回想 若き獣人皇帝の悩み3(アズールside)
「無理。年単位で引きずる」
アズールは即答し、手すりに額を押しつけた。
想像しようとした途端、防衛機構が働いた。頭の中が真っ暗で何も浮かばない。考えるだけでも気分が沈むんだからやめておけ、という身体からの忠告のようだった。
「そんな情けないこと言わないでくださぁーい……」
ルヌルムはアズールの長い髪を抱えるようにして引っぱり、無理矢理顔を上げさせる。
「無駄に整ったお顔と皇帝の地位をフル活用すれば大抵の女の人はいけますよー!」
「そんなに俺の中身はダメか」
「はい。少なくとも現状は陰から見てるだけの消極的なストーカーですからねー」
「ストーカー……あああ……」
再びアズールはうつむいた。
ルヌルムに言われなくてもわかっている。だからこそ、今まで自分のことを客観視するのを避けてきた。
「でも、もし仮に顔と地位でなびかれても複雑だ。獣人の女どもと変わらないではないか」
皇帝になってからというもの、周囲が向けてくる視線の変わりようは凄まじかった。蔑まれていたほうがよほど楽だったと思うほどに。
人ではない、何か忌まわしいものに囲まれているような幻覚に苛まれた。
最初の数か月は絶えずひどい吐き気に襲われ、公務の時以外でも犬神の仮面を着けていなければ生活ができなかった。
特に獣人の令嬢たちの色目がきつかった。
滴るほど欲があふれた視線。
おぞましさに全身が震える。
そういったことが余計にアズールの足を空中庭園へと向かわせた。
人間の女からも誘惑はあったが、まだいくらかマシだった。獣人ほどの必死さがない。慣例として皇帝の伴侶は獣人から選ばれるからだ。皇后はもちろん側室に至るまで一人の例外もない。おおやけの記録では。
「まだ起こってもないことで何うだうだ言ってんですかー。もうさっさと声かけてきてくださーい。これ以上理想の押しつけがひどくなる前に」
図星をつかれ、アズールはぎくりとした。氷の刃で心臓を貫かれたような、血が凍る感覚がいつまでも残る。
ルヌルムの言うように、アズールは現実を見てはいなかった。
自分が変わったように相手も変わっている。そういった面を知ろうともせず、見たいものをだけを遠くから眺めている。己の臆病さを盾にして。
学生時代の淡く大事な思い出をビリー・グレイの中に見出そうとしているだけだ。それを恋愛感情と呼ぶのは歪だろう。
「……だが」
「でもだがうるさいでーす! ご友人から必勝の計を授けてもらってるでしょー!」
「ん……」
『ビリーは僕と違って押しに弱いからね。とりあえずこれに書いてあることでもやっとけばいけるんじゃない?』
と軽薄に笑うウィリアムから冗談半分に渡された本があった。当時学校で、女子生徒を中心に流行っていた恋愛小説だ。
ひと通り読んだが、その内容はとてもとても口にできない。陰気で後ろ向きな自分には到底実行できないようなことがさらりと大量に書かれていた。
「できる気がしない」
アズールは額を手すりに押しつけた。
△※●を★□♯したり、×◯で※♭▽に◆×○×※☆するなど、考えただけで頭から湯気が出る。世の中ではこれが一般的なのだろうか。正気を疑う。
「できないとやらないは違いますしー、やらないとできませんよー」
ルヌルムの言うことはいつも正しい。それに比べて自分は図体が大きいだけの子供だ、とアズールはつくづく思う。
上四州のうちの一つ、ディーシ州に居を構えていたものの、正統性の証明が難しい傍系の家筋。そんな家の息子――しかも外見的特徴だけで劣った者と見なされる「ドロップイヤー」として生まれついた自分を、ルヌルムはずっと支えてくれている。彼には頭が上がらない。
「犬神の仮面をつけている時はちゃんと皇帝らしく威厳たっぷりに振舞えているんですから、理想の自分の仮面を被っていると思って振る舞えばいいんですよ」
「自分を偽れ、ということか?」
「みんな何かしら偽って生きてますよ。相手によく見せたいと背伸びするのもある種の偽りです。それは悪いことでしょうか」
ルヌルムは子供らしく無邪気な顔で笑ってみせる。
アズールは根負けしたようにわずかに口角を持ち上げた。
「若、とりあえず背筋伸ばすところから始めましょう!」
「ぎゃあっ!」
アズールの腰のあたりに覚えのある痛みが走る。
振り返ると、庭師の爺がほうきを構えていた。
「何をするか爺!」
「まずは水やりをちゃんと終わらせてからにせい! 変な所に水をまき散らしおって! 目の前のことも満足に片付けられん者にいったい何ができるか!」
庭師の爺は言動こそ荒っぽいが、話が終わるまでしっかり待ってくれていたあたり人が良い。
「ふん、今からやろうと思っていたところだ! 迅速かつ完璧に水をまいてやるぞ!」
アズールは意味なくふんぞり返り、声を張り上げて宣言した。
庭師の爺は興味なく背を向け、地面を掃く。
「……これはもうろくした爺の独り言だ。多少まわりに迷惑をかけてでも、恥をかくことになろうとも、我は押し通すべきだろうて。俺のように死後に見舞うことしかできなくなる前に、な」
廟堂には歴代の皇帝や、帝国のために身命を賭した英霊たちが祀られている。
その中で女性はたった一人。そしてなおかつ、人間族だ。
先代皇帝が周囲の反対を押し切って墓碑銘にその名を刻んだらしい。その出来事は、廟堂に人が寄り付かなくなった一因でもある。
「意外に感傷的だな。ひとに無理やり帝位を押し付けた、血も涙もないくそ爺だと思っていたぞ」
あくまで庭師の爺に話しかける調子で、アズールは暴言を投げつけた。
聞こえていないのか、庭師の爺は一定の速度でほうきを動かし続けている。
アズールは背筋を伸ばし、空を振り仰いだ。




