1-5 くちづけの意味
【キス】
接吻、あるいはくちづけともいう。自身の唇を相手の身体に接触させ、親愛や愛情、尊敬などを示すこと。挨拶や儀礼として単独でおこなうこともあれば、性行為の一部としておこなわれることもある。
ビリーは心の中で辞書を引き、今おこなわれた行為について再確認した。
次に、現状の把握へと移る。
少なくとも性行為の一部ではない。すぐに離れた。その後、続きは特にない。
では、これは挨拶や儀礼だろうか。同性の唇同士でおこなわれる挨拶や儀礼というものは、少なくとも人間族には伝わっていない。
このことから、ほぼ初対面の同性同士でおこなわれるキスは、獣人族固有の文化と推測される。さっぱり理解できないが、皇帝陛下の一挙手一投足にはすべからくやんごとない意味があるはずだ――
不可解極まりない現状をどうにか消化しようと試みるが、不意に頭の中でぷちんと切れる音がした。身体から力が抜け、立てていた膝がずるずると滑る。その場に内股で座りこんでしまう。
なんとはなしに自分の唇に触れると、わずかに濡れていた。それを認識した瞬間、急に現実感が迫ってきた。先ほどの行為が勝手に脳内に映し出される。頭を振っても消えてくれない。
「何やってんですかばかーーー!!」
ルヌルムが怒声をあげ、アズールの肩に飛び乗った。左右の翼を交互に叩きつける。
ルヌルムの様子を見る限り、獣人族において同性同士でおこなわれるキスの文化は存在せず、アズールの行為は非常識なものであったようだ。とんでも理論による忖度は必要なかった。
「やめろ、地味に痛い! 人間族は契約する時にくちづけをすると本で読んだぞ。だからビリー・グレイに敬意を表して人間族流の方法に則って――」
「そんな若なことあるわけないって、少し頭を使えばわかりますよねー馬鹿!」
「馬鹿と若を入れ替えるな!」
「うるさい若! ビリーさんの顔見てくださいよ、あれが近衛騎士に叙任されて喜んでいる表情だと思いますかー!」
ルヌルムはアズールの頭を強制的にひねってビリーの方へと向けさせる。
ビリーとしては、見てほしくなかった。自分が今どんな顔をしているかはわからない。ただ、内側から火であぶられているように顔が熱い。
(ああもう考えるな! 身体の一部が一瞬かすっただけ。そう、かすっただけだ。早く何か、何か言わないと、変に思われる。兄上だったらこんな時なんて言う、なんて言うの? ほんと意味わかんない、この人、全っ然……)
「おい、大丈夫か?」
アズールはビリーの腕を掴んで立ち上がらせた。心配そうに顔を覗きこむ。
「きゃっ……」
その動作がキスを連想させ、ビリーは思わず悲鳴のような声をあげてしまった。
「きゃ?」
「……大丈夫なわけないでしょう!」
ビリーはやけくそ気味にアズールの胸倉を掴んだ。
不敬罪、という言葉がちらつく。
だが日常的に暴力行為に及んでいそうなルヌルムが大丈夫なら、アズールにあり得ないことをされた自分だって多少のことは許されてもいいはずだ。
「婚姻の誓いでもあるまいし、キ……あんなことするわけないでしょう! しかも男同士で! こちらについて慮っていただいたようですが、書物に書かれたことをいきなり実践するのではなく、何よりもまず最初に事実確認をしてください! 絶対確認してください! 絶対に!」
一息にぶちまけると、ビリーは少しだけ落ち着きを取り戻した。
(大失態だ。この程度のことでうろたえるなんて)
ビリーは内心舌打ちをする。
ジーン・フリンと婚約関係にはあったが、実際に会ったのは片手で余るほどだ。キスをしたこともなければ、手が触れたことすらない。
そんなビリーの乏しい恋愛経験を、アズールは短時間で塗り替えてしまった。
「すまない。俺には友と呼べるような者がいないゆえ、間違いがないようにと気を付けたつもりだったのだが。余計なことだった」
アズールはばつが悪そうに顔を伏せた。耳と尻尾がだらりと力なく垂れる。
(気を付けた結果が謎告白とキス《これ》なら、普段通りに接してもらったほうがマシなんですが!)
アズール自身に他意がなさそうなのが余計に性質が悪い。
「私のほうこそ過度に騒いでしまい申し訳ありません。突然のことに少し驚いてしまって……ちなみに失礼ですが、アズール様は女性よりも男性にご興味がある方でしょうか?」
ビリーは視線を逸らし、わざとらしく咳払いをしてから尋ねた。また思い出してしまいそうで、アズールの口元を見ることができない。
「いや。女は苦手だが、かといって男とどうこうしたいとも思わない」
アズールの返答に、ビリーはこっそりと安堵の息を吐く。
実はアズールが男色で、何かの間違いで手を付けられようものなら一巻の終わりだ。詐称の罪がさらに重くなる。
「近頃とみに縁談の話や、露骨に色目を使ってくる者が増えてな。正直うっとうしい。並みの女よりも美しいお前が隣にいてくれれば、皆おいそれとは近寄ってこないだろう」
「……美しい、ですか。私が?」
あまりに自分と縁遠い形容だったため、ビリーはうっかり聞き返してしまった。
銀の君などと呼ばれてはいるが、自身の容姿について美醜という観点で見たことがない。
異性の双子にもかかわらず、兄とうりふたつの顔。ビリーにとって重要なのは、今も変わらず兄と似ているかどうかだけだった。
「そうだ。気分を害する表現だったか? だが俺は美しいと思う。銀の髪も、陽に透かした若葉のような瞳も、すべて」
心の奥底まで見通すように、アズールは視線をまっすぐにぶつけてくる。
「っ……いえ、その、あまり言われ慣れていないもので。こういう時にどういう反応をすればいいのか……」
アズールの瞳と言葉の圧に耐え切れず、ビリーはよろめくように半歩後退った。
さっきほどではないが、また頬が熱くなる。手の甲を押し当てると、予想どおり熱かった。
お世辞だとわかっているのに、身体をちゃんと制御できない。色素の薄い肌は赤みが目立つのが困る。
「ふ、照れる姿は可愛らしいな」
アズールの手がビリーの頬に触れた。
人間と違い、被毛と肉球のある太い指は不思議な感触がした。厚みと独特の弾力があり、たまにかする毛が気持ち良くくすぐったい。
「普段は抜き身の刃のような他者を寄せ付けない銀の光を纏っているのに、今はまるで本当に女子のようだ」
「か、からかわないでください! アズール様は、本当に男色ではないんですよね!?」
ビリーは飛びのくようにしてアズールから距離を取った。
雰囲気がおかしい気がするのは自意識過剰だろうか。
アズールはただ笑みを浮かべている。そこから読み取れる情報は何もない。