5-10 ウィリアムとの決別
「ちょ……っと、人に何かを尋ねるにしては、距離が近い、と、思うんですが」
ビリーは自分の顔の前に両手を出し、頼りない壁を作った。
「さっさと答えないからだ」
むっとした表情のアズールは、手などお構いなしに顔を寄せてくる。
「い、嫌とかでは……ない、です、けど」
圧に屈する形で、ビリーは途切れ途切れに言わされた。
たとえ皇帝相手であろうと、本当に嫌だったら地べたに這いつくばらせている。
「なら問題ないな」
知ってた、とでも言いたげな余裕の笑みを浮かべ、アズールは手を伸ばした。顔回りの髪を耳にかけるようにして、ビリーの顔に手を添える。
ビリーはとっさに固く目を閉じた。唇がわななく。アズールに触れられると何故か自分が弱くなる。
数秒経っても予想していたことが起こらず、不思議に思ったビリーはそっと目蓋を持ち上げた。
アズールは口元に手を当て、笑いを押し殺している。
「期待してたのか」
「ばっか、このっ、違う……!」
瞬間的に顔がかっと熱を持ち、ビリーは恥ずかしまぎれに拳を振り上げた。
予想であって期待ではない。そう訂正しようにも、今の顔では言い訳にもならなそうだった。
「焦らして悪かった。期待には応えよう」
ビリーの拳を軽く受け止めると、アズールは自分の首に腕をまわさせた。目をつむる暇も与えず、覆いかぶさるように唇を重ねる。
妙に手慣れた感じが癪に障ったが、呼吸のタイミングすらままならないビリーにはどうすることもできなかった。
「こんなこと、簡単にしないでください……」
顔を見られたくなくて、ビリーは額をアズールの身体に押しつけた。身体中の血が沸いているかのように、とくとくと脈打っている。
「簡単じゃない。腹を括ってやっている」
アズールはじれったいほどゆっくりとビリーの髪を撫でる。
「……いやそこまで覚悟されるのも逆に」
「ならばもっと軽率軽薄にやればいいのか」
「そんなこと言ってません! 極端から極端に走ないでください!」
アズールの滅茶苦茶な言い分に、ビリーはたまらず顔を上げて叱り飛ばす。
「したいからしているし、触れたいから触れている。だめなのか?」
何も知らない純真無垢そうな表情をして、アズールは手の甲でビリーの顔の輪郭をなぞった。
見た目の印象よりも柔らかい藍色の毛はくすぐったくて気持ちが良い。それだけで、すべてうやむやにしてもいいような気分になってしまう。
「それに、前に言ったろう。万が一、断りなしにした時は責任を取る、と」
アズールの親指がビリーの唇に触れた。湾曲した爪の先がそっと上唇を押す。
その微妙な感触が、ビリーの口から濡れたため息を吐き出させた。
(いつ言ってたっけ)
ビリーはぼんやりと記憶をたどる。
(――ああ、近衛騎士を引き受けた時だ)
空から落ちてくるアズールを助けたことが、おそろしく昔のことのように思える。当時は、突然降りかかった事態に終始困惑していた。アズールの行動に困らされるのは、今もあまり変わりない。
「責任はいいので、どうか私からも言わせてください」
ビリーはアズールの背中に腕をまわし、二人の隙間をなくすように抱きしめた。アズールの重さと体温が、心地良く全身にかかる。
「好きです、アズール様。もう、偽装ではいられない。いたくない、です」
想いを音に乗せると、ビリーの胸につかえていたものがほろほろと崩れていった。
ビリーは腕に力を込め直し、アズールの耳に頬を寄せる。
アズールは石化してしまったかのようにがちがちに固まっていた。尻尾だけが、ぶんぶんと軽快に風を切っている。
「アズール様?」
アズールは無言で自分の尻尾を握って止めると、ぶるぶると全身を震わせた。
「アズール、様?」
「ダメだ馬鹿俺自制しろ! こんなの良くない! 早い! 予習もなしにまだできない!」
アズールは意味不明なことを叫び、ビリーの身体を引き離す。
「大丈夫、ですか?」
ビリーは心配を通り越して怪訝な顔をしてしまう。
アズールの顔は絵具を塗りったくったように赤く、うっすらと湯気が上がっていた。
尻尾は、ひとつの独立した生命体ではないのかと思うほど自由に激しく、のた打ち荒ぶっている。
「やっぱり侍医を呼びますか」
「絶対呼ばなくていい!」
「体調が悪そうに見えますが」
「これは九割がたメンタルの問題だ!」
「はぁ」
メンタル由来のものだとしても、やはり専門家に見てもらった方が良いのではないかとビリーは思う。顔色と尻尾の動きが尋常ではない。
「ウィルマ! お前の自覚のないところ、本当によくないぞ!」
アズールは拳で自分の太腿を強く殴りつけた。
「はぁ、はい」
ビリーはベッドの上で居住まいを正す。
自分に悪いところがあるなら、もちろん治したい。とはいえ、具体的に何がいけないのか指摘してもらわないと治しようがない。
アズールはじっとビリーを見つめ、きっかり三秒後に両手で顔を覆い隠した。
「……ちがう。俺のばか。俺がいけない。俺が悪い」
不安定な揺らぎのある声で自分を責めながら、アズールは布団に頭を突っ伏す。
(重症そうだ)
ビリーは苦笑を抑えられなかった。
癒しの手を使うと、肉体的な疲労だけでなく、精神にも負荷がかかるのかもしれない。
ビリーはアズールの頭飾りを外し、藍色の髪を整えるように撫でた。やや硬めでしなやかな髪は指通りが気持ち良い。いつまでも撫でていられる。
だがふと、多幸感に影が差した。
『わたくしにとっては良き夫です。お姉様の代わりであるにもかかわらず、わたくしを大切にしてくださっています』
『あなたの妹が、ついこの間まで廟堂の掃除を担当していたこと、結婚を境にジーン・フリンがおかしくなったことだけは事実だわ』
フィオナの言葉とプリムの証言が、ビリーの頭の中で交互に巡る。
その二つを、ビリーにはどうしても繋げることができない。
(フィオナが関与しているのだとすれば、調査を打ち切りにしたことも納得がいく。想像したくないけど)
髪を撫でていたビリーの手が止まる。
ビリーが知りたいことの答えを持っているアズールは、いつの間にか眠ってしまっていた。
今になって打撃の影響が出て意識を失ったのでは、とビリーは心配したが、規則的な寝息が聞こえてきた。ほっと胸を撫で下ろす。
(ちゃんとさらしを巻き直しておかないと)
二つの膨らみを見て、ビリーは息をつく。
ビリーはアズールを起こさないようにベッドから降り、洗面室へと駆け込んだ。扉にきちんと鍵をかけ、鏡に映る自分と向き合う。
(……兄上と似てない)
銀の髪も若葉色の瞳も同じ。顔のパーツやその配置も、記憶の中の兄とそっくりだ。
なのに、別人だと、女性なのだとはっきりとわかる。雰囲気、としか言いようのないものが明らかに変わっていた。
(ごめんなさい、母上。私から始めたことなのに、ウィリアムではいられない)
目の端からひとすじの涙が落ちる。
ビリーは鏡の中の自分に手を伸ばした。
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