1.嫌いじゃないが
──時には即席の方がいいこともある──
息が白い夜の都内、ある会社の社宅のエントランス。一人の男が仕事を終えて帰ってくる。
くたびれた様子ではあるが、それでも損なわれない若さと精悍さが見える顔立ちは中世的で美形、髪型も短髪で清潔感がある。そのうえ長身で肩幅も適度に広く、すらっと鍛えられた体はスーツがよく似合う。いわゆるモテ男の条件を完璧に兼ね備えた外見である。
彼は『409 水久保』と表札が入ったポストから中身を抜き出すと、古くてまともに動いてなさそうな監視カメラへ軽く敬礼してから奥へと進んでいった。
今度は四階の一画。『水久保』の表札が玄関に備え付けてある。その部屋の主である彼は鍵穴に鍵を差し込み、待つ者が誰もいない真っ暗な独身寮の狭い部屋に吸い込まれていく。
リビングに着いて取り敢えず部屋の電気をつけた水久保は、チラシやらなんやらをテーブルの上に投げ捨てソファに体を沈める。
「疲れた」
一応社宅が会社の敷地内にあって通勤が楽だからいいが、そうでなければ堪ったものじゃないな。
水久保は仕事内容より福利厚生や労働条件を軸に就職した自分を褒めてやりたくなる。
そんなジャケットを脱ぎネクタイを緩める彼の目線の先には、灰皿と大量の吸い殻。
「メシどうするかな……。めんどくさい、冷食のなんかでいいか」
その前に一服、と水久保がシャツの胸ポケットに手を伸ばすと、お目当てのタバコと胸板の間でスマホがヴー! と唸る。
「なんだ、誰からだ。課長であってくれるなよ」
彼は先にタバコを取り出し火をつけてから、ようやく通知を確認した。そこに表示された名前は
『榛名』
「!」
榛名。金ヶ崎榛名。水久保が就職で故郷に残してきた彼女の名前が表示されている。
彼がアプリを開いてメッセージを開くと、そこにあったメッセージは
『ご無沙汰しております。お元気ですか? こちらは元気です』
「そうかそうか」
『あなたが東京に行って何年経ったでしょう。日向さん適当なところはとことん適当なので、不健康な生活をしていないか心配しています』
「ははは……」
『心配すぎるので今度そちらに伺うことにしました』
「は!?」
ここまで軽い気持ちでメッセージを見ていた水久保だが、衝撃の展開で手に力が入る。そのせいでタバコのフィルターがミシッと歪んだ。
『と言ってもそんなにすぐではありませんが』
「待て待て待て」
水久保は慌てて灰皿でタバコを揉み消す。吸い殻いっぱいのところに突っ込むものだから、振動で山が崩れてポトポト落ちていく。
『楽しみに待っていてください』
「まったく……」
この灰皿すら片付けられない、食事もカップ麺と冷凍食品のメーカーに生かされているような現状を見られたら堪らない。
こりゃ近いうちに片付けをしとかないとな。
水久保は暢気に苦笑していたが、ふと一連のメッセージのあとに一言別枠が添えられていることに気付いた。
『追伸 もし浮気でもしていようものなら』
「!」
その一文を見た瞬間、水久保は返事を打つのも忘れスマホをロックしソファーに投げ出した。自身もそのまま背もたれに沈み込み、タバコに火をつける。
「ふー……」
彼は天井に向かって煙を吐くと、食事も忘れて頭を抱えるのだった。
一時間後。水久保は薬局にいた。悩みすぎて頭痛薬が欲しくなったとかではない。彼のお目当ては
「……重ねるなら三つが限度か。バランス的に」
冷却ジェル枕。三つ買い物籠に放り込むと、水久保は薬局を後にした。
自宅に戻ってきた水久保。彼はさっそく冷却ジェル枕を三つともパッケージから取り出すと冷凍庫を開けた。
「スペースは、あるかな……」
チャーハンやら牛丼やらで満載な冷凍庫と少しの間格闘した水久保だが、結局諦めていくつかの冷凍食品は冷蔵庫へ移すこととなった。
そうしてスペースを確保すると、水久保は冷却ジェル枕三つを全て冷凍庫に入れ、また部屋を出ていく。
水久保、今度は社宅の別の階に来ていた。彼が足を止めたのは
『202 犬養』
と表札が出された一室の前。水久保はそのドアを五回ノックした。
これで『ア・イ・シ・テ・ル』などと、古いことをやらせるやつだよ。嫌いじゃなかったが。
水久保はため息をついた。
ややあってドアが開く。チェーンが掛けられた僅かな隙間から顔を覗かせたのは、
「やぁ明音」
「日向くん! 急になぁに?」
ほんの少し舌足らずな話し方をする女性。長い黒髪と女性には高めの身長が流線型の美しいシルエットを構成している。
「なに、ちょっとしたご機嫌伺いと言うか、会いたくなることもあるんだよ」
「きゃっ」
明音は赤面して両頬に手を当てる。話し方どおり少女のような内面をしていると言うか単純と言うか、いや、簡単な女である。
それも嫌いじゃなかったが。
明音がチェーンを外して水久保を中へ招き入れる。彼は土間で靴を脱ぎながら、すでに知っていることを確認する。確実性のために。
「確か明音は明日も休みだったよな」
「そうだよー、三連休の最終日。それがどうかした?」
「いや、それなら明日の昼休みも顔を見に来ようかと思ってな」
「本当!? 嬉しいよぉ!」
子供か付き合いたてかのようにはしゃぐ明音を見ながら、水久保はほくそ笑む。
これで明日の昼間は確実に家にいるだろう、と。
そんな水久保の様子にも気付かず、明音は彼をファンシーなぬいぐるみでいっぱいのリビングに座らせると、キッチンの方へ歩いていく。
「今お茶かコーヒー淹れるね? それともビールとかにする? あ、灰皿も」
「いや、そんなに長居はしないさ」
水久保は明音を手で制すると、彼女を手招きで呼び寄せた。
「なぁに?」
自分の隣にちょこんと座る明音の髪を、水久保は手で優しく弄ぶ。
「最近具合はどうだ」
明音は右手で水久保の手を自分の頬へ動かしながら、左手の人差し指と中指を立てる。
「ちょーしぶいぶい! だよ!」
「なんだそれは」
「ぶいぶい!」
子供というか、人を選ぶタイプのアイドルみたいな言動の明音。
これはそんなに好きでもなかったか。
水久保は絡みついてくる明音を少しだけ離れさせると、その顔をじっと見据えた。
「睡眠薬、ちょっと見せてみろ」
睡眠薬。
実はほんの少し前まで、このホワホワお嬢さんは今のようではなかった。と言っても尖っていたとか性格が違っていたとかではなく、むしろ往来の緩さゆえに社会の荒波の中でメンタルが底を見ていたのだ。
そんな彼女が手放せなかったのが睡眠薬である。
……正直水久保も、そんな明音の状態に付け込んだ側面がないとは言えない。
「いいけどなんで?」
「飲み過ぎてないか確認するんだ」
水久保の言葉を聞いて、明音は急に鼻息をふんすと鳴らした。彼女は小躍りするような足取りで箪笥へ向かうと、中から薬を取り出し戻ってくる。
「んっふっふ〜。じゃ〜ん!」
明音が水久保に差し出したのは、一錠も飲まれていない睡眠薬だった。
「新品か」
「そう、この前処方された分。だけどね、一っ粒も飲んでないの!」
「そうか、もうちゃんと寝られるんだな」
水久保が優しく微笑んでやると、明音は彼にしなだれ掛かる。
「そうだよ。日向くんのおかげ」
「俺の?」
明音は彼の身元で、精一杯熱っぽく甘えるような声を出す。
「そうだよ。日向くんがいつも側に居てくれるから。だから日向くんのおかげ」
「俺は大したことはしていないよ」
「じゃあ日向くんはすごい人だよ。大したことしてない労力で私を救ってくれるんだもん」
「そんな大人物でもないよ」
「そんなことないよ。大好き……」
「……ほー、そうかね」
明音の熱い息が水久保の首に掛かる。彼女は言葉以外の全てを使って今自分が求めていることを伝えようとしている。少し雰囲気がよくなると、すぐに体が熱くなるタイプなのだ。
そういうところは好きだったよ。
しかし水久保はその場で応じなかった。明音に求めているお情けがあるように、彼にも彼の目的がある。
「明音、俺は長居することになりそうだな」
「うん。帰らなくていいよ」
水久保は胸板を滑る明音の指をそっと離させる。
「ならコーヒーでもいただこうかな。遅くまで起きていられるような、とびっきり濃いやつを」
「ん、分かった」
熱に満ちた顔の明音はお預け状態だが、逆に確約するような言葉をもらったので素直にキッチンへ向かった。
その隙に水久保は睡眠薬を一錠取り出しポケットに忍ばせる。
彼はキッチンの方を見た。明音はこっちを見ていないし、何も知らない様子で暢気に鼻歌を垂れ流している。
そういう無知で無防備なところ、本当に好きだったよ。
だけどもう、片付けをしないとな。
翌日の正午過ぎ。水久保は勤め先である大手広告代理店『通信新報』本社オフィスの会議室にいる。タイミングはちょうど同僚のプレゼンが終わったところ。
「以上となります」
プレゼンは聞く側も神経を使う。発表した本人以外も皆、伸びをしたり握りしめていたペンを転がしたりと思い思いのスタイルで緊張を切り離している。
「ふぅ」
「お、もうお昼か」
腕時計を見た誰かの呟きに全員がピクリと反応する。
「よし、昼休みだ」
「あーい」
「やったぜ」
「腹減ったぁ」
しっかり頭を使ってお腹が空くのはいいこと。みんな体育会系かのように昼食へと急ぐ。水久保もその流れに乗って席を立ったところで、隣の席だった同僚の女性が声を掛けてくる。
「水久保くん!」
「ん?」
「水久保くんはお昼、何食べるの?」
「とりあえず外に出るかな」
「あ、じゃあさ、よかったら一緒に……」
「あぁ、今日はガッツリ行きたい気分なんだ。女性には厳しいんじゃないかな。また今度」
「あ、うん」
同僚は明らかにしゅんとしてしまったが、そんな乙女心まで水久保は構ってやれない。
俺は今からガッツリどころか食欲の失せるようなことをするんだぞ。他人なんか連れて行けるか。まぁ体重を気にしてルッコラばかり食ってそうな君には、それもいいかもしれないが。
それはさておき時間が惜しい。水久保はオフィスを出て社宅に向かった。敷地内で近いから本当に助かる。
いったん自室に戻った水久保は冷凍庫を開けた。そこに入っている冷却ジェル枕を取り出すと、
「うむ、よく凍っているな」
拳で軽くノックして硬さを確かめ、プライベートで使っているリュックに詰め込んだ。
ここは『通信新報』社宅の202号室。なんとなくテレビを見ていた明音はお昼のワイドショーが始まったことで現在の時間を把握した。
「あ、そろそろ日向くんが来るね。準備しなきゃ」
ぬいぐるみを抱いて座っていた明音は台所に向かいコーヒーを淹れ、空のツナ缶に水を張った。
すると、ほどなくしてノックの音が。
「はーい」
明音が玄関に飛んでいきドアを開けると、そこには約束どおり水久保が立っていた。
「やぁ」
「来てくれたんだ〜! 上がって上がって」
「お邪魔するよ」
明音はすれ違いざまに、水久保がリュックを背負っているのが視界に入った。
「その鞄は?」
「ちょっとした荷物だよ」
「そっかー」
水久保が当然かのように答えると明音もそれ以上追及しない。
そういう聞き分けがいいところも好きだったよ。
目の前の女性がどういう存在であったかを噛み締める水久保であった。捨てる前のアルバムは一度見返しておくべきなのだから。
「もうちょっとでコーヒー入るからね」
「ありがとう」
水久保はキッチンへ向かう明音の後ろ姿をじっくり眺めた。
「コーヒー入ったよー」
ややあって明音はマグカップを二つ持ってきた。
「ありがとう」
「はい、どーぞー。日向くんはブラック、私はお砂糖とミルクー」
明音は砂糖をコーヒーへ一匙、二匙、三匙。
「入れすぎだ」
「えへへ〜。いただきまーす」
明音は水久保に注意されるのすら嬉しいかのようにマグカップを口へ運ぶ。水久保もまずはコーヒーをいただくことにした。インスタントの大したことはない豆だが、それなりの安定した味がある。
「うまいな」
「うん! あ、そうだ! お昼ご飯食べる?」
返事を聞く前に明音はもう立ち上がってキッチンの方を向いている。
確かに水久保も昼食はまだでお腹も空いているが、無駄に二人分の食事の形跡を残したくもない。さすがにここは固辞しておくことにする。明音自体料理が上手でもないし。
「いや、もう食ってきた」
「そっかー、残念。仕込んでたフレンチトーストがそろそろ漬かるのに」
フレンチトースト、いかにも甘い物好きの明音がやりそうなことである。水久保は思わず笑みが溢れた。
こういう手合いはいい。こうして笑っていれば、表情から真意を読み取られずに済む。
「また今度いただこう」
「うん!」
明音が無邪気に喜んだところで水久保もそろそろ動くことにする。
「今日のところはコーヒーのお代わりを」
水久保はマグカップを明音に突き出した。彼女もさすがに少し驚いた顔をする。
「もう飲んだの!? 入れてくるねー」
「ありがとう」
意味がなきゃこんなに速く飲み干すもんか、とは言わない。そんなことより作ったチャンス、水久保は明音がキッチンへ消えたのを確認して、
素早くポケットから小袋を取り出した。中身は昨日せしめた明音の睡眠薬を細かく砕いたもの。粉薬ほど細かくはないそれを、彼は明音のコーヒーに入れた。
「お待たせ〜」
「ありがとう」
明音が甲斐甲斐しくコーヒーを持って戻ってきた。水久保がさっそく一口飲むと、明音もそれに合わせて一口。
「あれ? お砂糖溶けきってなかったみたい」
明音はどうやら少しの粉っぽさを感じたようだが、水久保としては軽く流す以外の選択肢はない。
「ほー、そうかね」
「入れすぎたよ」
「言ったろう」
明音も気にしていないようだ。彼女がそのままコーヒーを飲むのを見て、水久保はマグカップの内側でほくそ笑む。
水久保の腹のうちも知らずにコーヒーを三分の二ほど飲み干した頃、明音はいったん寝室に引っ込んだ。そして後ろ手に何か隠して戻ってくる。
「実はぁ、日向くんにプレゼントがあるの!」
「プレゼント?」
明音は隠していたものを勢いよく前に突き出す。
「じゃ〜ん! 『FLCL』のブルーレイ! 欲しかったでしょ!?」
「おお! そうそう、これが見たかったんだ」
水久保が新品のブルーレイを受け取ると、明音はもっと褒めて欲しそうに擦り寄ってくる。
「えへへ〜、喜ぶと思って、予約、しとい……」
そしてそのまま、水久保にもたれ掛かって眠りについた。
そこからの水久保の動きが手早い。
クローゼットを開けて掃除機を取り出すと、電源コードを伸ばして寝室のドアノブを通し輪を作る。次に鞄から冷却ジェル枕を取り出し重ねて置いた。その上に
「崩れないようにやるのは難しいな……」
神経を使ってそーっとそーっと、明音を輪に首を通させて座らせた。仕上げに暖房を強めに作動させると、
「……惜しい女ではあったよ」
自分が口を付けたマグカップと玄関の鍵を回収して部屋をあとにした。
『通信新報』の会議室。時刻は十三時過ぎ。水久保はやや早歩きで会議室に戻ってきた。
「おぉー、おかえり。珍しく遅刻だな」
「すいません。ちょっと昼飯が混んでて遅くなりました」
「あぁ、あるある」
いい仕事さえできれば細かいところはルーズなのがこの会社のいいところ。特に細かく追及も説教もされないので、水久保は悠々と席に着いた。
と、昼食に誘ってきた同僚がこそっと話し掛けてくる。
「水久保くん、どうしたの? そんな顔して」
「ん、あぁ。いや、昼飯が実にうまかったのさ」
水久保は意識して口角を下げた。
そして夜の十九時十七分。残業会議も終わって解散である。
「あぁー、お疲れ様ぁ」
「腹減った、眠い、風呂入りたい」
「じゃあまた明日」
「誰か飲みに行かない?」
皆口々に解放を謳歌する中、隣の席の同僚がまたアタックしてくる。
「水久保くん、ご飯でも行かない? その、二人で」
この女性も美人だとは思うは、残念ながらお誘いに乗るわけには行かない。
「いや、悪いが俺は友人のところに行く予定があって」
「そ、そう」
水久保はさっさとタイムカードを切って、まっすぐ社宅へと向かった。ここで別の女と遊んではなんのために計画を練ったか分からないし、何よりまだ一仕事残っている。
社宅の202号室。水久保は昼間取っておいた鍵で玄関を開けて室内に入った。そして明音の様子を確認すると、
「……」
どうやら首吊り死体は色々垂れ流す、というのは本当らしい。とんでもないことになっている。
正直近寄りたくすらないが、証拠を残すわけには行かないので水久保はゴム手袋をはめて苦心の末、溶けて柔らかくなった冷却ジェル枕を回収する。取り敢えず風呂場で軽く流して見た目には綺麗にしてから、さっさと処分してしまおう。
一とおり作業を終えた水久保はいったん部屋の鍵を閉めて出ると、社宅の管理人に電話をした。
『もしもし』
「もしもし、『通信新報』社宅の管理人さんでしょうか」
『はい』
「私409号室に居住しているものです。202号室の友人を訪れたんですが、さっきからまったく反応がないので、ちょっと来てくださいませんか?」
『……それは心配ですね。すぐ行きます』
「よろしくお願いします」
電話を切った水久保は一息つくと、上がっている口角を手で下げる。
しかし手を離すとまた、口角が徐々に上がってしまう。今度はそれに気付かず口角を上げたまま、水久保は一人達成感に浸った。
これで片付け完了だ。今日は忙しくなって晩飯を食う暇もあるまいが、明日はせっかくだから冷食なんかやめて外へ食いに行こう。そうだな、ショックを受けたってことにして休みももらってゆっくりしよう。
と。
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