1−2
* * *
降り注ぐ光が弱くなれば、地上の世界は夜だ。
群れの仲間たちが眠ったのを見て、アレルはこっそりと抜け出した。月の明かりを頼りに水面を目指す。
「〜〜〜っ、ぷはっ!」
海辺から顔を出すと、まず波打つ音の大きさに驚いた。今日は少し大人しいものの、打ちつける波の音は水中の比ではない。
「…えーと」
浜辺を見渡しながら、横移動しながら泳ぐ。この浜辺には大して人が来ず、人影かと思えば木の影だった、なんて事は日常茶飯事だ。
「…あっ?」
しかし今日は珍しく、人影が見えた。見間違いでないことを確かめるべく、アレルはゆっくり砂浜に近づいていく。
人影は、砂浜で寝ているように見えた。
(…いや、そのすぐ下に影が見える。浮いてるのかな?)
空が飛べる種族だろうか。
昨日はドラゴン族だった。1週間前は、何かの獣人族だった。今日こそは、と焦りながら泳いでいく。そのうちに波が徐々に激しくなり始め、波間から何とか目を凝らした。
(あれは…?)
「せっかく波が静かだったのに、無粋なのが居るね」
その声は、すぐ後ろで聞こえた。
ハッとして振り返ると、海面の上に人影が浮かんでいる。慌てて砂浜を見ると、人影が消えていた。瞬間的に後ろに回り込まれたようだ。
「町は寂れてるが、海は健在。これに酒と肴と、賑やかしに賭場でもあれば最高だってのに…相変わらず気の利かないこと」
独り言のように、人影が言う。影は海面の上で、棒のようなものに乗り脚を組む。
「何か用かい、小僧」
人影が被る大きな帽子で光が遮られる。ぼんやりと見えるその顔は、顰めっ面にも見えた。
「あ、あの…
…あなたは、魔女ですか?」
その言葉に、眉間の皺が深められる。見定めるように、深い紫の瞳がくにゃりと歪んだ。
「魚人の癖に、よく分かったね」
くつくつと揶揄うようなその笑顔はあまりに歪で、まるで大きな鮫に睨まれた時のように寒気を感じた。
「そのままじゃ何だ、上っといで」
人影、もとい魔女が突き出した人差し指を、くるりと回す。するとアレルの周囲の水が切り取られるように浮かび上がって塊となり、掬い取られるようにして空中へと引き摺り出された。
それを見て魔女はふぅん、と声を上げる。
「しかし、魚人族ねえ…人前に現れるとは珍しい」
魚のような足ビレを興味深そうに見る。品定めされている気分で、アレルは居心地悪そうに身を捩った。
「それで?あたしが魔女なら、何かあるんじゃないのかい」
「…あ、そ、そうだ」
詰まりながら、アレルは自身の目的を思い出す。
鋭い視線が言葉を待つ。緊張でいつもより周囲の水が冷たく感じた。
この魔女が本物なら。
「俺を、人間にして下さい!」
精一杯の勇気を振り絞り、声を張り上げた。
「…」
魔女はアレルを見つめたまま、何も言わない。その沈黙に、アレルはギュッと目を瞑った。
昔話の魚人族は、魔女に魔法で体を作り替えてもらって地上に出たという。その話が本当であれば、この魔女にーーーー
「…フン」
「わっ」
突き放すように、突然水の塊が割れて海に落ちる。慌てて水面から顔を出して、魔女を見た。
「人間にしてくれ?…冗談はよしとくれ。何であたしが」
「お願いします!」
魔女の言葉を遮って、アレルは叫んだ。
「俺、どうしても会いたい子がいるんだ!地上にでなきゃ、あの子を探せない…どうしても、地上に!」
「…」
魔女は憎々しげにこちらを見る。しかし怯んではいられなかった。
魔女に、魔法使いに会うために数週間毎日ここを張り込み続けたのだ。断られたから次のチャンスを待つなんてできない。
「…ならば、小僧。お前はその代償に、何を差し出す?」
顰めっ面の魔女が、声を低くして尋ねる。
「え…」
「魔法に代償は不可欠だ。それも体の構造を大きく変えるとなると、それなりのモノが必要になるのさ。お前はそのために、何を差し出すんだい」
「代償…」
戸惑い言葉を失うアレルに、魔女は呆れた態度を隠さない。はっと顔を上げた時には、既に魔女の瞳にアレルの姿は写っていなかった。
「話にならないね」
魔女は大きなため息をつき、ふわりと浮かんで背を向ける。
「あのっ!…明日もここに来て!俺、ちゃんと考えるから…代償、ちゃんと考えます!」
その背中に懸命に呼びかけるが、魔女は振り返る様子もなく飛び去ってしまった。
それから数日間、アレルは毎日同じ時間、同じ場所に通い続けた。しかし魔女はそれ以来一向に現れず、日々待ちぼうけを食らうこととなる。
それでも、アレルは通う事をやめなかった。
「アレル、また行くのか」
ある日の夜、群れのリーダーに抜け出すところを見られて呼び止められた。
気まずそうに振り返るが、リーダーの表情は普段と変わりない。
「ここのところ、毎晩群れを抜け出しているな?」
「…いや…その」
「それ自体は構わない、お前ももう自立し始める年齢だ。しかし…地上に行きたいなら、私は止めなければいけない。群れのリーダーとして、仲間のお前を危険な目に合わせるわけにはいかない」
「…」
真剣な眼差しでリーダーに諭され、流石にばつが悪くなって黙り込んでしまう。言い訳も思い付かず顔を上げられずにいると、リーダーのため息が聞こえた。
「お前を責めているつもりはない。ただ…」
「…っ」
アレルは言葉を聞かないまま、リーダーに背を向けた。
「アレル!」
怒るわけでもない、悲しげな響きをもつ声が、背中に突き刺さる。それでもアレルは、あの場所に向かって尾びれを翻した。
その夜は、月がいつにも増して明るかった。満潮も手伝ってか、いつもより空が近く見える。
「お前もしつこいねえ」
呆れるような、嘲るような声が聞こえる。あの日と同じように、魔女は棒の上で脚を組んでいた。
「代償を考えると言ってたか。その様子だと、なにか思い付いたのかい」
アレルの言葉を待つ事なく、魔女は話を進める。アレルもそれを予想してか、向き合ったまま後ずさった。
「ここじゃ見せられない。ついてきて」
魔女を誘導するように泳ぎ出す。また断られるかとも思ったが、魔女は何も言う事なく黙ってついてきた。
* * *
しばらく泳いだ先に、洞窟が見える。中の水位はやや高く、アレルでも出入りできるようになっていた。そこから奥に少し行くと行き止まりになっており、何かが山のように積まれている。
「…」
流石に魔女も怪訝そうな顔をするが、アレルについてその山に近付く。
「魔女さん、これ!」
アレルはその中の一つを手に取ると、魔女に差し出すように見せた。
「俺が見つけた地上の遺物なんだ。これは海底の船から見つけたもの。いくつか同じのを持ってるんだ」
それは青いガラスでできた安っぽいワイングラス。セットになっているようだが、箱にも入れられていないため傷だらけになっている。
「こっちは、浅瀬の方で浮かんでた箱に入ってたんだ」
アレルはまた別のものを手に取ってみせた。何らかの文様が彫られているナイフだが、あまりに軽すぎる。おそらく贋作だろう。
「あと…これとか!キラキラしてて綺麗なんだ」
安ものの宝石で飾られた蝋燭を立てるパーツが付属しており、恐らくシャンデリアの一部だ。
「いつか地上に出て、これが何なのか、どういう使われ方をするものなのか知りたくて全部とっといたんだ。これが、俺の宝物。
…代償、これじゃダメかな」
話しながら、そっと魔女の顔を見上げる。
魔女は、嫌悪するような顔でアレルを見ていた。
「…いいかい小僧。
お前が一生懸命に集めているそれは、どれも地上では『ガラクタ』っていうんだよ」
「…ガラクタ……」
「ああ、ゴミと言ってもいいね。
こんなものには何の価値もない。代償になんか到底なりやしないさ」
「…」
冷たく言い放たれる言葉に、アレルはそっと項垂れる。
これがアレルの精一杯だったのだ。魚人族として群れで活動し、狩った獲物や得たものはほとんど群れの中で共有し、消費される。そこから外れて、唯一アレルだけが持ち得たもの。アレルが所有していると言える、大切な宝物だった。
しかしそれすら、魔女との交渉材料にすらならない。ほとんど希望は絶たれてしまったも同然だった。
「全く、魚人族ってのはどいつも……」
と、魔女が言いかけて、言葉を止める。
続けて冷たく拒絶されると思い身構えたが、魔女はスッとアレルの横を通り過ぎた。
「……これは?」
彼女がガラクタと言ったその山から、一本の瓶を取り上げる。30cmほどの黒い瓶には、何かのラベルが貼られてある。
「…それ、イルカが咥えてたやつだ。描いてある文字は読めないけど…リーダーが、地上の『サケ』ってやつじゃないかって言ってた」
「…」
すると魔女は、徐ろに瓶のコルクを開ける。少し匂いを嗅いだ後、アレルの持っていた青いグラスを手に取った。
とくとくと注ぐと、ツンとする甘くすえたような匂いが立ち込める。アレルは嗅いだこともない異臭に思わず鼻を押さえた。
「臭っ、何それ!?」
「やかましいね、黙ってな」
騒ぎ立てるアレルにピシャリと言い放つと、魔女はグラスに注いだそれを一気に煽る。
「…ほぉ。中々上等に育ったワインじゃないか」
「わいん?」
「『サケ』の一つさ。あたしはこれに目がなくてね」
そう言いつつ、魔女は次々とグラスに注いではグビグビと飲み干していく。
「…あっ!?ちょっと!!」
自分の宝物が勝手に飲み干されていくことにようやく気づいたアレルが慌てて止めるが、もう遅い。既に瓶の中の最後の一滴がグラスに注がれる直前だった。
ゴクリ、と喉が鳴り、ついに最後の一杯が飲み干されてしまった。魔女は物足りなげに舌なめずりをして、ふう、と一息置いた。
「ご馳走さん」
「…」
一瞬の出来事に唖然としている姿をせせら笑うように、魔女はアレルの頭をワシワシと乱暴に撫でた。
「まあ良いものをもらった礼だ。少しくらいは付き合ってやってもいい」
「………えっホント!?」
その言葉に正気を取り戻したアレルが、思わず声をあげる。
「やっっっ……たーっ!!これで俺も…」
「調子に乗るんじゃないよ」
喜びに飛び跳ねそうになるが、またも魔女がそれを制する。
「ワイン一本如きで願いが叶うとでも思ったのかい」
「え、でも…」
「甘いんだよ、小僧。この程度なら、お前の願いはせいぜい3割くらいしか叶えられやしない」
「さ、3割…?」
魔女は瓶を後方に投げ捨てると、顎に手を当てた。
「そうさね…その頭についたヒレを無くすか、脚を生やすか…それとも羽根でも生やすか?好きなのを選ばせてやろう」
「え、えぇ!?どれか一つだけ!?」
「選択肢を提示してやってるだけ有難いと思いな。他の魔女ではこうはいかないだろうよ」
ニヤリと笑いながら魔女が言う。意地悪そうな笑いにやや胡散臭さを感じつつも、アレルはうーん、と頭を捻った。
「じゃあ…脚を。地上を歩いて、どこまでもあの子を探しに行ける脚が欲しい」
その返事を予測していたかのように、魔女はフッと笑う。乗っていた棒から降り、その先端をアレルへと向けた。
「後悔するんじゃないよ」