第32話 会いたかった……
桜井美柑を保健室のベッドに寝かせると、サトシは保健室の先生を探し回った。
職員室で先生たちに、保健室の先生はどこにいるか聞いても誰も知らないと言う。
「保健室の先生ですか? 出勤はしているようですよ。どこかで備品の整理でもしているんじゃないですかね」
いないとなれば、しょうがない。
幸い夏休みで授業がないことだし、サトシは桜井に付き添うことにした。
とはいうものの、何をすべきなのか見当がつかない。
とりあえず情けないことに、団扇で桜井を扇いでやるくらいしかできないサトシだった。
しばらくして、桜井美柑は気が付いて目を開けた。
桜井は自分がどこにいるのかわからない様子で、ただボーっと天井を眺めていた。
「桜井、大丈夫ですか」
「ここは?」
「保健室です。具合が悪いのなら、無理して登校しなくてもいいんですよ。と言うよりも、そもそも補習に出る必要なかったのだから、来る必要がありません」
「だって……」
「だって、何ですか?」
「だって……夏休みになると、サトシ先生に会えないんだもの」
「え? まぁそれは、そうですけど。何ですかそれ。そんなこと言われて、先生が喜ぶとでも」
「サトシ先生に、会いたかった……それじゃ、ダメなんですか?」
思った以上に桜井に厳しいサトシだったが、桜井は勇気を出して自分の気持ちを伝えた。
それでも、こんな言葉を先生に言うのは恥ずかしい。
桜井は毛布を顔まで引き上げ、潤んだ瞳でサトシを見つめていた。
サトシがもし新任教師だったら、この言葉にグラッときたかもしれない。
しかし、サトシは教員としての職務に忠実だった。
(始まったな。女子高生は、まだまだ本気で人を愛したことがないから、平気でこういう事が言えるんだ。この年頃の子は、恋している自分に酔っているだけだ。……でも正直、『会いたかった』なんて言われたら、そりゃ喜ぶに決まっているだろ。いや、ダメだ。ここは喜んじゃダメなんだ)
「それはどうも。会いたいと言ってくれて、先生は嬉しいです。では、また二学期に会って、勉強を頑張りましょう」
「そうじゃなくて。わたしは本気で会いたかったって言っているんです。それなのに、サトシ先生ったら、さらりと受け流すんですね。まるで、判で押したような模範解答。わたしの気持ちなんか、まるで無視して」
「当然でしょう。先生は教師ですよ」
「それ、同じ意味」
「あ、そうか。とにかく、桜井は早く帰りなさい。保護者の方に連絡しますから」
「無駄です。この時間は、まだ母さん寝てるもの」
「えっと……、桜井のお母さんは夜のお仕事でしたっけ。お母さん以外で、家にいるご家族は……」
サトシは桜井の家の事情を知っているくせに、わざわざ教員らしい態度を取った。
桜井とは、きちんと先生と生徒の一線を引くつもりだった。
「知っているくせに、先生、酷い。家には弟だけです。友達と遊びに出かけていなければ、アキラは家にいるだろうけど」
「うーん、でも、お母さんは寝ていても電話が鳴ったら、さすがに起きるでしょう」
「先生、もういいです。やめてください。連絡しないでください。わたし歩いて帰れますから」
そう言って桜井は保健室の布団を頭からかぶると、シクシクと泣き始めた。
(おいおい、布団の中で泣いているのか? 苦手だなぁ、まるで俺が泣かせたみたいじゃないか。ってか、これは俺が泣かせたのか)
「ほらほら、機嫌を直して布団から出て来なさい。先生がお母さんに電話をしますから。それでもだめだったら、また考えればいいじゃないですか」
それでも桜井は布団をかぶったまま、泣き続けている。
「とにかく、桜井はここでおとなしく寝て待っていなさい」
サトシは桜井に待つように強く言い残して、保健室から職員室へと向かった。
職員室でサトシは、桜井の家に電話をしたが、思った通り電話には誰も出なかった。
桜井の言った通り、お母さんは仕事帰りで寝ている。
それはわかっているが、電話に出てもらわないとこの先の対応に困るのだ。
(いくら寝ているとはいえ、これだけ電話を鳴らしているんだから、起きて来てもよさそうなものだろ。
桜井をこのまま、歩いて帰らせて大丈夫なものだろうか。
いや、この炎天下、途中で倒れられても困る。
では、タクシーを呼ぶとして……、その費用は俺が負担することで問題はないのか。
いや、家に着けば保護者が起きて来て払うだろう。
でももし、払わなかったら……ああ! いろいろ考えすぎて訳が分からん)
どうしたものかと迷っているうちに、姉なら桜井と顔見知りだしなんとかしてくれるのではないかという答えにたどり着いた。
全く、いい年をして、サトシが思いついた方法は姉に頼ることだった。
職員室を出て英語科準備室に入ると、サトシはさっそく携帯電話で姉に連絡した。
「頼みがあるんだけど、レイコ姉さん。車で学校に来てくれないかな」
「何? なにか問題でも起こしたの? サトシ」
「いや、俺じゃなくて、桜井という生徒の具合が悪いんだ。だけど、保健室の先生はいないし、自宅に電話しても保護者は出ないし……」
「桜井さん? ああ、あの子ね。わかったわ、すぐ車で向かうから!」
姉は桜井の名前を聞いただけで、すぐサトシの頼みを引き受けた。
(まだ詳細を説明していないんだけど……)
サトシは英語科準備室から保健室へと向かう途中、桜井のカバンを持った桃瀬と廊下で会った。
「サトシ先生、美柑は大丈夫ですか?」
「あ、桃瀬か。ありがとう。今から先生の姉さんの車で家に帰らせることにしたから、心配いりませんよ」
「お姉さまが車で迎えに来てくれるんですか。よかったー。先生、わたし、美柑の具合が悪いことをもっと早く言えばよかったです。ごめんなさい」
「いいえ、先生も慌ててしまって、ちょっと言い方がきつかったかもしれません」
「先生、こういうのって慣れてないんですか?」
「ん? こういうのって?」
「い、いいえ、わからないのなら別にいいです」
桃瀬の言い方が引っかかったが、今のサトシにそんなことにこだわる余裕はなかった。
急いで保健室へ行って、桜井を助け起こし、体を支えながら昇降口までつれて行くと、桃瀬も桜井のカバンを持ちながら、サトシの後ろに一緒についてきた。
「美柑、しっかりして。もうちょっとだから、頑張るのよ」
「ハルちゃん、ありがと。柚木くんは?」
「柚木くんは、国語の補習中よ。美柑のことを心配してたよ」
しばらくすると、サトシの姉の青い車が校門前まで来て停車した。
「桜井さん、大丈夫?」
サトシの姉は車から降りて来て、桜井を車に乗せるのを手伝った。
後部座席に、桃瀬から受け取ったカバンを置くと、
「サトシ、あとはわたしに任せなさい」
「レイコ姉さん、悪いね。桜井を家まで送ってほしい」
「わかったわ。あまり具合悪そうだったら、病院に連れて行くからね」
「うん、そうしてくれ。頼んだ」
姉は桜井を車に乗せて、校門から去って行った。
桃瀬は桜井を乗せた車を見送りながら、サトシに言った。
「あのう、サトシ先生? 家っていう説明だけで、お姉さまに伝わってると思います?」
「え、どうしてですか。家でしょう」
「サトシ先生の家とか、サトシ先生の実家とかも家に該当するんじゃないですか?」
「え? まさか間違えないでしょう。こういう場合の家と言ったら、普通は生徒の家を指しませんか?」
「だといいんですけど」
「桃瀬、嫌な言い方しないでください」
「先生、わたし、やっぱり家まで見に行ってもいいですか?」
「その場合の家は、どこを指しているんですか? 桃瀬、自分の家に帰るんじゃないですよね。そんなことより、桃瀬は三時限目に数学の補習があるじゃないですか。欠席は許しませんよ」
「はーい」
サトシは職員室に戻って、机の上の補習プリントを整理した。
すると、さっきの桃瀬の言葉が脳内で繰り返されていた。
―家って説明だけで、お姉さまに伝わってると思います?
(家まで送ってほしいといったら、普通、通じるよな。まさか、俺の家に連れては行かないだろう。もしかして、実家? いやいや、それは絶対にない。レイコ姉さんが、俺の生徒を実家につれて行く可能性は0だ。
じゃあ、俺の家につれて行く可能性は? ワンチャンありか? ……まさか、レイコ姉さんだって常識的にわかるだろう。
レイコ姉さんの常識……か、ヤバい、心配になってきた)
サトシは目の前の事務作業をさっさと片付けて、今日は早く退勤することにした。




