1-1 空から降る花と皇帝
空から皇帝が落ちてきた。
そんな話をしたとして、いったい誰が信じてくれるだろう。
城内を巡視中だった騎士のビリー・グレイは、たった今目撃してしまった非常識な現実に対してリアクションするよりも先に、身体が動いた。
ブーツの踵に手をかざす。
足の裏で透明感のある緑色を帯びた風がぐるぐると高速で渦巻いた。
緑の風が車輪のような働きをしてビリーの身体を高速で滑らせる。
向かう先は自国の皇帝の推定落下地点。
空から皇帝が落ちてきた。
比喩でなければ妄想でも白昼夢でもない。
本当に皇帝が空から落ちてきていた。
色とりどりの花びらをともない、湖水のように澄んだ朝の空から落下している。その姿は夢のように美しく、現実感がまるでない。
ビリーが皇帝の姿を直接目にしたのは、騎士の叙任式の時の一度だけ。
だが、見間違えるはずがなかった。
背の半ばほどまで伸ばされた、夜をそのまま糸にしたかのような深い藍色の髪。
髪と同色の被毛に覆われ、鋭い爪の生えた手。
手と同様に被毛の生えた、顔のラインに沿って垂れる長い耳。
長く艶やかな飾り毛を持つ尻尾――それが、カダル帝国獣人皇帝、アズール陛下の御姿だ。
身に付けている金の頭飾りやきらびやかな装身具、刺繍や玉で彩られた絢爛な長衣などからも身分がわかる。どれも皇帝にしか許されていない意匠の物だ。
(いまさら見なかったこと――にはできない、か。今日は別の所にしておくんだった)
周囲にはビリーの他に人影はない。
巡視にかこつけて人気のない場所でサボろうとしていたのがあだになった。面倒を避けようとして、さらに何倍もの大きな面倒に遭遇するなんて今日はついていない。
風の車輪のおかげで、ビリーは余裕をもって推定落下地点に到着できた。
しかし皇帝よりも頭一つ分以上は小柄で細身のビリーでは受け止められそうにない。
このままでは落下する皇帝にぶつかって二人ともあの世行きだ。
(兄上、少しでも私を不憫に思うならどうか力を貸して……!)
自分とは違い優秀な風術使いであった兄に祈り、ビリーは両手を掲げた。
己の力量以上の魔術を使おうとすると、全身に鈍痛が走る。それでも構わず、ビリーは風を生んだ。
ビリーの手のひらに薄い緑色を帯びた風が渦巻き、広がりながら吹きあげる。
透明感のある緑のヴェールとなった風が皇帝の身体を包み、落下速度を緩やかにした。
少なくとも、先ほどよりは受け止めやすそうに見える。
出来る出来ない関係なしに、やらなければビリーに未来はない。このまま落下するのを見過ごした場合、皇帝を見殺しにした罪で処分されるだろう。
(私じゃこれが限界、みたい)
もしもここにいるのが自分ではなく兄だったら、とビリーは思わずにいられない。自覚のあるよくない癖だが、つい自分と双子の兄を比べてしまう。
(はぁ……骨折は覚悟しよう)
ビリーは意を決し、体勢を整えて皇帝が落ちてくるのを待ち構えた。
皇帝の身体を受け止めた瞬間、ビリーの腕と腰にすさまじい衝撃が走る。追って痺れるように足が痛んだ。
あまりに痛すぎて叫びが声にならない。代わりに骨と筋肉がいやな悲鳴を上げている。
たとえ相手が皇帝であろうと、落ちてくる人を受け止めようなどとは二度と思わなくなるくらいの負荷がビリーの全身にかかった。
(骨折どころじゃない、かも)
視界の彩度がゆっくりと落ちていき、ビリーは意識が遠のいていくのを感じた。花と一緒に落ちてきたせいか、皇帝から甘い香りがする。
ビリーはなけなしの力を振り絞り、皇帝の身体をできるだけ慎重に地面に横たえる。途中で手が滑り、頭を少しだけ石畳にぶつけてしまったのは見なかったことにした。
「……きれいな顔」
思わずビリーの口からそんな感想がこぼれていた。
初めて見る皇帝の顔は、意外なほどに若かった。二十歳前後、ビリーとそう変わらない年頃に見える。叙任式の時は、この国の主神である犬神を模した仮面を被っていた。
理想的な形をしたパーツが薄い褐色の肌の上に一分の隙もなく配されている。特に扇のように広がった長い睫毛と、意志の強さを窺わせる唇が印象的だった。目蓋が開いたところも見てみたい、と思わずにいられない。
不意に、ビリーは自分の中でぷつりと糸が切れるのを感じた。ぐらりと身体が前にかたむく。
――ああ、皇帝陛下の上に倒れこむなんておそれ多い。今日は本当に、ついてない。
意識を失う直前、そんなことがビリーの頭をよぎった。