3-1 久しぶりの我が家
「あら、お帰りなさいませウィルマお嬢様。まだお勤めの時間だと思うのですが……まさか、またサボっているわけではありませんよね?」
昼下がりに帰宅した屋敷の主人——ビリーを見咎め、使用人のナーディヤが疑念の眼差しを向けてきた。
帝都にある屋敷に戻ったのは久しぶりだ。帝城に住み込む旨は手紙で伝えていたが、折を見てちゃんと挨拶をしておきたかった。
「ナーディヤ! ウィルマでもお嬢様でもないって言ってるでしょう。どこで誰が聞いてるか……」
ビリーは立てた人差し指を唇に当て、注意深く周囲を窺う。
帝都にある住居の多くが高温多湿の気候に対応するため、通気性が高い造りになっている。その分防音性が低く、声が外まで漏れることがあった。
「このお屋敷に来るのはフィオナお嬢様くらいですよ。クベリア辺境伯が敷地を広く取ってくれましたし、多少声が外に聞こえたところで大丈夫ですって」
ビリーの母と同年代であるナーディヤは、貫禄のある身体と細長い尻尾を震わせて大らかに笑い飛ばす。
ナーディヤは、クベリア辺境州に住んでいた時からずっと仕えてくれている使用人で、ビリーにとって唯一親交がある獣人族だ。
「それにね、あたしはこんな生活続けるべきじゃないってずっと思ってます。サラ奥様だって望んでいるはずがありません」
「いいよその話は。母上はあの時からずっと、私のことをウィリアムだと思ってる。火事で父上と一緒に天に連れていかれてしまったのはウィリアムではなく、双子の妹のウィルマなのだと。跡取り息子が生きているということだけがあの人の心の支えなんだ」
肩と腕に残る火傷の跡がぴりぴりと痛んだ。
この話をするたびに、母に「ウィリアム」と呼ばれた時のことを思い出す。四年が経ち、記憶が曖昧になっていく中、屋敷を蹂躙する炎の色と青ざめた母の顔だけは色褪せない。
ウィリアム・ビリー・グレイ。
ウィルマ・ビリー・グレイ。
そう名付けたのは父だったと聞いている。双子だからミドルネームを揃えたのか、二人分を一度に考えるのが面倒で横着したのかはもうわからない。
「気が変わったらいつでも言ってくださいね。このナーディヤが命を賭けてお二人を安全な所までお連れしますから」
ナーディヤはぐっと握りこぶしを作り、気炎を吐いた。
若い頃は傭兵業を営み、各地を転戦していたらしい。棒術の使い手で、ビリーは手合わせで一度も勝てたことがない。ナーディヤが稽古をつけてくれたからこそ、ただの令嬢だった自分が数年で騎士になることができた。
「ありがと、ナーディヤ。今は気持ちだけ受け取っておくね」
ビリーはナーディヤを軽く抱きしめ、頬を寄せた。彼女の闊達さには何度も救われている。
「そういえば聞きたいことがあるんだけど、人前で獣人族の尻尾や耳に触ったらいけないの?」
アズールは性行為同然と言っていたが、どれくらいまずい行為なのか正確に知っておきたい。もしかするとアズールが話を盛っている可能性もある。現場を目撃した大臣が脱兎のごとく部屋を出ていったため、人前でするのはよろしくないこと、というのはわかるが。
「ウィ……ビリー様! いったい! いつ! どこで! どこのご令嬢に対してそんな破廉恥極まりないことをしでかしたんですか!? それともまさか……殿方相手にですか!? あああああっ、あたしが付いていながらなんてことでしょう! 奥様にも天国の旦那様にも顔向けができません!」
瞬間的にナーディヤの尻尾がぶわっと逆立ち、倍以上の太さに膨らんだ。半狂乱で髪を掻きむしり、聞き取れないほどの早口で何かぶつぶつ言っている。
(皇帝陛下です、なんて正直に言ったら憤死しそう)
ナーディヤの反応から、あれがいかにダメな行為だったか充分すぎるほど理解できた。
「違う違う、そういう風習とかがあるって聞いただけ。近衛騎士になって前よりも獣人族と関わる機会が増えるだろうから、気を付けておかなきゃいけないことがあるなら知りたいなーって思って。ほら、クベリアには獣人族が多くなかったし」
ビリーは慌ててそれっぽく取りつくろった。
近衛騎士に任ぜられたことは伝えてあるが、偽装恋人や調査の件は伏せている。これ以上ナーディヤに心労をかけるわけにはいかない。
「本当ですかー? いえ、いいんですよ。恋人の一人や二人できてもおかしくないお年頃ですから。でも人前でそういうことをなさるのはちょっと……。あたしが古い人間だって自覚はありますよ。けど、ねぇ……」
「わかったわかった! もう大丈夫! 理解した! やってないしこの先もやらないから本当に大丈夫!」
ビリーはしっかりとナーディヤの目を見て宣言する。こう言わなければ収拾がつかない。
「あと、もう一つ聞きたいことがあるの。ナーディヤは『ドロップイヤー』っていうのは知っている?」
尋ねた途端、すっとナーディヤの目が鋭くなった。吊り上げたように目がきつくなり、瞳孔が大きく開いて瞳が黒くなる。
「昔からある下らない外見差別の一つですね。アズール・アーリム・アッルーシュ・アルカダル陛下が帝位に就いたおかげで、表立った迫害はなくなりましたが。上四州あたりでは今も差別があるみたいです」
「……アズール・アリ……アル……ル?」
「ビリー様、皇帝陛下直属の近衛騎士になられたんですよね? ちゃんと御名くらい覚えてください!」
ナーディヤは両手を腰に当てて肩を怒らせた。恵体のナーディヤが凄むと迫力がある。
「はーい、尽力しまーす……」
ビリーは眉尻を下げ、力なく返事をした。
「クベリアにも何人かいましたね。ウィリアム様のご学友にも、確か一人か二人いた気が。ま。辺境州にいる獣人自体、あたしも含めて訳アリがほとんどですけどね」
ナーディヤは頭頂部にある自分の耳を撫でた。片耳だけ、三角形の先が欠けている。戦いの中で欠損した、とだけビリーは聞かされている。
兄はクベリア辺境州にある学校に通っていた。身分や種族を問わず入学できるという特殊な所だった。
家庭教師を呼んで学習するよりも、学校で様々な者と触れ合うほうが学びが多い――というのが父の方針だった。
最初は学者を志望していた兄が、騎士を目指すようになったのも学校に通うようになってからだ。
(垂れ耳の学友なんていたかな?)
体調を崩しやすかった兄に代わり、ビリーは「ウィリアム」として何度か学校に行ったことがある。ボロを出さないようにするのに必死で、学校にどんな人がいたかは記憶に薄い。
「――つまるところ、ウィルマお嬢様の意中の方は垂れ耳の殿方なのですか?」
ナーディヤは訳知り顔でビリーの肩を叩く。
ビリーが言われたことの意味を理解したのは数秒経ってからだった。




