1−1
穏やかな波が陽光を揺らす。光を受けた珊瑚達がその鮮やかさを増す海の中、1人の青年がふとその光を仰ぐように上を向いた。
光がきらきらと降り注ぐ水面の向こう。
陸上では、どんな世界がひろがっているんだろう。
(………♪……♫…♩)
あの日聞いた、美しい歌声が脳裏に甦る。
胸が高鳴り、体が熱くなるような、動き出したくてもどかしい気持ちが湧き上がってくる。
「…よし!」
青年はグッと拳を握って顔を上げた。
「決めた! 俺、地上の世界へ行く!」
「はぁ!?」
青年の言葉を聞いていた男たちが、一斉に振り返った。
「お前、今何つった!?」
「俺、地上の世界へ行く!」
「そのまま言えって言ってんじゃねえよ!」
「正気かよ、アレル!」
アレルと呼ばれた青年は、戸惑う彼らとは対照的にしっかりと首を縦に振る。その妙に自信に満ち溢れた顔を見て、男たちは顔を見合わせた。
「地上に行くったって…
俺たち、魚人族だぞ?どうやって地上で生きるつもりだよ?」
そんな呆れ声に、アレルは仲間たちを見回す。
ヒトのような上半身に魚のような下半身をもつ彼らは、魚人族と呼ばれる生き物のスタンダードな姿。どう見ても、地上に適した生態ではない。
しかし当のアレルは、そんなことは瑣末なことだとでも言うように物憂げに水面を見上げる。
「俺、やっぱあの子が忘れられないから」
「あの子って…この間浜辺にいたっていう?」
「そう!」
嬉しそうに頷いたアレルを横目に、彼らのうちの1人が耳打ちする。
「あの子…って誰だよ?」
「アレルがこの間、水面に流れてる遺物を追って間違って地上に顔を出したんだと。
その時に、浜辺で歌ってる女の子がいたんだとか…どこの誰かも分からないらしいんだが」
「…それだけぇ?」
呆れたように聞く彼らに目もくれず、アレルは胸に光る物を握りしめた。
「これ、一目惚れってやつかなあ。
あの子の声が忘れられなくて…もう一回聴きたくて、居ても立っても居られないんだ」
「……その子が落とした遺物まで持ってきちまったらしいぞ…」
「よっぽど心酔してんなあ…」
遺物。海の外の世界の道具や物を指す言葉だが、アレルはその言葉にも目を輝かせる。
「そうそう、これ見てよ!こんなに小さいのに、きらきらしてて、しかもちょっとの事では壊れない!何に使うものだと思う!?」
熱く語るアレルの手の中には、件の遺物ーーーーネックレスに通された、小さな指輪が握られている。
ただ周りの空気は彼とは対照的に、呆れや憐れみの澱みすら感じる。
「…アレル」
すると、群れの先頭を泳いでいた魚人族のリーダーが動きを止めた。屈強な体をくねらせて泳ぎ近づいて来ると、アレルはそちらに向けてもパッと顔を輝かせた。
「ねえリーダー!リーダーも地上のことをもっと知れって言ってたよね?」
「…地上に行きたいのは分かる。しかし、我々魚人族は地上では生きられない。水から切り離されては生きていけないのだ。よく分かっているだろう?」
リーダーは落ち着いた口調で言う。アレルはでも、と反論しようとするが、重ねるように続けた。
「『地上を知れ』というのは、世界を広く見ろという意味の言葉だ。…自分の見える範囲を『世界』だと思うなという教えだ。本当に行って見てこいという意味ではない。
仮に地上に出たとしても、その子に会えるかも分からないだろう」
「う…」
その言葉に、言い返すことができない。
魚人族は、海で過ごすために進化を続けてきた種族だ。水のない場所、こと乾燥した環境では生きられず、今でも水の中から顔を出すので精一杯なのだ。また下半身が魚のヒレのようになっているため、地面を歩くことはできない。彼ら魚人族が地上に上がり生きていくなど、不可能に近い。
尊敬するリーダーに言われてようやくそのことを理解し、アレルはややあって渋々口を開く。
「…はい」
小さく返事をすると、リーダーはうむ、頷き群れの先頭に戻る。
「そうだぞアレル。地上に行きたいだなんて、夢物語だ」
「そうそう…
魔女と契約でもするならまだしも、この体じゃあな」
「…魔女?」
仲間達がそう囁くと、アレルは初めて聞く言葉に首を傾げる。
「知らないのか?神話に出てくるだろ。
魚人族のメスが地上の人間のオスに恋をして、魔女に人間にしてもらうって話」
「ああ…」
そんな話を誰かから聞かされたのを、ぼんやりと思い出す。彼らは軽口のように、笑いながら話し続けた。
「まあ、あれこそ御伽噺だよ。あの話は──────」
そこから先の声は、アレルには届かない。
「…それだ」
小さく呟いた声は、水流に揉まれる珊瑚だけが聞いていた。