2.寒い朝だから
まだ午前中の寒い空気の中を、そんなに速くもないスピードで黄色いベスパ プリマベーラが走る。
運転手の女性は排気ガスみたいな白い息を後方に流しながら徐々にスピードを緩め、最終的にはある小料理屋の前で停車させた。
別段何か食事に来たとかではない。むしろそれならどれだけ気楽だったか。他にもパトカーが数台停まっているが、誰一人まともな来客ではないのだから。
「お疲れ様です」
「あいお疲れー」
いかにも交番勤務、といった感じの青い制服を着た青年の敬礼に軽く答礼する彼女は、どう見ても警察に見える格好をしていない。
それはたとえ「捜査一課で制服を来ていないからだよ」という点を差し引いたとしても。
彼女、千中高千穂警部補は店の引き戸を開いてご入店なされた。
「う〜寒い。よくもまぁこんな寒い日に人なんか殺そうと思うよねぇ、まったく」
高千穂が腕をさすりながら店内に入ると、暖房の効いた室内の空気とともに相変わらずメモ取りに忙しい小男がこちらを見た。いくら情報が大事な職業だからといって、何をそんなにメモすることがあるのか。
「千中さん! お待ちしてました!」
「はい松実ちゃん、おはよ」
高千穂は現場の検分もせずにテーブル席の椅子で縮こまる。
「あぁ〜寒い寒い。やっぱり冷暖房は人類最高の発明だねぇ。次点でベスパ」
「そこは車でしょ。あと寒いならサンダルやめたらどうですか?」
「洗濯物が増えるじゃない」
「ケチくさいなぁ」
「あいつ小さいくせに冬場は意外と乾きにくいんだよ?」
靴下でゴネる高千穂に対し、松実はテーブルをバンバン叩いて立つように促す。
「それよりちゃっちゃと捜査を始めてください。被害者は厨房です」
「厨房は暖房効いてるの?」
「もー! いいから!」
松実が高千穂の背中を物理的な意味で押しながら厨房に入ると、そこにはコンロと鍋の前で絶命した女性が。
高千穂はその女性に対し片手だけ、それをちょこちょこ動かしながら合掌すると、
「昭和みたいな古いキッチンだねぇ。あ、なんか鍋があるじゃないか。これ中身は入ってるの?」
「味噌汁だそうですけど」
「いいね。いただこう」
高千穂は平気で遺体を跨ぐと鍋の蓋を開ける。
「うげぇ……。よくもまぁ殺人現場にあった味噌汁飲もうと思いますね」
「こうでもしないと捜査の前に凍えちゃうよ」
「暖房は入ってますよ」
「うふふ、火ぃつけ……、んー? つかない」
「あーもう勝手に……。それより報告してよろしいですか?」
松実は何を言っても無駄だと悟り、最低限自分の職務だけ全うする姿勢に入った。
「んー、あ、ガスの元栓閉まってるのか……。ああ、どうぞ」
聞く気がなさそうな背中にも確実に届くように、松実も遺体を跨いで高千穂の耳元近くでメモを読み上げる。罰当たりな連中である。
「被害者は巴いろはさんと梶谷弥子さん」
「もう一人いるの」
松実は親指を立てて店になっているスペースを指す。
「はい。梶谷さんの方は意識こそなかったものの息があったので、病院に搬送され一命を取り留めました。ちょうどカウンター席の辺りで倒れていたそうです」
「そう。続けて」
「巴さんはこのお店の店主で梶谷さんはその親友。通報は契約している大根農家さんから。九時半頃に野菜を届けに来たら二人とも倒れていた、と。巴さんは後頭部を、梶谷さんは前額部をやられています。お金や物が盗られた形跡はないので強盗ではなさそうです」
松実の報告が終わったタイミングで、ちょうどよくつなぎ姿のおじさんが警官に厨房へ連れられてくる。
「千中さん、こちらがその農家、根元大輔さんです」
「どうも根元さん。本日はとんだことで」
「いえ……」
人生経験の長そうな、その対価として髪の毛を支払ってきたようなおじさんだが、さすがに今回のことには動揺を隠せない事態だったようだ。
高千穂はそれを気遣っているつもりなのか、ニヤニヤ顔で相手の顔を覗き込む。
「こんな時になんですが、一つ伺ってもよろしいですか?」
「はい……」
松実がさっとメモを構える。
「野菜を届けるのはいつも同じ時間に? 毎日?」
「いえ、大根がなくなりそうになると連絡をもらって届けに来ます。時間は、午前中には届けるようにしてますがまちまちです」
「なるほどぉ、ありがとうございます。また何かお尋ねすることはあるかもしれませんが、一旦お帰りいただいて大丈夫です」
「はい」
農家を見送ると、高千穂はお碗を持ってきて味噌汁を装い始めた。なんだかんだ言っていた松実もお碗を持ってくる。
もう遺体は運ばれていったので跨ぐ必要はない。
「どうして時間なんか聞いたんですか?」
高千穂は松実が味噌汁を入れてほしそうに差し出してきたお碗を無視する。
「何も盗られてないんでしょ? だったら物盗りじゃなくて特別二人を襲う理由がある人物が犯人だよね。ということはこのお店に詳しい可能性があって、犯行時間も農家さんが来ない時間を見越してるとか逆にタイミングよく発見してもらうとか、なんらかの意図があるかもしれない。だから時間は聞いといて損はない」
「はえ〜」
「それはさておき、続けて?」
松実はメモをシンクに置いて横目で見ながらお碗に味噌汁を装う。
「はい。梶谷さんは前額部をやられていたので、おそらく犯人が入ってきた音に振り向いたところを一撃。巴さんは後頭部をやられていたのと、そこ、お玉と落として割れたと思われる小皿があります」
「あらホント」
「以上の点から、味噌汁の味見中に後ろからこう、ガッと。遺体も割烹着に三角巾だったので」
「なるほどね」
「こっちへ来てください」
松実は高千穂を厨房から店のスペースへ連れ出す。テーブル席の上にブルーシートが敷かれ、そこには細長いケースと一本の
「そしてこちら、現場に落ちていた凶器の金属バットです。被害者二人の血液が付着していました」
「現場に落ちていた?」
高千穂は別のテーブルに味噌汁を置いて、軽く腕組みする。
「はい」
「おかしいねぇ……。どうして犯人は現場に凶器を置いてったんだろう」
「大きいですし、ナイフみたいに懐や鞄に隠せるものでもありませんし、持って帰るよりも捨てて帰る方が都合よかったのでは」
「んー、でもケースがあるじゃん? それに入れて持ち帰ればいいものを、犯人はそれをしなかった」
「つまりどういうことですか?」
高千穂は腕を組んだまま、鼻から大きく息を抜く。
「今は分からないけど、もっと別の持ち帰れない事情があったんだろうねぇ」
高千穂の様子を見て、松実もメモ帳を閉じてしまう。
「行き詰まったのなら、一度梶谷さんに話を聞きに行ってみますか?」
「そうしよう、と味噌汁味噌汁」
高千穂は味噌汁をとって口を付ける。
「僕も」
「人にはいろいろ言ったくせに」
「いただきます……冷たっ!」
松実は思わずお椀から口を離した。
「寒いから味噌汁って言ったくせに、温めてないんですか!?」
「うふふ」
対する高千穂は変な笑いを浮かべながら冷たい味噌汁を飲む。
「あれ、なんか煮干入ってる」
なんだかんだ言いつつ、松実もしっかり完食した。