境界の先と揺らぐ炎
思想確認期間が明けた頃、リオは村の外れへ頻繁に出るようになった。
口実は薪拾いと狩りの手伝い。だが本当の目的は、森の向こうに広がる「知らない世界」に触れることだった。
父の言葉を思い出す。
「村の外には、獣と罪人と異種しかおらん。行くな。戻れなくなるぞ」
だが、戻るべき“中”に、リオはもう安らぎを見いだせなかった。
ある日、森を歩く中で、リオはひとつの小屋にたどり着いた。
木立に隠れるように建てられたその小屋には、男が一人住んでいた。
名をヨシュア。かつて南方の国に仕えていた軍人で、今は脱走兵として追われる身だという。
だが、彼の言葉には血の臭いではなく、奇妙な静けさがあった。
「おまえ、目が曇ってないな。こんなとこまで来るガキにしては、まともな顔してる」
リオは、初めてサイロスに出会ったときのような既視感を覚えた。
ヨシュアは、何も押しつけなかった。ただ、語った。
この世界の起源、国家と教会の癒着、魂の輪廻という建前と支配構造。
そしてかつて、オーガとエルフの混成集落に派兵された経験を、静かに語った。
「俺があの村を焼いた。命令だった。だが、そこにいたのは、ただ家族だった。
人間と、角のある子ども、耳の長い母親。なあ、彼らは“人”じゃなかったのか?」
焚き火の光が、彼の手の傷跡を照らした。
剣の柄にすがった痕。殺すために鍛えられた指。
リオは言葉を失った。
だが、同時に彼に惹かれていった。
ヨシュアは一冊の古い書物をリオに渡した。
それは、サイロスが語ったものと酷似した、禁忌の思想書だった。
「持っていけ。読むなとも、読めとも言わん。
ただ、自分の“声”を持て。それがなきゃ、世界なんて見えねぇ」
リオは小屋を後にし、胸に炎のような痛みを抱えていた。
それから何度か、リオはヨシュアのもとを訪ねた。
ヨシュアは、彼を「小僧」と呼びながらも、まるで戦場で弟を守るように接してくれた。
ある日、ヨシュアは言った。
「明日、例の北の山裾へ行く。あそこには、オーガとエルフの隠れ村があるらしい」
リオの胸がざわめいた。
過去に、母から聞いた「堕ちた種族たち」の話。
その真偽を、自分の目で確かめたい──そう思った。
二人は翌日、夜明け前に山へ向かった。
霧が濃く、空気は湿っていた。森の中を抜けた先、確かに人の気配があった。
そこには、小さな集落があった。
焚き火と土壁の家。言葉が交わされ、子どもたちが走っていた。
確かにそこには“生”があった。
だが、それを確認したのも束の間だった。
「動くな!!」
怒声とともに、数本の矢が飛んだ。
それは人間に向けられたものではなかった。
──ヨシュアに向けて、放たれた。
リオが振り返ると、村の端に立っていたのはオーガの青年と、エルフの兵装をした男だった。
「人間だ。信用できない。何を持ち込む気だ?」
「やめてくれ!この人は──!」
リオが叫ぶも、言葉は風に散った。
矢はヨシュアの肩に突き刺さり、膝が折れた。
エルフの男が剣を抜いた。
「我々の村を焼いたのは、人間だ。あの焔を、裏切りを、忘れはしない」
ヨシュアは血を流しながらも立ち上がった。
「そうだ……俺は……。本当にすまなかった。
でも、だからこそ、こんな形で終わりたくはなかった」
彼は抵抗しなかった。
刃が振り下ろされる直前、リオの叫びは声にならなかった。
その瞬間、何かが胸の奥で崩れた。
──希望とは、何だったのか。
──正しさとは、誰のものだったのか。
ヨシュアの亡骸は、火葬すらされず、地に放置された。
リオは山を降りた。
魂が剥がれ落ちたような虚無を抱えながら、足元だけを見て歩いた。
村に戻ると、父母は安堵の表情を見せた。
「心配したわよ……」
「外に出れば、穢れがうつる。やっとわかったか?」
リオは何も答えなかった。
その晩、教会の使いが訪れた。
村で報告があったという──リオが「禁忌の思想に触れた」と。
「思想の確認のため、再度、教会で七日間の静養と記録を行います」
父は深く頷き、母は神官の前で祈った。
リオだけが、黙ってその場を見ていた。
──思想を持つことすら、罪なのか?
──正しさは、どこにある?
ヨシュアは信じた。
サイロスも信じた。
だが、どちらも死んだ。
そして、その手を下したのは、今まで“虐げられていた”はずの者たちだった。
リオの中で、世界がひっくり返る音がした。
“善”と“悪”は、静かに交差し、どちらの輪郭も溶けていった。
あの日、フィリアが囁いた言葉が、遠くで木霊する。
「あなたがいれば、この世界は少しだけ優しいわ」
だがリオは、今やその言葉を受け取る資格すらないと感じていた。
炎は、まだくすぶっている。
けれど、どこへ灯せばよいのか、もうわからなかった。