2−3
「いだぁ──────ッ!!!!」
大きな悲鳴をあげ、尻尾がビタン!と床を打った。
これまでにない鋭い痛みを感じているのは、尻尾ではない。無遠慮にぐりぐりと動かされている、出来立ての脚の方だった。
「ほぉ〜〜〜…」
興味深そうにアレルの脚を掴み、曲げたり伸ばしたり、足首を回したり。そのたびにズキンズキンと痛みが体中をかけまわった。
遊んでいるようなそぶりだが、柔らかそうな毛に覆われたその手は脚をそっと離し、近くの紙にサラサラと何かをメモしていく。
「どうだよ、マロ先生?」
部屋の入り口に立つジュードにそう尋ねられた人物は、灰色の長い尻尾をくにゃりと揺らした。青い瞳がおもしろそうに歪められると、ニャフフと独特な笑いを漏らした。
「コイツぁおもしろいナ。全くもって陸上生物のソレだぜ、こりゃ」
そう応える先生。彼はグレーの毛並みに大きな耳、体長100cmほどの小柄な体。ジュードの懇意にしている町の医者、マロという獣人だった。
マロは白衣を翻し、近くの椅子に飛び乗るようにして座った。
「オマエ、何処でこんなの拾って来たんだ?」
「言い方やめろ。…いや、拾ってきたで間違いはないけどよ」
冗談めかして言葉を制するジュードに、もんどり打って寝転んでいたアレルが起き上がって答える。
「海だよ!干からびそうになってたのを助けてもらったんだ」
「はーん、流石は神父サマ。日々善行積んでらっしゃるナァ」
「茶化すなっての」
ニヤつくマロの髭をツンと突き、それで、と切り出した。
「どうだ?」
「見た目や可動域は陸上生物そのもの。だからと言って陸上生物の薬がそのまま効くかは分からんナ。こればっかりは実験も兼ねて少しずつ薬を使ってみるしかないだろ」
「くすりって?」
またも知らない言葉が聞こえ、アレルが尋ねる。ジュードは呆れてため息をついた。
医者や薬に止まらず、地上の生物や植物、ありとあらゆるもの。何かを耳にする度目にする度、「それって何?」と興味津々に聞いてくるアレル。魚人族の文化は陸上のそれとあまりにかけ離れているということがありありと分かる。教会からこのやりとりを延々と続けていたジュードは、ややぐったりとした面持ちで呟いた。
「前途多難だな…」
「ま、精々世話焼いてやんナ。拾ったヤツの責任だぜ」
「…」
ニャフフ、とまた揶揄うように笑うマロの隣でジュードが頭を抱えた。
その後、薬草を煎じた粉を渡されたアレルは四苦八苦しながらそれを飲み込んだ。それもまた、地上に来て初めての体験であった。
薬が効いてくるまでの約十数分の間は横になっているように言われ、アレルは診察台でごろんと寝転んだ。その視線の先で、ジュードが気まずそうに視線を逸らす。
「ありがとよ。…あー、金は…」
「どうせツケだろ?まあいつも通り勘定しとくけど、今度は遅れンナよ」
「悪いな」
「…カネ……あっ!」
その話を聞いたアレルがパッと上体を起こす。
「そうだっジュード!その『カネ』って何処で獲れるの?
俺、魔女さんにカネを渡さなきゃ!」
「…」
キラキラとした眼差しで問いかけるアレルに、2人の表情がスッと強張った。その顔にアレルの胸がドキ、と軋む。また何かまずい事を言ってしまったのだろうか。
「…はァん」
マロが丸い目を動かし、ジュードを見上げる。より険しい顔をした彼に対して、呆れたようなため息をついた。
「なるほどナ、通りで様子がおかしいと思ったぜ」
「…いや…」
ハキハキとした彼に似つかわず、歯切れ悪く声を漏らす。アレルは不安げにジュードを見るが、それより先にマロが診察台へやってきて腰掛けた。
「あのナ、アレル。『カネ』ってのは生き物やエサじゃなくて、色んなものと交換するためのモノなんだぞ」
「へ?」
「あ、おい…」
声をかけるジュードだが、鬱陶しげにニァン、と声を上げるマロに制され口を閉じる。
「…」
「ナんだよ。食い扶持くらい自分で稼げた方がアレル自身のためにもナるだろ?」
「………えっと…」
2人のやりとりを戸惑いながら眺めていたアレルにスマン、と一言おいて、マロは『カネ』というものが何かを話し始めた。
地上では物々交換という形態で物をやりとりしており、その交換対象の多くを占めるのが金であること。その金でどんなものを得られるか、また金自体を得るにはどうしたらいいのか。
アレルは話の内容をふんふんと頷いて聞き、しばらくして腕組みして唸り始めた。
「うーん…つまり、地上で何かしらの役割を果たさないとカネは貰えなくて…いっせんまんマニーっていうのを集めるのは、結構大変ってこと?」
「結構どころか、コトによっちゃ何十年と途方もない年月かかる事になるだろうナ」
「そ、そんな…」
思った以上に巨大な難題を押し付けられたことに気づいたアレルが、青い顔をさらに青褪めさせる。その顔が可笑しいのか、マロがにまりと瞳を歪めた。
「吹っかけられたナぁ。魔女がそんな大金を要求するナんて聞いた事ナいぞ。…いや、あるいは幸運か?」
「幸運…?」
この状況で?と半泣きで尋ねると、ヒゲをひくつかせるマロがおほん、と咳払いした。くるりと回転しながら軽やかに椅子に座り直すと、脚を組んでニマ、と笑った。
「それはそうとさあ。俺の知り合いが仕事の後継を募集してるんだけど、やる?」
「えっほんと!?」
「マロ、それって…」
「やるっ!!」
ジュードが口を挟もうとするにも間髪入れず、アレルは元気に手を挙げた。その様子を見たマロは満足そうに笑みを深めるが、ジュードはやや難しげな顔をする。
「言ったナァ?」
マロがそう呟くと、突然診察室の扉がバタン、と開かれる。
「ゴロッホゥ」
小さいが、不思議と響く声が鳴った。
入ってきたのは、体長80cmほどだろうか。小さな体格に似つかわしくない大きなカバンを携えた、おそらく年配のフクロウだった。
彼は鞄を引きずるようにのしのしと歩いてマロに近づくと、中から封筒の束を取り出して差し出す。
「ゴロッホゥ」
「ああ、ありがとうウラ爺。傷の調子はどうだい?」
マロが尋ねると、フクロウはフサフサとした胸毛をめくってみせる。綺麗な包帯が巻かれた腹部を見て、マロはうん、と頷いた。
「悪化はしてないようだナ、よかったよ。
そんでさ、探してた後継、見つけたぞ」
フクロウの肩を親しげに叩き、アレルを指差す。くるりと顔がこちらに向けられると、アレルは少し身構えながらマロを窺い見る。
「えっと…?」
「アレル、この人はウラ爺。この町の郵便屋だ」
マロの後ろから、ジュードが口を挟む。当然、郵便屋?と首を傾げるアレルをわかっていたかのように話を進める。
「郵便屋ってのは、色んな人のところに物を届ける仕事。つまり、町中を荷物を持って駆け回る仕事だ。
ウラ爺はこの町で、1人でその仕事をこなしてるベテランなんだよ」
「ただまあ、ウラ爺も歳だからナぁ。こないだもカラスの群れに襲われて、命からがら逃げ帰ってまあまあな怪我もしちまった。ぼちぼち後継を育てなきゃナ、って話が出てたってわけだ」
「へえ…」
感心しながら話を聞いていたアレルの元に、ウラ爺がのしのしとやってくる。アレルはベッドから降りて目線を合わせると、また重い声でゴロッホゥ、と鳴いた。どうやら、「覚悟はできているのか?」とでも言いたげな声だ。
「えっと…俺、今さっき地上に来たばっかりで」
「…」
「でも、たくさん働かないといけない事情がある。それに、地上の色んなところを回れる仕事って、すごく楽しそう!
俺、ユウビンヤをやってみたい!よろしくお願いします!」
真っ直ぐにウラ爺を見つめながら、アレルは決意を伝える。
「…ホゥ」
それが彼に届いたのか、ウラ爺は片手を差し出してきた。意味はわからなかったが、アレルもそれを真似て手を差し出す。羽に包まれたふわふわとした手がアレルの手を握り、ウラ爺は満足そうに再度「ゴロッホゥ」と鳴いた。
「…お前、上手いこと押し付けたな…」
診察室の隅で、アレル達に聞こえない程度の声でジュードが呟いた。
「だァって、俺にまで後継やれって言ってくるんだぜ…俺がいなくなったら誰が医者やるんだよっつっても聞かねえんだもん…」
「俺にも言ってきた。手当たり次第声掛けてたみたいだが、空を飛べる種族でもなけりゃ町の隅々に配達なんて重労働だもんな…そりゃ断るわ」
「…まあでも」
仲睦まじげに接するアレル達を眺めながら、2人は安堵だけではない表情を浮かべる。
「アレルにとっては、渡りに船だったのかもな?」
「魚に船はねえだろ」
「モノの例えだっての」
苦笑いを浮かべた二人の会話は、希望の光しか見えていないアレルに走る由もないのであった。