1-4 二人の容疑者
「……陛下、そんなに人望ないんですか?」
ビリーは憐憫のこもった瞳をアズールに向けた。
「皇帝に手を握られた上に頭を下げられる」という、臣下としては反射で頷いてしまいそうなシチュエーションだったが、串焼きのタレと脂でべたべたの手が邪魔をした。
「ない。まったくない」
皇帝は無駄に自信たっぷりに強く断言した。そこまで言うからには本当にないのだろう。
「あと、皇帝や陛下と呼ぶな。好きじゃない」
「その二つを封じられた私にどう呼べと……そこのルルちゃんみたいに、若様、とかですか?」
「俺はアズールだ。名で呼べ」
「はぁ……アズール、様?」
ビリーが慣れない呼び方を舌に乗せると、皇帝――アズールはぱっと顔を綻ばせた。口元からやや鋭い犬歯が覗き、雰囲気がぐっと幼くなる。尻尾もちぎれそうなほど振れていた。
獣人は耳や尻尾にも感情が現れてしまうため、隠し事が苦手な傾向にある。
(可愛い……いや違う、ダメだ。相手は皇帝。『昔飼ってた犬みたいで可愛い』とか思っちゃ絶対ダメだ)
ビリーは邪念を消すために意識的に頭を強く振った。
(でも、ほぼ初対面の相手にこんなに簡単に尻尾振る皇帝って、大丈夫?)
国の行く末に一抹の不安を感じつつ、ビリーはアズールの手を丁寧にはずした。失礼します、と断りを入れてから布巾でアズールのべたつく手をふく。
「いくつかお聞きしたいのですが、突き落とされたということは、皇帝――アズール様を暗殺しようとした輩がいるということですよね? 私個人などではなく、総力を挙げて対処すべき由々しき事態だと思うのですが」
「犯人の目星はついている」
アズールは断言した。
「疑わしいのは二人。一人は、プリム・ガルシア。ディーシ伯令嬢」
帝国十二州の中で「上四州」と呼ばれる、皇帝直轄領を囲む四州。そのうちの一つがディーシ州だ。上四州はすべて獣人族によって治められている。つまり容疑者の一人は権力者の娘で獣人。
ビリーの記憶が確かなら、ガルシア氏族はウサギの獣人だ。ルヌルムが「うさ耳嬢」がどうだとか「ウサギに蹴られる」とか言っていたのは彼女を示唆していたのだろう。
(痴情のもつれかな……)
ビリーは気力が削がれていくのを感じる。
皇帝命令であっても他人の色恋沙汰には極力関わりたくない。
そんなビリーの心中を知らずにアズールは言葉を続ける。
「もう一人は、フリン執政官の末子であり帝国騎士団副団長のジーン・フリン」
ビリーの脳裏に赤髪の青年が浮かぶ。
細い針で刺しぬかれたような冷たい痛みが心臓のあたりに走った。たまらず胸元を握りしめ、意識して呼吸をする。不意に名前を出されると、いまだに心が揺れてしまう。
「……どちらも国の重鎮の縁者ですね」
ビリーは息を吐きだし、情報をまとめる。アズールたちには、上司が容疑者の一人であることへの動揺だと映っただろう。
「そうだ。ゆえにあまり事を荒立てたくない」
「事情はわかりました。ですが何故、私なのですか? アズール様もご存じのとおり、私は末席ではありますが帝国騎士です。そして何より、副団長ジーン・フリンは私の妹フィオナの夫。年齢こそ私が下になりますが、義弟に当たります。副団長と通じていると考えるほうが自然なのでは?」
淀みが出てしまわないように、注意深く発言する。
帝国騎士団副団長ジーン・フリンは、元々は自分の婚約者だった。四年前に父と兄が死に、すべてが変わった。
婚約者ではあったが、ジーンに対して好意はない。だが何か一つ違っていたなら、配偶者として隣にいた人物だ。
彼個人に対する感情というより「もしも父と兄が生きていたならば」という未来に対しての渇望で心が悲鳴をあげる。
「俺を暗殺しようという一味の者が、意識を失うほどの怪我を負ってまで助けようとするのか」
アズールはじっとビリーを見据えた。
つい先刻までの与しやすさは消え、偽りを許さない冷たさが表層に現れる。油断を誘うための演技に欺かれたのかもしれない。
澄んだ色の瞳にすべてを見透かされそうで、ビリーは目を逸らしたくなった。
「信頼を、得ようとしたのかもしれません」
ビリーは目蓋を伏せ、軽薄な笑みを浮かべる。
「そんな必要などないだろう。お前が助けなければ俺は確実に死んでいた。目的はそれで達成だ」
(確かに。それはそうなんだけど……)
アズールの言っていることに間違いはない。
皇帝暗殺が目的ならアズールの言うとおり見殺しにすればいい。
しかし本来の目的が別にあるなら話は変わってくる。落下地点の近くに偶然ビリーが居合わせたことを疑わないのは何故なのか。
「どちらにも与していないと確信を持って言えるのはお前だけなのだ、ビリー・グレイ」
命を助けたこと以外に何か確証でもあるのか、アズールの様子には迷いがない。
「暗殺に失敗したフリン副団長から接触され、寝返るかもしれませんよ」
ビリーは心にもない言葉を重ねてしまう。
厄介事を引き受けたくないというのもあるが、自分のことを盲信するアズールが心配だった。
「構わぬ。好きにすればいい。俺の見る目がなかったというだけのことだ」
アズールの態度は一貫してどこまでも実直だった。
「お前に命を救われた事は何かの巡り合わせだと思っている。俺にはお前が必要だ。近衛騎士となり、俺を手伝ってくれ」
物理的に心を揺さぶられた気がした。
ここまで誰かに望まれたことがあっただろうか。
兄の代わりでしかない自分が。
「……わかりました、アズール様」
ビリーはその場にひざまずき、胸に手を当てた。
派手な行動をすれば、それだけボロが出てしまう確率も高くなる。だから今まで、極力他人と接しないようにしてきた。
騎士団内でもできるだけ単独で行動し、除名されない程度の働きしかしていない。不忠や副団長の身内びいきといった謗りを受けることもあった。
(私もたいがい単純だな)
相手が皇帝とはいえ、強く請われただけで膝をついてしまった。この選択の結果が、自分やグレイ家の破滅につながるかもしれないのに。
「不肖ウィリアム・ビリー・グレイ、近衛騎士の任、謹んでお受けいたします」
明朗な声で宣言し、顔を上げると、不自然な近さにアズールの顔があった。
騎士の叙任式の際には、皇帝が騎士となる者の両肩を払うという儀礼がある。近衛騎士に対しても、何かそういった形式に則っておこなう行為があるのだろうと、ビリーは口を引き結んで成り行きを見守った。
アズールの手がビリーのおとがいをつかんで上を向かせる。
湖水の瞳と視線がぶつかった。
見惚れてしまいそうなほど秀麗なアズールの顔が、ビリーの間近にあった。
ビリーの心臓が大きくどくんっと跳ね、頭の中に疑問符が浮かぶ。
アズールの唇が微笑みの形に吊り上がり、ビリーの唇に重なった。
時間としてはほんの一瞬だったが、こんなにも長い一瞬をビリーは知らない。
アズールの唇が離れたあとも、ビリーの頭の中には変わらず疑問符が浮かび続けていた。