5-8 もう一つの嘘
「何見てるのよ! 最低ね! 出て行って!」
プリムは枕を掴み、全力でアズールに向かって投げつけた。
枕はアズールの顔面中央を正確に捉える。食らったアズールは衝撃で倒れ、扉に後頭部を打ちつけた。
ビリーは慌てて服の前を合わせ、脱ぎ捨てた制服を羽織って体裁を整える。次にクローゼットから薄手のストールを取り出し、プリムの胸元を隠すように巻き付けた。
「いっ、つ……ルヌルムから報を受けて来てみれば……どういうことなんだ、これは……」
アズールは痛みに顔を歪め、後頭部におそるおそる手を当てた。
「体調が悪いところすみません。えっと、こうなった経緯は色々あって……」
ビリーは言葉に詰まる。何を何からどう話せばいいのか、判断がつかない。
「見損なったわ、アズール。いくら皇帝の異種族婚が認められないからといって、こんな形で人の心と身体を繋ぎとめておくだなんて。あんたこそ非獣人を見下してるんじゃないの!」
一方、プリムの行動は早かった。アズールに指を突きつけ、激しく非難する。
取り急ぎビリーは、プリムとアズールの間に割って入った。
「待ってください、プリム様。違います、違うんです」
ビリーは奥歯を噛みしめ、言葉を探す。中途半端な取り繕いではいけない気がした。
「私は、恋人でもなんでもありません。私が一方的にアズール様のことをお慕いしているだけです。アズール様にとって私は、女性を避けるためだけの偽りの恋人にすぎません。そばにいられれば良いと、少しでもアズール様の役に立てるのであればそれでいいと、望んでここにいるのです。中途半端に秘密を明かし、結果、混乱させてしまい本当に申し訳ありません」
ビリーは両手をきつく握りしめ、深く頭を下げた。
耳の奥が痛くなるほどの静寂が訪れる。
プリムに殴られ、罵倒される方がいっそ楽だとビリーは自嘲気味に思う。
「俺を庇わなくていい、ウィルマ」
最初に沈黙を破ったのはアズールだった。
アズールはビリーの肩に手を置き、ビリーを背に隠すように前に出た。
「すべてプリムの言う通りだ。彼女をこんな立場でいさせているのは、俺のわがままと意気地のなさが原因だ」
アズールの発言に、ビリーは弾かれたように顔を上げる。
「何を言っているんですか! 私たちは何も――」
「そう、恋人ではない。だが一方的に好いているのは、俺の方だ」
アズールはビリーの方へと向き直った。
「すまない。俺はもう一つ嘘をついている。お前が女だとわかっていたのではなく、ウィルマ・ビリー・グレイであると、ウィリアムの双子の妹だと最初から知っていた。知ってて黙っていた」
まばたき一つせず、アズールはしっかりとビリーの若葉色の瞳を見つめて言う。
「ウィリアム・ビリー・グレイは、俺の唯一の親友だ」
(兄上が、アズール様の、親友?)
アズールは以前、友を亡くしたと言っていた。
兄・ウィリアムは四年前の火事で亡くなっている。
ナーディヤは、兄に垂れ耳の学友がいると言っていた。
兄の代わりに、何度か成りすまして学校に潜り込んだことがあるが、ビリーの見立てでは、本当に親交がありそうなのはせいぜい二、三人くらいだった。それが獣人だったかどうかは、覚えていない。
(……ああ、でも、一人だけ家に招待した人がいる)
ビリーの脳裏に、四年前の、まだウィルマだった頃の記憶がよみがえる。
火事が起きてしまったあの日、本当ならば兄の友人に料理を振る舞うはずだった。兄からしつこく「とにかくお前が料理を作れ。絶対だ」と言われていた。
その理由はもう一生わからない。そう思っていた。
「ウィリアムの妹は、性格は荒っぽいが料理が上手いらしいな。あんなことがなければ、馳走にあずかっていたはずだったのだが」
アズールは耳の被毛を撫でおろし、少し寂しげに目を細めた。
ビリーの中で、引っかかっていたものがするすると解けていく。
アズールにどこか見覚えがあったのも。
ビリーが料理をすることをアズールが知っていたのも。
アズールが「また食いそびれた」と言っていたのも。
クベリアですでに出会っていたからだ。
「騎士の叙任式の時にお前の姿を見て驚いた。ウィリアムが生きていたのかと思ったよ。でも違った。あいつであれば、すぐに俺と連絡を取るはずだからな」
「どうして、その時に告発しなかったんですか」
「取り立てて実害があるわけでもないし、何か事情があるのだろうと思ってな。もしお前が偽称罪に問われるなら、黙認した俺も同罪だ」
アズールはビリーを安心させるように微笑み、肩に手を置いた。
(兄上とアズール様が、親友)
ビリーは改めて事実を反芻する。
よりによってアズールと兄が知り合いだとは考えもしなかった。交友関係がせまい兄だからこそ、成り代わったところでさして問題ないと思っていた。
「あの時、お前に助けられたのはまぎれもない偶然だ。だが俺は、どうしても、どんな形でもいいから、接点を持ちたかった」
ビリーの心の中に引っかかっていた、もっとも大きなものに、ひびが入る音がした。
――ずっと前から想う人がいる。むこうは俺のことなど覚えてはいないがな。
商業区の市場で、商家の息子の「アル」に扮装していたアズールが言っていた台詞。
「ずっと好きだった。ウィリアムに成りすまして学校に来ていたのを見かけた時から、ずっと。もちろん、お前は俺のことなど覚えてはいないだろうが」
アズールは気弱に笑い、頬を赤らめた。




