2-7 ウサギ来りて不和を呼ぶ
「……あっ、どきます! すみません! 今すぐに!」
目を奪われたのをごまかすように、ビリーは頬についた水滴を乱暴にぬぐい、立ち上がろうとした。しかし、アズールによって阻まれる。
片目をつむって、怒られるのをびくびくと待っていると、不機嫌な表情のアズールは何も言わずに顔を傾けた。
二回目までは仕草の意味がわからなかったが、三度目でようやく顎をしゃくって指し示しているのだと気付く。庭園の扉がある方向だ。
首をまわして見てみると、その瞬間、吹き飛ぶのではないかという勢いで扉が開け放たれた。
どん! どん! と聞き覚えのある足音を立て、一人の女性がスカートの裾を翻しながら、ビリーたちの方へと近寄ってくる。
年齢は、ビリーよりもいくつか下に見えた。くりっとした丸い目元と、きゅっと口角の上がった小さな口が可愛らしい美少女だ。編み下ろしたツインテールと、帝都特有の華やかで涼しげなドレスがよく似合っている。
何より目を引くのが、頭頂部から直立して生える長いウサギ耳だ。はた目にもわかるほどぴくぴくと痙攣している。
ビリーと視線がかち合うと、ウサギ耳の美少女は目を大きく見開いた。灯がともったようにぽっと頬が赤く染まる。
(彼女がディーシ伯令嬢プリム・ガルシアでしょうか。可愛らしいお嬢さんにしか見えませんが)
ビリーはアズールにだけ聞こえる声で尋ねた。
(ガルシア氏族は物理的な剛腕だけで成り上がった生粋の武門の一族だ。婦女子であろうと拳で岩を砕き、人の首をねじり切るくらいの芸当はやってのけるぞ)
アズールも声量を抑えて答える。
プリムは何を言うわけでもなく、赤い顔のまま立ち尽くしていた。
(彼女、何か具合でも悪いんでしょうか)
(ビリー・グレイ、お前に見惚れているだけだろう)
「……はぁ?」
不可解な言葉に、ビリーは声を上げてしまった。
(流石だな、『銀の君』)
アズールは人の悪い笑みを浮かべ、撫でるようにビリーの濡れた前髪をかきあげた。
初対面の相手に見惚れるなどということが現実に起こり得るのか。
ビリーはただちに反論しようとしたが、自分がアズールの顔を初めて見た時のことを思い出す。深く考えるとまた顔が赤くなってしまいそうなので、意識的に思考を遮断した。
(アズール様、とりあえず噴水から出ましょう。帝都は暑いとはいえ、風邪でもひいたら事です)
プリムを刺激しないよう、ビリーはゆっくりと立ち上がった。助け起こしたアズールを背にかばうように、プリムと向き合う。
「見苦しい邂逅となり大変失礼いたしました。私はウィリアム・ビリー・グレイと申します。皇帝陛下の近衛騎士を務めさせていただいております。お会いできて光栄です、プリム・ガルシア様」
ビリーは物腰柔らかく声をかけた。兄が女性に対して向けていた微笑を真似る。
「なっ……! ちょっと顔が良いからってなれなれしくしないでくれる! 男のくせに妙な色香で陛下をたぶらかすだけでなく、この私にまでそんな目を向けるなんて非獣人族は本当に恥を知らないのね!」
プリムははっと我に返り、顔だけでなく首元まで真っ赤にし、興奮したように声をあげた。
(そこまで変なことをしたつもりはないんだけど。でもよくよく考えれば兄上はモテていたな)
ビリーはそっと自分の顔に触れた。
「恥を知らないのはどっちだ。恋人同士が睦み合っている所にけたたましく乗り込んでくるとは、ガルシア家ではずいぶん無作法な挨拶を子女に教えるものだな」
アズールは噴水の縁に腰かけ、水分を吸って重くなった耳を絞った。プリムの方には一切視線を向けない。
「それは……申し訳ございません。アズール皇帝陛下、無礼を承知で再度お願いに参りました」
プリムは深く頭を下げた。
「どうぞ私をおそばにおいてください。我がガルシアの後ろ盾があれば、癒しの手を酷使する必要もなくなる。決して悪い話ではないでしょう」
「ふん。確かに悪い話ではないが、俺はそんなことなど望んでいない。家の威光を笠に着てまで皇后になりたいのか」
アズールの声にはあからさまな軽蔑があった。
他者に対して向けられた言葉にもかかわらず、ビリーはきゅっと胸のあたりが痛むのを感じる。
「皇后じゃなくてあなたの妻になりたいの!」
プリムは勢い良く顔を上げ、怒鳴るような強さで言った。
「ものは言いようだな。俺が帝位につく前は、ドロップイヤーと同じ空間にいることすら嫌がっていただろう」
(ドロップイヤー?)
ビリーは聞きなじみのない単語を反芻する。今は尋ねていい雰囲気ではないので、心の中にしまっておく。
「それは……お祖父様の教えがあった手前、そう振る舞うしかなくて」
プリムは両手を組んだり擦ったり、せわしなく動かす。
「……ねえ、なんで。なんで私じゃダメなの? あなたに言い寄る他の令嬢よりは少しくらいマシでしょう? いくら結婚したくないからって当てつけにそんな男、しかも非獣人なんか連れてきて!」
ヒステリックに叫びながら、プリムは小さな拳を噴水の縁石に叩きつけた。ものの見事に亀裂が入り、ちょろちょろと水が漏れ出す。
それでもアズールはプリムの方を見ようとはしなかった。
「昔の話だけが問題なのではない。皇后になりたいのであれば、まずは人間に対する態度を改めることだ。カダル帝国は獣人と人間が共存共栄するために手を取り合い、興し、繁栄した国だ。それをゆめゆめ忘れるな」
「そういうあなただって、獣人のこと嫌ってるじゃない!」
アズールの発言に被せるようにプリムは非難をぶつけた。
「……特権階級の獣人だけだ。ドロップイヤーを罵る口で褒めそやされたところで、信じろという方が無理だろう」
アズールは嘆息し、立ち上がる。おろおろと成り行きを見守るビリーの手を握った。
「話は済んだな」
平坦な調子で言い、ここでようやくアズールは初めてプリムに目を向ける。
厳かで皇帝らしい冷えた瞳だったが、ビリーが接していたアズールには似合わないものだった。
アズールは返答を待たず、ビリーの手を引いて庭園を出た。無言で螺旋階段を下っていく。
(衝動的に仕出かしてしまうことはあっても、計画的に相手を害そうとするタイプには見えなかったな。っていうかアズール様のことが好きなだけじゃないのか、あれは)
にべもなく拒絶されたプリムの姿を思い、ビリーは胸の奥が疼いた。




