3-3 火事の傷跡
居間にある掃き出し窓の近くで椅子に座り、微睡んでいるのが母・サラの常だった。調子がいい時は刺繍をしたり本を読んでいる時もある。
今日は微睡みもせず趣味に興じもせず、窓の外に見える中庭を眺めていた。
中庭にはこぢんまりとした花壇があり、ナーディヤが世話をしている。今は青々とした葉が茂っているだけでなんの花も咲いていない。
フィオナがいた時は様々な草花が植えられていた。昔から妹は植物が好きで、造詣も深かった。
「母上」
深呼吸をし、唾を飲み込んでからビリーは母の前にひざまずいた。右手で母の手を取り、包むように左手を重ねる。
血が通っているとは思えないほど冷たく、白く透き通った手だった。
あの時から年々——いや、日に日に母の身体が希薄になっている。何か病を患っているわけではなく、心の衰弱に身体も引きずられているようだった。
「あら。お帰りなさい、ビリー。なんだか久しぶりね」
母の手が緩慢にビリーの銀の髪を撫でた。
父と兄とビリーは「グレイ」の家名通りの銀髪。母と妹のフィオナは黄みがかった薄茶色の髪をしている。
風を操る力は銀の髪と共に受け継がれるため、他家から嫁いできた母はもちろん、髪色が違うフィオナも使えない。
「隣にいらっしゃるのはお友達かしら」
母はアズールに視線を向けた。
「この子の母のサラと申します。歩けないわけではないのだけれど少しつらくて。こんな格好でごめんなさいね」
母は気恥ずかしそうに眉を寄せ、椅子に座ったまま手を差し伸べる。
「いえ、こちらこそ突然伺って申し訳ありません。アルと申します。どうぞ以後お見知りおきを」
アズールは柔らかな声色で丁寧に挨拶をした。差し出された手をそっと握る。
いつもと違うアズールの紳士的な態度がビリーの目には新鮮に映った。
「今日は少しばかり暇をいただきました。母上、お変わりはありませんか」
「わたくしなら大丈夫よ。あちらの、ええと……ああ、ごめんなさい。ナーディヤ、ナーディヤさんよね。彼女がいてくださるから」
火事によってあらゆるものを奪われてから、母の世界は少し歪になっていた。
四年前のあの日、母はナーディヤと一緒に帝都へ観劇がてらの小旅行に行っていたため被害を免れた。そのことが余計に、ショックを強めたのかもしれない。
不慮の火事で夫と共に死んだのは、長男のウィリアムではなく長女のウィルマだと思い込んでいる。親友のように仲が良かったナーディヤを忘れ、末の娘であるフィオナのことも忘れた。
自分のことも忘れてくれていれば、とビリーが思ったことは一度や二度ではない。しかし、実の母親から見知らぬ者のような扱いを受けるフィオナを見るたびに、おごった考えだと自分を諫めた。
憲兵の調べによると、屋敷が燃えたのは何者かによる放火が原因だったのだという。それが貯蔵庫の油に引火し、勢いを増した炎が屋敷を包み込んだ。
犯人はいまだに捕まっていない。
当時は、これから先どう生きていくかだけで必死だった。今となっては、さして興味もない。犯人を恨む気持ちはもちろんある。だが、父も兄も、兄として周囲を騙した年月も、もう戻ってこない。
「だから今日は早い時間のお帰りだったんですね」
ナーディヤがキッチンからお茶と焼き菓子を運んできた。バターの焼けた香ばしい匂いと薔薇とシロップが混ざったような華やかで甘い香りがする。
「でももう少し早く戻ってくださればフィオナお嬢様ともご一緒できたのに。このお菓子とお花を持ってきてくださったんですよ」
「フィオナが来てたの?」
「はい。お引きとめしたんですが、薬師の先生の所に用事があったからそのついでに来ただけだと仰って」
「そう、か」
フィオナがジーン・フリンの元に嫁いでからめっきり疎遠になってしまっていた。たびたび母を訪ってくれているようだが、どうもタイミングが合わない。
「フィオナが持ってきたのって、あの白い花?」
ビリーは母のいる掃き出し窓の近くにある花台を指さす。
そこには見慣れない白い花が活けられていた。
一本の茎の先端に小さな花がいくつもまとまって咲き、こんもりとした半球状になっている。最盛期を過ぎたのか、花つきがやや悪く、散っている部分もあった。
「奥様のお部屋に飾るには少し多くて、こっちにも活けてみました。バーバリアン?とかっていう鎮静効果がある花だそうですよ。不安や不眠にも効果があるんだとか。活ける時にうっかり匂いを吸い込んだら眠くて眠くて」
ナーディヤは豪快に口を開けてあくびをしてみせる。本気なのか冗談なのかわからない。
フィオナは母のために、帝都でも高名な薬師に師事していた。母と共に現実から目を背けることを選んだ自分よりもよほどしっかりしている。
「蛮族なんて花聞いたことないよ」
ビリーは白い花に近寄り、手であおいで匂いをかいでみた。バニラに似た濃厚な甘い香りがする。効能を聞いたせいか、落ち着くような気がしないでもない。
アズールも隣にやってきて花に顔を近付ける。重そうなまばたきをし、険しい表情をした。
「どうかしましたか?」
「ん、なんだか本当に眠くなってきたなと思ってな」
アズールはややふらつきながら、ビリーの肩に顎を乗せる。
「なっ……に、やってんですか!」
ビリーは大声を上げたところで、母とナーディヤがいることを思い出す。
「奥様、あとは若いお二人だけに……」
ナーディヤはビリーにも聞こえるような声量で囁き、母を抱きかかえて居間から出ていった。
「待ってナーディヤ! そういうんじゃないから!」
追いかけて弁解しようにもアズールが邪魔で身動きが取れない。
だいぶアズールには慣れたつもりだったが、頭を押しのける勇気と顔を赤らめずにいられる平常心はまだなかった。
「敵を欺くにはまず味方から、というだろう。誰から見ても立派な恋人でなければ偽装の意味がない」
意図してなのか偶然なのか、アズールの呼気がビリーの首をかすめた。
「っ……! あんた今は商家の放蕩息子の『アル』でしょう!」
思わずビリーの口調が乱れる。かっとすると素が出る癖はなかなか治らない。
「……すみません、失礼なことを言って」
ビリーは頭を抱え、深くため息をついた。
「過度に俺に気を遣うことはない。それに、今はただの『アル』だからな」
アズールは楽しそうに笑い、髪をかき乱すようにビリーの頭を撫でた。
(人の気も知らないで)
ビリーは顔を動かし、アズールの方を盗み見た。
横顔も憎らしいくらいに美しい。高く通った鼻筋が綺麗な稜線を描いている。横から見ると睫毛の長さがより際立つ。
ビリーは目が離せなくなる前に、お茶と焼き菓子の方へと努めて意識を向けた。




