斉に一階へと舞い戻る。
下り階段でミココが足を踏み外したので、俺はミココの腰を片手で抱いて強引に立たせた。
「すまんの」
「馬鹿っ、早く立て!」
ミココを立たせて一階へと辿り着いたとき、ポケットに入れていたスマホが振動した。
誰に言われるまでもなく、奴からの通知が来たのだと自覚する。
俺はスマホを手に取って確認したが──。
シュモク オニゴッコ
セイゲンジカン 10フン
ルール ツカマッタラズットオニゴッコ
しばし呆然と通知画面を見つめる。
その間にも、「10:00」という時間表示が一秒ずつ減り始める。
顔を上げると、同じくスマホ画面から視線を上げたミココと目が合った。
霊から告げられた、想定外のゲーム開始宣言。
ゴールは三階だ。しかしこの階段はさっきの踊り場に霊がいるし壁があるためこれ以上は進めない。三階へ上がるなら、廊下を通り過ぎて反対側の階段を──……
そう思い至った直後、
「ミイイイイツケタアアアアア」
俺たちが降りてきた階段を、赤い目を二つ光らせた真っ黒い影が駆け降りてきた。
「全員、廊下を走れ!」
ミココが叫ぶ。
陣形は、先頭が俺、二番がミココ、三番が幽、殿が中野。
俺たちは、月光が照らす一階廊下を全速力で駆け抜ける。
後ろを振り向く余裕がないので、霊の位置が近いのか遠いのか分からない。
息が上がって辛そうな顔をするミココが、俺との距離を空け始めた。
このままではまずい。
「おい! スピードを落とすな──」
ミココを目で追った俺の視界に、後方から追いかけてくる刺客が映った。
輪郭だけ人の形を残した、真っ黒い闇。朱に灯る二つの瞳を俺たちへ向け、猛烈な速度で俺たちを追いかけながら手をこちらへ伸ばしている。ペース的に逃げ切るのは無理だ。
が、俺が驚いたのは、真っ黒お化けよりも中野。
中野が、歩みを止めようとしていたことだ。
「馬鹿野郎、中野!」
中野は、一言も声を発することなくニッと微笑む。
真っ黒お化けに後ろから抱きつかれ、黒い瞳がグリンと上側へ消えたかと思うと光る球を口からポワッと浮き上がらせる。
真っ黒お化けは、その光る球をひと飲みにした。
「イッポー、止まるな!」
ミココの命令で、俺と幽は前を向く。
俺が先頭になって、三階へ続く階段を一段飛ばしで駆け上がっていく。
踊り場を抜けて二階が視界に入った。そこには、さっきみたいな壁は無い。
チャンスだった。心底ホッとしていた俺は、二階へ到着するや否や三階への階段がある方向へ体を切り返す。
直後、顔からほんの三〇センチくらい先にある二つの赤い瞳と鉢合わせた。
「ミイイイイツケタアアアアア」
目と鼻の先からまともにぶつけられる叫び。猛烈な音波が全身を突き抜け、体がすくんで動けない。
間違いなくやられる。どう足掻いたって逃げられる距離感じゃない。きっと俺は、ここで魂を取られるんだろう。
けど、まだ幽がいる! あいつが、俺のかわりにミココと──……
「ああああああああ!」
俺がその続きを考えるよりも早く、幽が雄叫びをあげていた。
あいつは叫びながら真っ黒お化けに飛びついた。そのまま勢いよく壁へぶつかり、階段へと倒れ込む。
幽霊に首を掴まれた幽の口から光の玉が浮き上がり、儚い光を放つ魂がフラフラと宙を漂った。
「くっそぁあああ!」
俺は幽を見習って叫んだ。そうすることが、恐怖心を振り払って硬直した体を動かすのに必要だと思ったからだ。
ミココの手を固く握り、首を掴まれた幽と真っ黒お化けの脇をすり抜ける。奴が幽の魂を飲み込むわずかな時間を使って階段を必死に蹴った。
三階へと登りきり、一年生の教室前にある廊下が見通せる位置へと辿り着く。
二組は、ここから二つ目の教室だ。
あと、ほんの一〇メートルちょっと。
これは勝ち確。そう思ったとき、体を芯から凍らす冷気が背後から体に絡みつく。
首だけ振り向くと、俺が手を引くミココのすぐ後ろに真っ黒お化けが迫っていた。
俺はすぐさまミココの腕を強く引っ張り、その勢いを利用して前方へと投げるように飛ばす。
「おらあああ! いっけぇ──っっ」
体の位置関係が入れ替わる一瞬だけ、俺はミココの表情を確認した。
これから犠牲になる俺にちょっとくらい悲しそうな視線を向けたりするのかな、と妙な想像をしてみたんだけど、あいつの顔は全然俺の妄想通りじゃなかったな。
真っ白な息を吐きながら何故か楽しそうに口元をニッと歪め、まっすぐ前を向いたまま全力で走っている。
踊るように跳ねる金色の髪を後ろから見送りながら、俺は、自分でもよくわからん感情が湧いていた。
──ちっ。もう少し、心配そうな顔、しやがれっての。
真っ黒お化けが、俺に手を伸ばす。伸ばした片手で俺の首を掴もうとする。
マジで怪異なんているとは。生き延びたらミココに何を言われるか分かったもんじゃないし、ここで終わるのもいいのかもな……。
我が人生に悔いなし的な心境で俺は目をつむってしまっていたのだが、いつまで経っても、何も起こらない。
恐る恐る目を開けると、真っ黒お化けは俺の目の前で止まっていた。
俺に手を伸ばしたまま、しかしその手は俺には届かぬままに、まるで彫刻のように固まっている。
状況は全くわからない。次々と幽や中野を餌食にしたこの怪異がどうして突然機能停止したのか。
ふと、自分の腕時計がぼんやり光っていることに気づく。
それは、ミココに言われてから散々悩んだ挙句に結局こっそり身につけることにした、母ちゃんが俺にくれた腕時計。
「それまでじゃ『山田陽介』。うぬの負けじゃ。大人しくこちらへ来るがよい」
ミココの声が、一年二組の教室の中から聞こえてくる。
怪異は、おおおおおお、と低く弱々しい鳴き声を校舎に轟かせる。
それから、ゆっくりと一年二組のほうへ動き出した。




