2-1 偽装恋人の作法
毎朝の定例報告をしに来た大臣の怪訝な視線がビリーに突き刺さる。
もしもこんな場面に遭遇したら、ビリー自身、彼と同じような反応をするだろう。
ビリーは今、皇帝としてデスクワークをおこなうアズールの膝の上に座っていた。ふざけているわけでも冗談でもない。
いささか口さがないところのある大臣に、いちゃついているところを目撃させ、二人の関係を広めてもらう――というのがアズール立案の作戦だった。
確かに他人に周知してもらわなければ偽装が成立しない。かといって露骨に見せつけるのが正解なのか。公務中におこなう必要性とは。皇帝の信用が失墜してしまうのではないか。
あれやこれやと悩んだが、結局、色事にうといビリーは押し切られた。性別がバレることを恐れて、人間関係を避けてきた自分に代替案が浮かぶはずもない。
(いちゃつくって何すればいいんだろう。スキンシップ? なんか適当に触ればいい?)
大臣の視線をひしひしと感じつつ、ビリーはアズールの顔を見上げる。「いちゃつく」の事前打ち合わせはしていなかった。
公務中ということでアズールは犬神の仮面をつけていた。叙任式の時に見たのと同じものだ。
儀式や式典ならともかく、事務作業中はただ邪魔なだけだろう。一介の騎士であるビリーには理解できないしきたりが多い。
(垂れ耳の獣人って珍しいな)
ビリーはなんとなく目についたアズールの耳に手を伸ばす。
多くのイヌ科・ネコ科獣人は頭頂部から三角形の立った耳が生えている。今いる大臣もそうだ。
アズールは位置も異なり、側頭部――人間の耳があるあたりから耳が長く垂れていた。
ビリーの指が耳に触れた瞬間、アズールは手に持っていた書類を握りつぶした。大臣はおおげさな咳払いをし、顔を明後日の方向へとむける。
ビリーは構わず、アズールの耳の端を手で持った。表面を親指の腹で撫でてみる。艶やかな被毛は見た目通り肌触りがよく、ずっと撫でていられる。
身体や顔に触るのには抵抗があるが、獣耳であれば見た目的には愛玩動物の耳と一緒だ。気兼ねなく触れることができる。
(耳が塞がって聞こえづらそうだけど、受け答えの感じはそんな気配なかったな。蒸れて手入れが大変そう)
種族による人体構造の違いを興味深く思いながら、ビリーはさらに遠慮なくアズールの耳に触れた。絡まった毛を指先でほぐしたり、指ではさんで根元から先端に向かって撫でおろしたりなどする。
昔飼っていた犬が、こうやってマッサージしてやると喜んだ。犬はよく耳を使うからほぐしてやるといい、と教えてくれたのは兄だった。
「っ、失礼いたします!」
突然、大臣がやや上擦った大声を上げ、逃げるように執務室から出て行ってしまった。床を踏み抜くような足音と、乱雑に扉を閉める音が耳に痛い。皇帝の御前にしては失礼な態度だ。
「……急に具合でも悪くなったんでしょうか」
足音が聞こえなくなり、完全に大臣の気配が消えてからビリーは首を傾けた。
アズールに対して尋ねたつもりだったが反応がない。仮面のせいで表情はわからないが、どうやら様子がおかしいようだ。書類を握りつぶした状態のまま固まってしまっている。
「アズール様?」
肩を叩いてみたり、目の前で手を振ってみてもぴくりとも動かない。
ビリーは仕方なくアズールの手首に指をあてた。
脈を計る。
一分間で百二十三回。
速い、気がする。獣人と人間とで脈拍に違いがあるのかビリーにはわからない。とりあえず生存の確認だけはできた。
「アズール様、邪魔くさいんで仮面外させてもらいますよ」
後頭部で結んだ紐を引っぱってほどき、傷付けないよう慎重にアズールの顔から仮面を外す。
仮面の下の顔は、顔色が出にくい淡褐色の肌にもかかわらず、一目でわかるほど赤く染まっていた。
朝、この執務室にビリーが訪れた時はいたって普通の顔色だった。何かあったに違いない。
「どこか具合悪いんですかアズール様?」
ビリーは仮面を机に置き、アズールの額に触れた。急を要する事態の可能性もある。不敬罪がどうのと言っていられない。
額は冷たく、少なくとも熱はなさそうだった。仮面のせいで息苦しくなっただけだろうか。
「……なんのつもりだビリー・グレイ!」
ビリーが体調不良の原因を推測していると、ようやくアズールが言葉を発した。声が震えている。怒っているような困惑しているような、判断しづらい表情をしていた。
「なんのって、返事がないから、とりあえず意識があるかどうか確かめるために仮面を――」
「違う!」
「じゃあなんです?」
「み、耳に触るとはどういう了見だ!」
「ああ、すみません。どうやってスキンシップすればいいのかわからなくて。ちょうど撫でやすい位置に耳があったので」
「獣人にとって耳や尻尾に触れることは性行為同然だ!」
「そうなんですかすみません。次からは気を付けます――ん???」
ビリーは条件反射で形だけの謝罪で済まそうとしたが、アズールの発言の意味を正しく理解してしまった。
額にぶわっと汗が滲む。
アズールが書類を握りつぶして硬直したり、大臣が目を背けたり、耐え切れずに部屋から逃げ出した理由を遅まきながら悟った。
恋人偽装のためのスキンシップとしては図らずも大成功だ。キスよりも効果があったかもしれない。
だが、それを素直に喜べるほどビリーの神経は太くなかった。
「先に言ってくださいそんなこと!」
思わず声を荒げてしまい、ビリーは慌てて口を押えた。声を聞きつけて誰かに来られては困る。
「言うまでもなく獣人にとっては常識だ! 獣人の知り合いはいないのか!」
アズールは気が回っていないのか大声で反論してきた。顔はまだ赤い。
ビリーは数瞬迷った後、アズールの口に手のひらを押しつけた。もう片方の手で、人差し指を立てて自分の唇に当てる。
相手が皇帝だということはもう忘れることにした。いちいち気にしていたらアズールの奇行――風変わりで豪快な振る舞いを止められない。
「少し声を潜めてください。何事かと思って人が来るかもしれません。ちなみにうちの使用人は獣人ですが、どんなタイミングで『獣人の耳と尻尾がアレ』だなんて話をしろっていうんですか」
「……ルヌルム以外に気軽に話せる者のいない俺にそんなことわかるか」
アズールは声量を抑え、拗ねたようなしょげたような顔をした。
ルヌルムの話では、学生時代に一人だけ友達がいたようだが、喧嘩別れでもしたのだろうか。アズールの様子から察するに、触れていい話題ではなさそうだ。
「……なんかすみません」
トータルで自分の方に非があったような気がし、ビリーは深く頭を下げる。
「もういい」
そっけなく言うと、アズールはビリーの顔を掴んで上げさせた。
初対面の時からそうだが、アズールは何の遠慮もなく触れてくる。癒しの手の性質上、他人に触れることに抵抗がないのかもしれない。
「それより、人間には同じような行為はないのか」
アズールは意地悪く目を細める。
「全然『もういい』なんて思ってないじゃないですか!」
「声が大きいぞ」
立てた人差し指をビリーの唇に押し当てる。
ビリーとしては忘れたつもりだったが、頬も心臓も忘れてはいなかった。
「いっ、いつまでもこのような体勢で大変失礼いたしました!」
ビリーは小声かつ早口で謝り、アズールの膝の上からおりようとする。が、がっちりと腰を抱えこまれた。危うく出そうになった悲鳴をどうにか唾と一緒に飲みこむ。
「アズール様!」
「情事を覗く不届き者がいるぞ」
アズールは耳元に唇を寄せて囁いた。
ビリーは横目で執務室の扉を確認する。
大臣が力強く閉めて出ていったはずの扉が微妙に開いていた。人がいるかどうかまではわからない。
「せいぜいあいつらにも伝え広めてもらうとしよう」
アズールはビリーを抱きかかえながら立ち上がった。扉――廊下へと続く方ではなく、寝室へとつながる扉へとつま先を向ける。
「ぅえっ!? え? はい? あの、どちらへ? 私は問題なく歩けますが……」
ビリーは情けない声を上げ、二つの扉を交互にせわしなく見た。
背中と膝裏を支えるアズールの腕に、自分の体重が乗っているのが否応なしにわかる。抱きしめられた時よりも身体を預けているという感覚が強く、恥ずかしい。
「首に腕をまわして身体を寄せろ。そのほうが運びやすい」
「それはちょっと――あ、代わりに私がアズール様をお運びしましょうか」
「絵面的におかしいだろう。もうそのままでいい」
アズールは呆れたように息を吐き、寝室へとビリーを運んだ。