5-9 共存共栄の規範
「……私、もう帰っていいかしら」
完全に蚊帳の外に置かれたプリムは痺れを切らし、水を差した。
「ようするに、あんたたちがどれだけ互いに想い合っているかを見せつけられているわけでしょう。この先は二人でやって。そっちとしても、その方が色々やりやすいでしょ」
プリムはひらひらと手を振り、部屋から出て行こうとする。
「あっ、まっ、待ってください! プリム様にはお聞きしたいことが」
ビリーは慌ててプリムの手を掴んで引きとめた。
話がまったく違う方向に流れてしまったが、そもそもフィオナについて聞くはずだった。どうしてここまで話が逸れたのかビリー自身にもよくわからない。
「なによ」
「フィオナについてです。プリム様が知っていることを、教えてください」
「ああ、あなたの妹、ね。さっきは頭に血がのぼってああ言ったけれど、確かに確証があるわけではないわ」
プリムはばつが悪そうに腕組みをする。
「けれど、少なくともあの女――あなたの妹が、ついこの間まで廟堂の掃除を担当していたこと、結婚を境にジーン・フリンがおかしくなったことだけは事実だわ」
淡々と述べるプリムの様子から、嘘も誇張もなさそうに見えた。
「最後に一つ、いいかしら」
プリムはやんわりとビリーの手を外し、破いた服を隠すストールをきっちりと巻き直した。
「もう、皇后になりたいなんて思っていないわ」
ビリーを見つめ、毅然とした態度で宣言する。
「私と見る目と、あなたを見る目とじゃ、全然違うもの」
わずかに言葉尻が揺らいだ。プリムの瞳が潤んで光る。
「――だけれど」
居間にも涙をこぼしそうだったプリムの目が、急に険しくなった。
つかつかとアズールの方に歩み寄り、プリムは思い切り右手を振りぬいた。
ビンタというよりも掌底打ちに近く、手のひらで顎を打ちぬかれたアズールは、その場に腰から崩れ落ちる。
「『カダル帝国は、獣人と人間が共存共栄するために手を取り合い、興し、繁栄した国だ』と私に偉そうに言ったわよね。皇帝であるなら、規範を示しなさい。半端なことをしたら、次は平手ではすまさないわよ」
プリムは両手を腰に当て、アズールを見下ろした。
(ただの平手じゃなくて手のひらの付け根が完全に顎に入ってたから、脳震盪起こす威力だと思うんですが……)
ビリーはひやひやと事態の成り行きを見守る。
アズールはゆっくりと顔を上げた。
「無論だ」
短く力強く応える。
「プリム。今までろくに話し合おうともせず、ただ避けてばかりですまなかった」
アズールは真摯な眼差しでプリムを見た。
「遅いのよ、馬鹿」
プリムは目蓋を伏せ、部屋から出て行った。
「アズール様!」
部屋の扉が閉まるのと同時に、ビリーは駆け寄った。アズールを抱え起こし、ベッドに寝かせる。
「視界がぐらぐらする……」
アズールは手で目元を押さえ、大きくため息をついた。
ただでさえ癒し手の影響で体調が悪いというのに、後頭部と顎にダメージを受けている。意識を失っていてもおかしくない。
「とりあえず、何か冷やすものを持ってきます。侍医を呼びましょうか」
「いや大丈夫。いきなり殴られて驚いただけだ」
言葉とは裏腹に、殴られた場所が赤く腫れあがっている。
ビリーは洗面所で布を濡らし、アズールの顎に静かに当てた。布越しに熱が伝わってくる。
「お前もプリムにやられたのか。腫れてる」
指摘され、ビリーはプリムに叩かれたことを思い出した。同時に痛みと熱感もよみがえる。
「あいつは子供の頃から言葉も行動もきつくてな。苦手だったよ」
アズールはビリーの頬に触れた。
触れられた瞬間だけ鋭い痛みが走ったが、すぐに腫れと痛みが引いていく。
「私のことはいいですから! 無理はしないでください。まずは自分を――」
「無理をしてでも治したい。これは俺のわがままだ」
アズールは強い意志のある声と視線で遮った。
ビリーは言葉にならなかったものをため息として吐き出す。
「ところで」
アズールは恨みがましく、じろりと目玉を動かした。
「俺の告白が流されたわけだが」
「っ……別に、そういうつもりでは」
手で押さえられているせいで、ビリーは顔を逸らせない。
「本当はもっと時と場所を選びたかったんだがな」
アズールは目を細め、親指の腹でビリーの頬を撫でる。
ビリーはぐっと心臓を押されたように息が詰まった。自分が唾を飲み込む音がやたらと大きく聞こえる。
「好きだ」
アズールは、湖水色の瞳にビリーの顔を映した。
「昔は、遠くから眺める憧れだった。今は、触れて、知りたい。そばにいてほしい」
人間と異なる、毛皮に覆われた獣人の手が、銀の髪を撫でる。
ビリーは微笑んでしまいそうになるのを、唇を噛んで堪えた。
「人間の私では、アズール様の隣に立つのに、ふさわしくありません」
アズールがそう言ってくれるのは嬉しい。ビリー自身、叶わないと思いつつ望んでいたことだ。一も二もなく受け入れたい。
だが、身分と種族が邪魔をする。
アズールが皇帝でなければ、自分が獣人であったなら、悩むことなどなかったのに。
「どうか」
「俺が嫌なのか」
アズールは意図的にビリーの言葉を遮った。
「嫌とかではなく、冷静に考えて、私では不釣り合いでしょう」
ビリーは無意識のうちに拳を握りこんだ。
考えれば考えるほど、自分のダメなところが浮き彫りになってくる。
素性を偽って騎士団に入った上に、今も偽装恋人として周囲を騙している。身分や種族以前に、利己のために偽りを重ねた自分が、手を取っていいものなのか。
「ダメだ。冷静になどさせない」
アズールは拗ねたように言い、ビリーの身体を抱き寄せた。身体の上下を入れ替え、ベッドにビリーを組み伏せる。
アズールの体温を近くに感じた瞬間、ビリーの頭の中にあったものが霧散した。積み重ねていた言い訳が一瞬で崩される。言葉が一音も出てこない。
「今は、嫌かどうかだけを聞いている」
決して大きな声ではなかったが、アズールの声音には人をたじろがせる何かがあった。




