3-5 想い人
(本当に変な人)
ビリーは気付かれないようにこっそりと息を吐く。アズールと行動を共にするようになってから、著しくため息の数が増えた。
(いつまで近衛騎士兼偽装恋人でいられるんだろう)
ため息に引き寄せられたように、漠然とした不安が浮かぶ。
具体的な期間の定めは聞いていない。犯人を捕まえるまでか、アズールが結婚するまでか。
アズールは癒しの手という稀有な異能の持ち主だ。できれば能力を受け継がせたい。もし遺伝が叶わなくとも血脈であるというだけで箔はつく――そんな周囲の考えから、アズールの意志に関係なく婚姻の話は進むだろう。
もっと単純に、女嫌いを公言しているアズールの考えが変わることだって充分ある。
遅かれ早かれ、偽装恋人《自分》が邪魔になる日は必ず訪れる。
「――いまさらだが、ビリー・グレイ、お前に想い人はいないのか」
ぽつりと、仮面を被ったような無表情でアズールは尋ねた。
感傷に囚われていたせいで、ビリーはアズールの唐突な質問への対応が遅れた。ナーディヤにも似たようなことを言われたな、と思いながらアズールの顔を見つめる。
「男と恋仲では婚期を逃すだろう。お前の未来を考慮に入れていなかった、と思ってな」
アズールは自分の耳のあたりに手を伸ばし、途中でやめた。ターバンで耳を隠していることを思い出したのだろう。アズールには耳に触れる癖があるようだった。
「……誰かを想う資格など、私にはありません」
考えていたのとは別の言葉が、ビリーの口からついて出ていた。
「資格、とは?」
アズールは眉をひそめる。
(ウィリアム・ビリー・グレイとして偽りの生を歩んでいる以上、誰かをそれに巻き込むことはできない。本当は存在しない者から好かれても、そんな人を好いても、最終的に行きつくのは不幸だ)
ビリーは目蓋を閉じ、心の中で五つ数えた。うまく兄を演じられるよう暗示をかける。
「それくらい不誠実な奴だってことですよ」
ビリーはにやっと意地悪く笑ってみせた。頭の後ろで両手を組み、軽やかな足取りでアズールの前を歩く。
「私なんかのことより、アズ――アルの方こそどうなんですか。想い人」
「いる」
即答だった。
ビリーは息が詰まるのを感じる。歩調を乱さないよう慎重に足を動かす。
「ずっと前から想う人がいる。むこうは俺のことなど覚えてはいないがな」
アズールが喋る一音一音が、ビリーの心身に負担をかける。
足が重い。心が落ち着かない。今までアズールに対して感じていた落ち着かなさとは違い、強い不快感がある。
「どちらかといえば、アルは目立つ容姿をしているかと思いますが」
気分の悪さを空気と一緒に飲み下し、ビリーは話を繋げた。
「あの頃とは変わった。といっても、ただ図体がでかくなっただけだが」
「身長が伸びた、ってことですか」
「ああ。昔はお前よりも小さく貧弱だった」
いつの間にか追いつき、隣を歩いていたアズールは身体を屈めた。ビリーと目線を合わせる。
ビリーは何故か既視感を覚えた。
同じ目線。藍色の髪。湖水色の瞳。淡褐色の肌――記憶の底で何かが引っかかる。
(以前に城下で変装したアズール様のことでも見たのかな)
考えても引っかかり以上のものは出てこなかったため、ビリーは意識的に忘れることにした。
「どうかしたか?」
「いいえ。昔がどうであれ、今のアズール様になびかないご令嬢などいませんから大丈夫ですよ」
ビリーは顔を背け、肩をすぼめた。
「相手とはほとんど話したこともないのだぞ」
「だって、それでもアズール様は恋に落ちたのでしょう。話したことのない相手に。もしかしたら、その方も同じ感情をいだいているかもしれません」
「そうなのか?」
アズールはわざわざビリーの正面に回り込んできた。
「さあ、私に聞かれても。その方に直接聞いてみたらどうですか?」
ビリーは顔をしかめる。あまり長く続けたい話ではなかった。不快感がこぼれてしまいそうになる。
「聞いても答えなど返ってはこないさ」
アズールはどこか悲しげに口元を歪ませた。
(アズール様の心の中にいるのは誰だろう。偽装と言わず、最初からその方に頼めば良かったのに――いや、素手で噴水壊すプリム様がいるから危ないか。少なくとも獣人ではなさそう。もしかして令嬢ではなく令息? あるいは口に出すのもはばかられるような相手? なんにしても複雑……ふくざつ?)
思考が壁のようなものにぶち当たり、そこから一切進まなくなった。何故どうして複雑なのか、断片すら頭に浮かばない。
「浮かない様子だが、体調でも悪いのか」
アズールはグローブをはずし、ビリーの額に手を当てた。
ビリーは足を止め、緩慢にアズールを見上げる。普段なら距離感がどうとか騒いだりするところだが、そんな気力もなかった。
働かない頭であれこれこね回していると、視界の端で不自然な動きをするものを捉えた。何人かの男が目視されるのを嫌うように物陰に隠れる。ビリーが急に立ち止まったせいで慌てたのだろう。
ビリーは背伸びをし、アズールに耳打ちをした。
「つけられています。『やましき心の持ち主の活動時間は夜と相場が決まっている』って本当ですね、アズール様」
空は夕方の終わる色になっていた。夜の藍色がじわりじわりと下りてきている。




