2-6 現人神のありがたい説法?
「我慢する必要などないだろう」
アズールの声には、ずっと聞いていたくなるような穏やかな響きがあった。
「いえ、すみません。男のくせに情けないですね」
ビリーは目頭を押さえ、小さくため息をつく。
「……俺は現人神と呼ばれている」
唐突に、アズールが要領を得ないことを言いだした。
ビリーがどう返答すべきか首をひねる。
アズールは構わず続けた。
「だから、ここでお前が泣いたとしても人前ではない。神前だ。遠慮することはない。男も女も関係なく、誰でも神の前では素直になるものだ」
屁理屈を吐き、自信たっぷりに口角を吊り上げる。
ビリーは思わず吹き出した。
「泣ける時に泣いておけ。そうでないと泣き方を忘れるぞ。泣きたい時に泣けなくなる」
顎から頬のラインに沿うように、アズールはビリーの顔に手を当てた。
水で冷えた指と肉球が、昂った肌に気持ち良い。
やっぱり綺麗な顔だな、とビリーの心に場違いな感想が浮かんだ。「皇帝」というフィルターがかかっているせいもあるのだろうが、ビリーの目にはきらきらと輝いて見える。
(涙のせいで目がおかしくなったかな)
まばたきをし、目を擦ってみても変化はなかった。
「強情だな。俺にも見られたくないというのなら、隠しておいてやる」
ビリーの行動の意味を読み違えたアズールは、顔に当てていた手を目元に移してビリーの視界を塞いだ。もう片方の手をビリーの肩にまわして抱き寄せる。
「え」
しゃがんでいたビリーは体勢を崩し、なすすべなくアズールの方に倒れ込んだ。ばたついた手がむなしく空を切る。
「わっ、アズール様! なんです、これ!」
思わずビリーの声が上擦った。視界を奪われているせいで、背中にしっかりとアズールの体温を感じる。熱くて落ち着かない。
「だから隠してやると言ったろう。しかし、本当に騎士とは思えないほど華奢だな」
アズールは有無を言わせない力でビリーを抱きしめ直した。
女性としては長身であり、それなりに筋肉量もあるにもかかわらず、ビリーの身体はアズールの腕の中に簡単に納まってしまう。
「過分なご配慮痛み入りますが結構です!」
ビリーは声を張りあげ、どうにかアズールの腕を引きはがそうと試みる。
密着はまずい。
毎朝の使用人とのチェック項目に「抱きしめた時に違和感がないか」を追加したため抜かりはない。それよりも、自覚できるほどうるさく鳴っている鼓動を聞かれたくなかった。
アズールと一緒にいると、何かがずっと変だ。調子が狂う。ウィルマでいた時も、ウィリアムに成り代わってからも、こんなことはなかった。
(もう! この距離の近さなんなの!)
ビリーはさっきとは違う意味で泣きたくなった。
「やけに愛い反応をするな。妙な気を起こしそうだ」
物騒なアズールの呟きが聞こえ、ふわりとビリーの身体が浮いた。覚えのある感触に身体が支えられる。
ビリーがこわごわ目を開くと、数時間前と同じようにアズールに抱きかかえられていた。涙が完全に引っ込む。
「なんですか! なんですか!? なんなんですか!!」
焦るあまり、ビリーの口から女性のような甲高い声が迸る。
アズールは気に留めた風もなくすたすたと歩く。
(やっぱりこの人男色なの? こんな面倒くさいこと引き受けるんじゃなかった……)
これから訪れるであろう自分の未来を悲観し、ビリーは両手で顔を押さえた。
「ここまで来れば、扉を開けてすぐに見えるか。ちなみに抱きかかえていた方がいいか、抱き合っていた方がいいか、どちらだと思う?」
噴水のあたりに到着すると、急にアズールは立ち止まって質問を投げかけた。耳の付け根がぴくぴくと神経質に動いている。
「どっちも大差ありません……」
ビリーは投げやりに答えた。
「まぁ、普通に考えて身動きが取りやすい方が良いよな」
ビリーをおろして自分の足で立たせると、アズールは再度ビリーの身体に腕をまわした。耳元に唇を寄せ、重苦しく囁く。
「あいつが来る」
どん! どん! と振動を伴うけたたましい足音が聞こえたのは、ビリーがアズールの発言の意味を正しく理解した直後のことだった。
「相変わらず乱暴な女だ。こんなに騒がしくては歴代皇帝や英霊も跳ね起きる」
アズールは声を潜め、忌々しそうに歯噛みをする。
「あいつって、誰ですか」
ビリーは仕方なく抱かれたまま尋ねた。
「ディーシ伯令嬢、プリム・ガルシア。階段を踏み壊す勢いのこの足音は間違いない。執務室を覗いていたのもあいつの耳目だろう。うっとうしいことだ」
「容疑者がこちらにお越しになる、ということはわかりました。そろそろ離してもらっていいですか」
ビリーはやんわりとアズールの身体を押しのける。
「適当にいちゃつく振りをしてやり過ごすぞ」
「なんでですか!」
「あれと極力喋りたくないし目も合わせたくない関わりたくないほんと無理」
アズールは早口で却下した。
「よっぽどですね。いったいどう拗れたらそんなに険悪になれるんですか……」
二人の間に何があったかは聞いていない。しかしここまで毛嫌いしているところを見ると、原因がなんなのか気にはなる。
「まったくもって面白くない話だ。それよりも早く振りをしろ、ビリー・グレイ。役目だろう」
アズールは少し屈むようにしてビリーの耳元に唇を寄せた。
耳をかすめる吐息のぬるさにビリーは身体を震わせる。男がこういう反応をするのはおかしい、と頭で思っていても身体が勝手に反応してしまう。
「人間の耳は小さいな」
ビリーの耳に別の体温が触れた。
人間の手に似た、しかし獣の特質を備えたアズールの指が、耳たぶの感触を確かめるようにはさんでくる。
「あっ……! アズール様、それ、んっ……その、困ります!」
弾性に富んだ肉球の触感と、被毛のくすぐったさのせいで、ビリーの口から吐息のような声が漏れてしまう。冷えていた耳に急速に血が巡っていくのがわかる。
「何がだ」
「耳を、そんな……触られると、なんか変な……うぅん……感じ、が……」
アズールの爪の先で耳介をなぞられると、身体の芯のあたりにぞくぞくとした得体の知れない感覚が走る。
理由はわからないがそれがとてつもなく恥ずかしいことのように思え、ビリーはたまらず口元を手で覆い隠した。自分の意志と関係なく呼吸が上がり、顔が熱くなっていく。
「獣人との身体上の差異に対する学術的興味だ。もう少し付き合え」
もっともらしいことを言っているが、アズールの声には笑いが混じっている。
どう考えても単にからかっているだけだ。朝の仕返しだろう。
「っく……今はその好奇心を発揮する必要ないでしょ……!」
「今後何かの役に立つかもしれない」
「困るんですっ、本当に! こっちはアズール様と違ってこういうことに不慣れなんですから……!」
「俺とて慣れているわけではない」
「いやに手際いいですけど」
「日々の学習のおかげだ」
「もっと皇帝として相応しい学習に励んでください!」
恥ずかしさを通り越し、いっそ頭にきたビリーは、意趣返しにアズールの尻尾をつかんだ。
ふわふわとした綿を握ったような感触の後、細くしなやかな芯に触れる。手の中から逃れようと、別の生き物のように激しく動く尻尾に妙にどきっとしてしまい、反射的に離してしまった。
「わっ、馬鹿者! 急に放すな!」
アズールの身体が唐突に傾く。尻尾が左右に撓うように速く大きく振れ、それで身体のバランスを崩したようだった。
倒れる途中で腕を掴まれたビリーも、アズールに引き込まれる形で一緒に噴水へと倒れ込む。
水飛沫が盛大に上がり、視界が一瞬真っ白になった。次の瞬間、通り雨のような大きな水の粒が降り注ぐ。さっき風術を失敗した時の比ではないくらい髪も服もびしょ濡れになった。
ビリーの下敷きになったため、アズールは腰から下が噴水に浸かってしまっている。金の頭飾りや装身具が濡れて光を照り返しており、その姿は無闇に艶やかで神々しい。




