表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

奥歯

作者: えんがわ

 夜中にベッドの中で、犬の甲高い鳴き声が聞こえ続ける。夜も深いのに近所迷惑だな、僕も迷惑だな、と思いつつ。こんな声を出させるのは、ウチの家の犬を散歩し続けている母だけだなと思う。耳を塞いでもなお聞こえそうなその機械質な高い音に、僕は酷くいらいらしながら、じっと耐える。歯の奥が妙にうずき、舌でべろべろと舐め続けていると、それがぽろりと落ちた。口内の歯茎からは大量の血が噴き出し、鉄っぽい膿っぽい味が一杯になり、共に大量の痛みが襲ってきた。喉に引っかからないようにと、慌てて口中から取り出すと、ところどころ黒ずんだ奥歯があった。見事に根元から丸ごと抜け落ちたものだと半ば感心しつつも、歯茎の奥の出血と痛みはとうとう耐えがたいものとなった。起きて、洗面所に行き、その冴えない髭だらけの顔を横目で覗き、何度もうがいをして、血を吐き出した。消毒できるものが欲しいと思ったが、無論ここにはない。

 すると後ろに母が来て。

「どうしたの?」

 と言う。

 事情を話すと、一瞬で理解して。

「そう、大変、居間に行きましょ。応急手当する」

 と言う。

 歯にハサミで切ったハンカチのようなものを何十にも被せ、数十分の止血の後、ようやく血は止まった。ただ、痛みは全く治まらない。歯の奥に、鈍く、時に鋭くうずき続ける。

 居間は驚くほど整然と整理されていて、机の上には何一つ無駄なものはなく、棚の上の熱帯魚の水槽も苔一つ付いていない。しかしながら、ただ一点、そこでの不調和を母も見逃さなかった。

「なに、これ。贈答用の本のように、きちんと帯も付けて保管してたのに」

 帯が外れている本があった。北村薫の「空飛ぶ馬」。古典ミステリの名著だ。その文庫版の第一版。表紙には中性的なショートカットの大学生の女の子の絵が描かれている。昨晩、僕が取り出して読んだのだった。

「ごめん」

「だめよ、許さない」

 母の声はヒステリックになった。

「ごめん」

「この棚の本は全部、大切な完全品なのよ」

 棚にはずらりと帯までもかかった、新品同様の本が並んでいる。誰にも読まれていない美品なのはわかっていた。母本人にすら読まれていないのだと。

「僕に贈ったものだと思ってくれよ」

「だめ、これは全部わたしのものなの」

 母の声はいよいよ甲高くなった。

「だって、誰も贈る人などいないじゃないか。母さんには。こうやって、何もかも誰にも与えず、分かち合わず、ただ、持っているだけで、なんなのさ」

 母は当然のように答える。

「これはわたしが所有しているの。わたしの所有物なの。絶対に誰にも渡さない。死ぬまで。いえ、死んだ後まで」


 ベッドから目覚めた。歯が抜けて、朝一番に歯医者に行くことにして、軽く睡眠をとろうとしたのだ。歯が痛く、痛く、痛く、とても眠れない。と思っていたが、思っていたよりも、うとうとすることが出来た。銀色に縁どられた目覚まし時計の緑色の時計盤を見ると、時間は午後1時。歯医者に間に合うかと心配になるが、身体が思ったように動かない。一気に老人になったかのように身体が重い。布団が身体に引っ付いて離れない。布団ごとベッドからずり落ちて、スキー靴を脱ぐように毛布からはい出る。

 窓の外の景色は、はきはきした新緑。庭先に植えたゴーヤの苗が鮮やかだ。眩しい程の初夏の日光が差し込み、朝を告げている。空はテレビで見たイタリアの青の洞窟のように青い。心持ち暑いが、それ以上に窓から抜ける風が爽やかで心地いい。

 パジャマから着替えようと思っていたが、元から普段着のまま寝ていたことに気付いた。のろのろと誰もいない居間から、マスクをつけて光溢れる外へと歩む。アリが芝生の上でこちょこちょ進軍している。錆びた銀色の自転車に腰かけて、目的地へと向かう。道先で数人の5、6歳の子供たちが楽しそうに追いかけっこをしていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ