6-1 擾乱の夜
父方の叔父である現クベリア辺境伯への手紙をしたためると、ビリーは天井を仰ぐように椅子の背もたれに身体を預けた。
叔父はビリーの意思を汲むだけでなく、帝都での生活の援助までしてくれていた。ウィリアムでいることをやめるにあたって、一番最初に報告しなければならない人物の一人だ。
(明日の朝一番に家に戻って、母上とナーディヤに話をして、それから、フィオナに……)
ビリーの口から自然と重苦しいため息が出る。
妹の潔白を信じられない自分が嫌だった。
プリムの証言だけでは、フィオナを疑う要素は薄い。にもかかわらず、アズールの転落事件やジーン・フリンの凶行に、何らかの形でフィオナが関係しているのではと考えてしまう。
(そういえばジーンの査問はどうなっているんだろう)
ビリーが知っているのは、数日前にジーンの査問が開始され、フィオナが参考人の一人として招致されたということくらいだ。
査問にある程度時間がかかるのは予想がつく。なにせジーンは、帝国の高官・執政官の息子だ。当然、様々な配慮がなされる。
通常であれば査問が開始した段階で勾留されるが、ジーンは現在も自宅謹慎のままだった。
ビリーは一度大きく伸びをしてから立ち上がる。
窓から見える景色は、すっかり夜の色に染まっていた。日中の温かさに比べて、夜は驚くほど冷える。
カーテンを閉めようとビリーが窓に近づくと、外にあかりが見えた。
ランタンと思しき光源を持った誰かが歩いているようだった。
(こんな時間に誰だろう)
ビリーは不審に思い、卓上照明を消して目を凝らした。
帝国騎士団では基本的に、夜間の警らは二人一組でおこなう。つまり少なくとも公務の騎士ではない。
ビリーは執務机の引き出しに手紙をしまい、腰に剣を下げながら観察を続ける。
(……フィオナ?)
光源の近くで、杖のような棒状の物が見えた。
胸騒ぎがする。
一番最初にビリーの頭の中に浮かんだのはフィオナだが、歩行に杖を必要とするものは他に何人もいる――そうやってビリーは自身を落ち着かせようとしたが、何故かうまくいかない。
ランタンの光が進む方向にあるのは廟堂だ。
何かの思い違いであればいいと思いながら、ビリーは部屋を出た。
◇
「夜のひとり歩きは危険ですよ、義兄上」
他人から注意喚起をされて吐き気を覚えたのは、これが初めての経験だった。
ランタンの光を追って廟堂内のホールへと一歩足を踏み入れた瞬間、ビリーは背中に冷たく硬いものを押し当てられた。
「ああ、もうそんな呼び方をしなくてもいいのか、ウィルマ」
ビリーが返事をしないでいると、フィオナの夫である義理の弟――ジーン・フリンは不快感をもよおす粘ついた声で名前を呼び直す。
ビリーはぞわっと全身に鳥肌が立つのを感じた。声も酒臭い呼気もすべてが気持ちが悪い。
「私と妹を見間違えるなど、相当酔っているみたいですね、副団長」
ビリーは鼻で笑い、動揺を隠す。
(タイミングが良すぎる。あれは最初から罠だった? おびき出された? でもなんのために?)
自分も騎士のはしくれだ。尾行されていれば気付くし、やすやすと背後を取らせたりはしない。さすがは腐っても帝国騎士団副団長か、とビリーは少しだけ感心する。
「生きていることを婚約者の俺にまで隠すことはなかったろう、ウィルマ」
ビリーの眉間に深くしわが寄る。
不快極まりない。
アズールに呼ばれるのとは真逆の意味で、自分の名前を口にされたくなかった。
「謹慎中だとお聞きしていますが、このような所で何をしておいでですか?」
喋りながら、ビリーは窮地を抜け出す方法を考える。
背中に当てられているのは、おそらく帝国騎士の標準装備として支給されるナイフだろう。騎士制服は一定のの防刃能力はあるが刺突には弱い。
今自分は左手にランタンを持っている。抜刀しようとすると灯のゆらめきで悟られてしまう。
風を起こそうにも、目視していないと著しく命中精度が下がる。
(……刺されるの覚悟でやるか)
廟堂付近にはめったに人は訪れない。夜ならばなおさらだ。助けが期待できない以上、己でどうにかする他ない。
「しらを切ることないだろう。フィオナから全部聞いているんだ」
思いがけない名前を出され、ビリーの動きが鈍った。
腕を掴まれ、足を払われる。背中を強く床に打ちつけ、一瞬息が詰まった。
ジーンにのしかかられ、男の力で手首を押さえつけられる。
ビリーの手からランタンが離れ、無機質な音を立てて転がる音がホールに響く。
「離せよジーン。野郎に押さえつけられる趣味なんてない」
ビリーは視線だけで射殺すつもりでジーンをにらむ。
ジーンは返事の代わりに、ビリーの顔の真横にナイフを突き立てた。幾本もの銀の髪が断たれて落ちる。
「あの垂れ耳の犬畜生には乗られてるだろ」
ジーンは下卑た汚い笑みを浮かべた。
正面から見るジーンの顔は生白く浮腫み、目の下には青黒いクマが深く刻まれていた。充血した瞳は落ち着きなくちらついている。
「帝国騎士としてあるまじき発言だな。多少なりとも副団長としての矜持が残っているなら、今すぐその薄汚い舌を噛み切って自害しろ」
「いいね、続けてくれ。気の強い女を組み伏せるのが好きなんだ」
ジーンは顔を近付け、酒臭い息を吹きかける。
「フィオナから何を聞いた」
ビリーは顔を背けたいのをこらえ、尋ねた。
「四年前本当に死んだのは俺のウィルマではなく、いけ好かないウィリアムだったってことさ。なんでいまさらになって俺にそのことを教えたかわからない。俺を脅して婚約した時からずっと、あのイカレ女の考えなんぞ読めたことがないけどな」
皮膚の荒れたがさがさとした指がビリーの頬を撫でる。
強烈な嫌悪感でビリーの身体が震えた。殺意すら覚える。
「言うに事欠いてひとの妹を侮辱するとは程度が知れる。それにウィルマはお前のじゃない。あんたとの婚約がなくなって心底良かったよ。それについては、申し訳ないけどフィオナに感謝してる」
ビリーは肩をすくめ、あてつけがましく口元を歪めてみせた。
「は、何も知らないんだな」
ジーンは憐みの目を向けた後、発作的に哄笑した。狂った笑い声がホールに反響する。
「俺が火をつけなくとも婚約は破棄になってたさ。お前の親父と兄貴が急に猛反対したからな。まさか四年前に見たチビのドロップイヤーが皇帝陛下だったとは。のちの皇帝陛下に見初められたなら、俺なんかに娘をくれてやる道理はないか」
ビリーの肩と腕に残る火傷の跡が、爪を立てられたかのように鋭く痛む。
何から何まで初めて聞かされる話だった。
だがもっとも引っかかったのは一番最初。
――「俺が火をつけなくとも」?




