2-8 ドロップイヤー
「癒しの手は、使うと何か代償があるのですか」
廟堂を出たところで、ビリーは尋ねた。
先ほどのアズールとプリムの会話の中で、二つ気になるところがあった。まずは冷静に答えてくれそうな方の話を振る。
立ち止まり、振り返ったアズールの顔はうろたえていた。見ている方が心配になるくらい視線をさまよわせる。
(こっちの話題の方がまずかった?)
自分の読みが間違っていたのかとビリーはぎくりとした。
「や……あ、その、すまない。みっともないところを見せた」
アズールは自分の耳をしきりに撫でさする。
「あいつと相対すると、どうもこう……性格が悪くなる」
歯切れ悪く弁解すると、アズールは大きく肩を落とした。濡れて細くなった尻尾が、怯えたようにぐるりと足に巻き付いてしまっている。
「ええと、癒しの手の話だったか。別にたいしたことはない。使いすぎると少々疲れるというだけだ」
(大丈夫そう、かな)
ビリーはアズールを注意深く見つめる。気に障った風も、嘘をついているような感じもなかった。
いつものアズールに戻ったようで、ビリーはほっと息を吐き出す。
(いつもも何も、まだ出会って日が浅いからアズール様についてほとんど知らないんだけど)
獣人で皇帝。癒しの手を持っている。現実味がないくらい端正な顔をしているのに意外と無邪気なところがあったりして、喜怒哀楽が表に出やすい――ビリーは頭の中でアズールに関する情報を並べ立ててみた。
やはり、プリムを冷たく拒絶したアズールとは結び付かない。
(アズール様が皇帝になる前から確執がありそうだな)
ただの男女のもつれでないことは、聞いてしまった内容からだけでも推測できる。
しかし、部外者である自分がくちばしを容れていいことなのか?
何秒か迷った後、ビリーは意を決して尋ねてみることにした。
「もう一つ、お聞きしてもいいでしょうか?」
「……『ドロップイヤー』、だろう」
アズールは先んじて言い、目蓋を伏せた。淡褐色の頬に濃い影が落ちる。
「今はもう廃れた、苔むしたいわれだ。獣人にとって長く垂れた耳――『ドロップイヤー』は見栄えが悪く、劣った者の象徴だったらしい。だが上四州では潜在的に差別感情が残っていてな。子供というのは深く考えもせず大人の真似をしたがる」
アズールは自分の耳を強く握った。
「今思えば、あいつを筆頭に皆がしたことは些細ないじめのようなものだったろう。だが幼かった俺はそれに耐えきれず、地方へと逃げた」
耳に触れたまま、アズールは庭園のある廟堂の上層部を振り仰ぐ。プリムが廟堂から出てくる気配はない。
「その後、俺が帝位を押しつけられた途端、手のひらを返した。あいつだけではない。他の女も、男も、獣人は皆そうだ。過去のことなどなかったかのように、うすら寒い笑みを浮かべて近付いてくる。虐げた者に恥ずかしげもなく擦り寄れるとは面の皮が厚いことだ」
アズールはつらそうに眉をひそめ、自嘲した。
男女関係のもつれというよりも、幼少期に端を発した根の深い問題のようだ。子供の頃の出来事とはいえ尊厳を傷つけられたのだろう。子供同士だからと軽んじていいことではない。
(信用できるものがいないとか友達がいないっていうのも、そういうところからきているんだろうな)
命を救ったとはいえ、偶然居合わせただけの人間に対し、妙に好意的だった理由が垣間見えた。末端の騎士――これといって政治的にも思想的にも思惑のない相手と接することができたのが嬉しかったのだろう。
「ドロップイヤー、ですか」
ビリーは首を傾け、アズールの耳をじっと見た。
獣人固有のの美的感覚はビリーにはよくわからない。
人間からすると「動物の耳そっくりなものが付いているのはなんか不思議」とか「音の聞こえ方が違うのかな」などと思う程度だ。そこに優劣は見出せない。
「私は好きですよ。アズール様の耳」
追従でも忖度でもなく、思ったことが自然と言葉になった。
ドロップイヤーだかなんだか知らないが、長く大きな耳は可愛らしいし――男性に対しての誉め言葉にはならないかもしれないが――見ていると触れたくなる。
ビリーは何かに誘われるようにアズールの顔に手を伸ばした。濡れて頬に貼りついた髪を払う。指で梳かすように耳の表面を撫でる。湿って重くなった毛の中に指先が沈む。
「んっ……! さ、触るなっ、許可なしに! 構えていないと、その……おかしな気分に、なる……」
アズールはひったくるように自分の両耳を掴んで押さえた。落ち着きのない視線や顔色から、動揺しているのが見てとれる。
「わ、あっ……すみません! いや、あの、言ったことにも触ったことにも深い意味はなくてですね……!」
ビリーもつられて焦ってしまう。
アズールに対して距離が近いだの遠慮がないだのと言っているが、自分もたいがいだ。
「いい。許す。……お前に好かれるのは、嬉しい」
アズールは子供っぽく唇を尖らせた後、はにかんだ。尻尾がゆったり大きく揺れて半円を描いている。プリムと相対していた時の冷たさは微塵も感じられない。
(ちょっと可愛い)
どのアズールが本当なのかはわからないが、笑っている姿が一番良いと思った。見ていると胸の奥が心地良い温かさで満ちる。
(……いや、なに血迷ったこと考えてるんだろ。おかしい。なんかずっとふわふわしてる。ちゃんと『ウィリアム』でいなければいけないのに)
ビリーは自分を戒めるように頬をぴしゃりと打つ。ただ痛いだけだった。
「どうした。そんなに強く叩いては赤くなってしまうぞ」
アズールは不思議そうにビリーの顔を覗き込み、頬に手を当てた。じんじんとした痛みが引いていく。
「っ……大丈夫です! これくらいのことで力を使わないでください! 眠気覚ましに気合を入れただけですから!」
「そうか」
素直に納得するアズールが、ビリーにはいっそ憎らしい。
「もうっ、早く戻りましょう。本当に風邪をひいてしまいます」
ビリーはアズールの背中を押して走らせた。こっそりと唇を噛みしめる。
いち騎士団員だった頃のほうがよほど楽だった。何事に対しても心が動かず、動かす必要もなかった。そんな日々とどちらが良いのかは、まだわからない。
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