2-2 ゼラニウムの残り香
「よもや中までは入ってこないだろう」
アズールはビリーの身体をベッドにそっとおろした。
ぐにゃぐにゃと柔らかいベッドは無闇に身体が沈む。ビリーは手足をばたつかせてバランスを取りながら、どうにか縁に腰を落ち着ける。
「何を遊んでいるんだ」
悪戦苦闘しているビリーの姿を見てアズールは苦笑し、後ろ手に寝室の扉を閉めた。
ばたん、という音と、ビリーの心臓の鼓動音とが重なる。執務室にいた時とさして状況は変わらないが、なんとなく緊張してしまい言葉が出てこない。
「三十分も待てば充分だろう。あまり早いと別の噂が立つかもしれないしな」
手の甲で扉をこんこんと叩き、アズールはビリーの隣に腰を下ろした。ベッドが深く沈み、ビリーの身体も少し傾く。
「ところで」
アズールは真面目な表情をし、ビリーの方に身を乗り出した。うめくようにベッドが軋んだ音をあげる。
顔が近い。
人付き合いを避けてきたビリーにとって、男性同士の適切な距離感はわからない。
「何か雰囲気が変わったな。香りも違う」
アズールはビリーの顔を様々な角度から眺め、鼻先を髪に寄せる。
さすがにこれには耐えられなかった。身体がびくっと震えてしまい、ビリーは気まずさで顔を背ける。
「そんなに違います……?」
「そう、だな。少なくとも唇と髪が違うのはわかる。特に髪は、花や草木の良い香りがする」
アズールはビリーの髪をひと房つまみ、確かめるように顔を近づけた。そこに好奇心以外の感情はなさそうに見える。
ビリーは顔を上げられない。
アズールの距離感は本当に困る。自分だけが過剰に意識しているのが悔しい。
「アズール様の恋人として相応しい、とまではいきませんが、せめてみすぼらしくないようにと、少し手入れを。……浅知恵ですね。どうぞ笑ってください」
ビリーは仕方なく種を明かす。理由を教えないと、この状況が終わらない気がした。
こんなにもアズールが目ざとく鼻が利くとは思わなかった。ゼラニウムの香油を髪に塗布したのは昨日の夜のことだ。今も匂いが残っているはずがない。
アズールは長い睫毛に覆われた目を瞬くと、ふっと優しく微笑んだ。尻尾が大きく緩やかに揺れる。
「あの……」
「笑えと言ったのはお前だろう」
「や、えっと、そう、なんですが」
ビリーは返答に窮した。本当に額面通り受け取られても困る。
「俺の突拍子もない思い付きに、真剣に取り組んでくれているのが嬉しくてな」
アズールは、人間のものよりやや鋭い犬歯を見せて笑った。良い意味で近寄りがたさが薄れる。
ビリーはいつの間にか上がってしまっていた肩の力を抜き、同じように笑い返した。心なしか胸のあたりが温かくなった気がする。
「突拍子もないという自覚があったんですね。良かったです」
「トゲのある言い方だな」
「今回は言葉どおり受け取っていただいて結構です。正直頭おかしいと思ってました」
「急に言うようになったな」
「こういう風に気安いほうがお好きなのでしょう?」
ビリーは笑みに揶揄を混ぜる。わずかだが余裕が戻ってきた。
「ああ、好きだ」
中途半端な余裕は一瞬にして叩き潰された。
ビリーの手の上にアズールの手が重ねられ、その分だけベッドに沈みこむ。
それ自体はバランスを崩すほどのことではなかった。
徐々に距離が詰められ、気迫に押されるようにしてビリーの身体が傾く。身体を支えていた肘が折れ、背中がベッドにつくまで、さして時間はかからなかった。
「アズール、さま?」
ビリーはどうにか声を絞り出す。
(これくらいのことで意識するなんて、どうかしてる。慣れないことに驚いているだけ。きっとそうだ)
焦りでまばたきが抑えられない。まばたきと同じ速度で鼓動が鳴っている。
アズールは静かにビリーの顔を見下ろしていた。藍色の髪が肩からさらさらと流れ、長い耳が重たげに揺れる。
アズールの真剣な瞳は怖い。内に秘めたやましさを見抜かれている気がする。
アズールの唇が動く。
「若のえっちー。こんな時間からこんな所で何をするつもりなんですかー?」
小鳥のさえずりのような可愛らしい声によって、アズールの言葉はかき消された。
「ルルにも教えてくれますよねー?」
ルヌルムはアズールの背中にぺたっと飛びつき、純粋無垢な笑顔で詰め寄った。
その隙にビリーは身体の下から抜け出し、急いで髪と服を整える。
(なんだったんだろう、今の)
ざわつく胸をさすり、深くゆっくりと肺に空気を落とし込む。
あきらかに雰囲気がおかしかった。アズールが言いかけたことも気になる。
(やっぱり本当は男の人が好きなんじゃ……)
癒しの手のせいで他人に触れるのに抵抗がないということを差し引いても、やはり妙に距離が近い。
「大丈夫ですかー、ビリーさん?」
ルヌルムがぴょんぴょん飛び跳ねながら翼腕を振った。
「若は犬と同じだと思ったほうがいいですよー。下手に出るとじゃれて飛びつかれまーす」
「犬と一緒にするな! ちょっとからかおうと思っただけだ!」
髪に絡まった白い羽根を振り落としながら、アズールは抗議の声を上げた。また翼腕ではたかれたようだ。
「アズール様、ああいった冗談はやめてください。勘違いするじゃないですか」
ビリーは不機嫌な表情を作る。
「勘違いしてくれてもいいぞ」
アズールは何故か機嫌良く答えた。
(どういうこと? 男色だって思われたいってこと?)
「すみませーん。薄々気付いていると思いますが、若って結構なお馬鹿さんなんですー。でもビリーさんと仲良くなりたいっていうのは本心なのでー、ひろーい心で接してもらえるとありがたいかなーなんて」
ビリーの困惑を察したルヌルムがこそっと耳打ちをした。幼いわりにしっかりしている。
ビリーはルヌルムを抱きあげ、よしよしと頭を撫でた。主があの調子では今までも苦労が多かっただろう。
ルヌルムは不思議そうにビリーを見た後、にこっと笑った。男の子か女の子かはわからないが、ルヌルムは存在自体が可愛らしい。