5-2 ライムと悪戯と
「私に言ってどうするんですか」
ビリーは顔を逸らし、目蓋を伏せる。まともに取り合うとすべての食材が細切れになりかねない。
「心は浮き立たないのか?」
アズールは不満げにビリーの顔を覗き込む。
「……教えません」
「足りないのか。ならば態度で」
「充分です! 浮き立ちました! とても嬉しいです!」
不穏な空気を察したビリーは、アズールの手を握って上下に揺すった。
「なに遠慮するな」
意地悪く微笑むアズールの口元から鋭い犬歯がちらりと覗く。
「遠慮とかじゃなくて…! ほらっ、ご婦人方が見ていますよ!」
「むしろ好都合だ。定期的に恋人であることを見せつけておかなくてはな」
アズールはビリーの前髪をかきあげ、あらわになった額に唇を押し当てた。
吐息と唇の感触に、ビリーは直接脳が揺さぶられたような錯覚に陥る。顔の温度管理機能が変調をきたす。
色々ダメかも、とビリーが諦めかけた瞬間、歓声とも悲鳴ともつかない女性たちの声がビリーの鼓膜を貫いた。すんでのところでビリーの理性が持ち直す。
「……アズール様!」
ビリーはアズールの服を引っ張り抗議を示す。人目があるため、不自然に離れることはできない。
「もしされるのが嫌なら、お前からしてくれてもいいぞ」
アズールは抗議を聞き入れるどころか、高を括って挑発する。
「……ええ、はい。では、しっかりと務めを果たしますよ」
ビリーは目を据え、アズールをにらみつけた。アズールの首のうしろに手をひっかけ、自分の方に引き寄せる。
売られた喧嘩は即座に買うのが本来の自分の性だ。アズール自身「俺の前では気を張る必要はない」と言っていたことだし、たまには仕返しをしてもいいだろう。
「いや、おい、待て、ほんとに?」
途端にアズールは気弱になり、視線を泳がせ、まばたきを繰り返す。尻尾もそわそわとしている。
「目を、閉じてください」
被毛をそよがせるように、ビリーはアズールの耳に唇を寄せて囁いた。
アズールは耳の付け根をぴくりと動かし、おずおずと目蓋を伏せる。
(ちょっと隈がある。暇だとか言うわりに寝不足なのかな)
ビリーはアズールの首に添えていた手を滑らせ、頬から目の下までを撫でた。
至近距離で見ると、アズールの目の下の皮膚が他よりも一段暗くなっているのがわかる。
「んっ……おいっ、いつまでこうしていればいい!」
しびれを切らしたアズールが眉間にしわを寄せた。
「まだ何秒も経ってないじゃないですか。せっかちですね、アズール様」
ビリーはアズールの顔にもう片方の手も添え、
「っ……ぅう!? ぅゔぇえええええっ!!」
くし切りにしたライムをアズールの口に思いきりねじんだ。吐き出させないように顔とライムをがっちりと押さえつける。酸味のある青く爽やかな香気が二人の間で弾けた。
「すっ……ぱっ……! 殺す気か!」
どうにかビリーの手をはがし、ライムを吐き出したアズールは急いで口をすすいだ。それだけでは口の中の酸味が消えないのか、手あたり次第、甘い果物にかじりつく。
「まさか。果物お好きでしょう?」
ビリーは答え合わせのように風術で果物をカットし、手元まで引き寄せる。
術の細かな制御は得意だった。兄は逆で、見た目も威力も派手なことをするのが得意だ。木材くらいなら風で簡単に切断でき、物や人もたやすく吹き飛ばせる。
兄であれば、怪我を負うことなく落下するアズールを救えただろう。
「ああ、心遣いに涙が出る。お前にも手ずから下賜してやろう」
瞳に剣呑さを宿したアズールの右手には、ライムが握られている。
「や、ひらにご容赦願いま……んぅっ!」
人間と比べて獣人は体格が良く、力も強い。
なすすべもなくビリーは捕まった。
アズールは目を細め、ビリーの顎を掴んで固定する。
ライムの酸味を想像してビリーは目をつむったが、口の中に広がったのは上品な甘さのある果汁だった。果肉に歯を立てるだけで大量の水分があふれる。
「美味しい……なんです、これ」
「ランブータン。市場で一緒に見たろう。美味いが汁気が多くてな、手や口元が汚れる」
アズールは指の腹でビリーの口の端を拭い、指についた果汁を舐めとった。
一連の動作がひどく艶めかしく見え、ビリーは勢いよくうつむいた。
(なんで躊躇いもなくこういうことができるのかなこの人は!)
仕返しをしようとした結果、倍以上にして返された。前も似たような目に遭った気がする。もうやり返すのはやめよう、とビリーは心に誓う。
「相変わらずいーちゃいーちゃしてますねー」
軽やかな羽ばたきの音と共に、窓からルヌルムが入ってきた。アズールの頭にしがみつき、肩の上に座る。
「なんだ邪魔しに来たのか」
「残念ながら、いつもの緊急のお呼び出しですー」
ルヌルムはアズールに犬神の仮面を被せた。
「また奇跡の実演か。見世物ではないのだがな」
アズールは嘆息し、手早く仮面を付ける。
「お供します」
「よい。聖堂に行くだけだ」
食材や器具を片付けようとしたビリーを、アズールは手で制する。
仮面越しの声は、別人のもののような響きだった。
「一緒に作れないのは残念だが、お前の料理、楽しみにしている」
アズールは仮面をずらし、ビリーにむかって片目をつむってみせる。
ビリーはぼんやりと、厨房から出て行くアズールの背を見送った。
「本当に恋人同士に見えますねー」
ルヌルムは果物を手に取り、小さな口でもしゃもしゃとかじりつく。
「まさか。あくまで私は偽装。アズール様には想う方がいるそうですよ」
ビリーはミンチにしてしまった鶏肉をボウルに入れ、調味料をまぶした。
ギャラリーはアズールを追いかけていったため、厨房に残っているのはビリーとルヌルムだけだ。
「ええー、若がそんなことをー? 誰とか言ってましたー?」
ルヌルムは翼腕を慌ただしく動かし、ビリーの目の前で滞空する。
「名前も年齢も、性別も種族も知りません。ただ、ずっと前から想っているそうです」
ビリーは香味野菜を風で細かくみじん切りにし、鶏肉に加えた。
話し相手がルヌルムであるおかげか、調理でほどよく気が紛れているせいか、感情的にならずにすんだ。
「うわぁ、若ってばほんとダメダメだなー」
ルヌルムはゆったりと着地し、残っていた果実を頬張った。まあるくほっぺたが膨れる。
「ビリーさんは、若のこと好きですか?」
口の中の物を飲み込み、ルヌルムは尋ねた。いつもの間延びした口調とは違い、大人びたトーンだった。
「……お慕いしています」
ビリーは慎重に言葉を選んで答えた。
「むー。じゃあ、若に好きな人がいたら嫌ですか?」
「ルルちゃんはどうしてそんなことを聞くの?」
「あー、質問に質問で返したらいけないんですよー! 先に答えてくださーい!」
ルヌルムはビリーの周囲をぐるぐると飛び回った。
(ちょうどそういうことに興味がある年頃なのかな)
ビリーは調理の手を止め、肩をすくめる。
「嫌というか、もやもやします。想う人がいるのに、どうして私に構うんだろうって。もちろん偽装のためっていうのはわかるんだけど、それにしたって……アズール様が何を考えているのか、わからないです」
軽く答えるつもりが、恨み言のようになってしまい、ビリーは手の甲で口元を押さえた。子供に聞かせる話ではない。
(私は騎士で、人間で。アズール様は皇帝で、獣人。兄上でない私がアズール様の温情で近衛騎士でいさせてもらっているのに、これ以上何かを望むのは、おこがましい。私は、騎士以上のものにはなり得ないのだから)
ビリーは目を伏せ、三秒かけて息を吐いた。
「変なことを言ってごめんなさい、ルルちゃん。私はただ、近衛騎士としてアズール様の役に立ちたいと思っているだけです」
目蓋を開き、笑顔を貼り付ける。
ルヌルムは何か言いたげな膨れっ面をしたが、それ以上追及してはこなかった。
 




