第78話 いつかこの薬指に
サトシは、桜井の家の玄関でインターホンを押した。
誰かが出て来る気配はない。
(寝ているのか?)
もう一度、インターホンを押そうとすると、玄関の鍵をガチャッと開けて桜井が青白い顔を出した。
「先生、すみませーん」
「あ、桜井! 寝ていたのに、起こして悪かったな。玄関まで来るのだってつらかっただろうに。郵便受けに通知表だけ入れて、帰ってもよかったんだが」
「ここまで来て、何言ってるんですか。中へどうぞ」
そう言って、サトシを家に入れた桜井だが、そのまま崩れてしゃがみ込んでしまった。
「おっとっと、ここで倒れるな。しっかりしろ桜井。いいか、運ぶぞ」
サトシは桜井を抱き上げて布団が敷いてある和室まで運んだ。
慣れたものである。
桜井の母親は、すでに仕事に出かけていて、弟のアキラはまだ小学校から帰って来ていなかった。
「先生、ごめんなさい」
「いいから。桜井を運ぶのは、もう慣れている。ほら、ダンスでも特訓したからな」
桜井を布団に寝かすと、サトシはカバンから通知表を出した。
「これ、通知表だ。二学期はたいへんよく頑張りました」
「先生、お茶も出さないでごめんなさい。冷蔵庫から何か取って飲んでいいよ」
「そんなことは気にするな。それに、一応生徒の家だし、勝手に冷蔵庫なんか開けられないだろ。それよりも桜井だ。お前は何か食べたのか?」
「何も……でも、何もいらない」
「そんなことだろうと思って、プリンを買ってきた。これなら食べられるか?」
「うん、後で食べる」
サトシが側に来たのに、桜井は言葉少なかった。
桃瀬と柚木が言っていたのとは違って、たちどころに元気にはならない様子だ。
(具合が悪いのだから、そう簡単に元気になるはずないか)
おそらく、ここで何か困っていないかと聞いたところで、桜井は言わないような気がした。
もちろん、学校には家庭訪問の内容を報告しなければならない。
だが、無理に聞き出しても逆効果なら、聞くのはやめようと、サトシは割り切った。
「ちょっと五分間だけいいかな」
「何?」
サトシはぐーーんと伸びをすると、メガネをはずし、桜井が寝ている布団の隣で横になった。
「ああああー、疲れたぁ。五分間だけ寝かせてくれ」
「え? ちょっと、先生?……先生!」
サトシは目を閉じて、本当に寝た。
桜井に先生と呼ばれても、完全無視して寝ていた。
「げっ!」
桜井が驚いた声が聞こえる。
そんな桜井の隣で寝転がっていると、サトシには不思議と安心感に包まれていた。
サトシは目を閉じたままで話し始めた。
「なんかさぁ、この家落ち着くよなぁ」
「……そうですか?」
「桜井さぁ、お前痩せただろ」
「……そうかなぁ」
「さっき、抱き上げた時わかった。軽くなっていた」
「そ、そう?」
「ダイエット?」
「……しようとしたけどやめました。もうお母様に嫌われてもいいもん」
「そうだな。それでいいんじゃないか」
「先生は、わたしがお母様に嫌われていても平気なんですか?」
「関係ないね」
「なんだ、そうなんだ。てっきり味方になってくれると思ったのに」
「ん? 味方だよ。だから、俺の母さんなんか関係ないっていう意味だ」
「……そっか」
すると、サトシは目を開けて桜井をじっと見た。
「手」
「へ?」
「桜井、左手を出してごらん」
「左手? 手相でもみるんですか?」
「いいから、早く左手を出して。出したら先生に向かって、こう開いてみて」
サトシは、寝ながら自分の左の手のひらを桜井にほうに伸ばした。
桜井は、言われるままに自分の手のひらをサトシに向かって伸ばした。
桜井の指とサトシの左指が、くっつきそうになった。
サトシは二人のてのひらを近づけて言った。
「いいか。想像してごらん。この薬指に……」
「想像してごらんって、イマジン?」
「ああ、そうだ。イマジオーザピーポー、リビンフォートゥデイ」
そして、二人で声を合わせた。
「「ユーフッフウウー」」
桜井は、クスクスと笑った。
「いつかこの薬指に、お揃いの指輪をしている。どうだ、想像したら元気になっただろう」
こう言えばきっと桜井なら喜んで、元気になるはずだとサトシは思った。
だが、桜井の返事は予想と違った。
「嫌だ」
「え、なんで」
「それって、わたしが喜ぶと思って言っているでしょ。本気で言ってない。バレバレよ」
「そんなことなはい」
「じゃあ、先生だけ先に実物の指輪をはめてくれます? だって、先生の左の薬指に指輪が無いと、他の女子が寄って来ちゃうんだもん。本気なら、好きな人いるよアピールくらいして欲しいです」
「そんなことしたら、まず教員の間で噂になるなぁ。無理だ」
「ほらね。そう言うと思った」
「なんだよ。じゃ、聞くな。あーあ、イマジン作戦失敗か」
「でも嬉しいかも。……不意打ちだったから」
桜井の頬がポッと赤くなった。
「そうか。桜井が嬉しいと感じる瞬間に隣にいられれば、先生だって嬉しい」
桜井の頬がますます赤くなっていった。
サトシは時計を見て五分経ったのを確認すると、急に起き上がった。
「うううううーーん、五分経った。ああ、意志の力で起き上がるのは大変だな。よしっ! せーーのっ!」
サトシは外しておいたメガネをかけて、桜井に向かって言った。
「先生はそろそろ学校に戻るけど、桜井は寝てろよ」
「こんな家庭訪問で、学校にどう報告するんですか? 五分間寝ていましたって書くんですか?」
「そんなこと書かないよ。あ、そうそう、進路調査票。あれ適当に書いてくれ。それだけ回収して帰るから」
「適当? ……で、いいんですか?」
「そんなもの、適当でいい。どうせあと二年の間に変わるんだから。文系でいいだろ、とりあえず」
「先生がそう言うなら、そうしますけど。ペンあります?」
サトシはペンと用紙を出して、桜井に渡した。
桜井は布団から起き上がって、文系と書いてサトシに渡した。
「これでよし。じゃ、先生はこれで……」
「待って。先生、お願いがあります。あの、明日行きたいところがあるんですけど、一緒に行ってくれませんか?」
「いいけど。明日は午前中だけ残った仕事があるから、午後でよければ。まさかデートの誘い……」
「違います! 真剣に悩み相談です。午後からでもいいです。待っていますから、必ず来てください」
桜井の真剣な表情にサトシは圧倒された。
悩みの本質と向き合うために、サトシは助けを求められたような気がした。




