2.殺意のプレイボール
翌日の夜。ここは『帝都スタジアム』。この球場では今まさに、来たるWBCの日本代表チームの壮行試合が行われようとしている。
グラウンドではプレイボールを前に選手たちが軽く体を動かしている最中である。
ここはその一塁側内野席。ひょろ長とちんちくりん、二人の女性が座っているところに一人の男がやってくる。
「買ってきましたよ、球場メシ!」
「お疲れ松実ちゃん」
「ヘルメット脱いだらいいのに」
「これがあるからファウルが飛んで来ても安心なんだよ?」
「はいはい」
お馴染みトンチキ二人組ともう一人。松実はヘルメットのことより腕で抱えた料理を落とさない方に必死である。
「ちょっ、ちょっと決壊しそうなんでご自分で取ってください……!」
なぜか苦しそうな声を出す松実。中腰で料理を差し向けてくる。対する高千穂はすぐに料理を取らない。
「どれがどれ」
「それは鹿賀先生の海鮮丼です、あっ、そんな下の方から無理に引き抜かないでっ!」
「私のタコスとポテトはどこなんだよ」
「まずは先に海鮮丼からっ、上から順番にっ、いきなり中をゴソゴソしないでっ!」
「ここか? ここなのかー?」
「んあああ!!」
「お前ら表出ろ」
「すいませんでした」
「許してください」
唸るような声の咲良を宥めようと松実が思わず手を向け、バランスが崩れて落ちた海鮮丼を高千穂がキャッチする。
無事食事を全員に行き渡らせながら、松実は自分の席に腰を下ろす。
「まったく……、何が悲しくて千中さんと鹿賀先生と野球観戦なんかしなきゃいけないんだ」
「美人二人で嬉しいでしょ?」
「それは僕の胃の健康と釣り合うんですか?」
「ファウルボール当たったら司法解剖したげる」
「そのアフターサービスはセールスポイントなんですか?」
この三人の取り合わせ、別に松実も好き好んで年上の女性二人を誘うほどプレイボーイではないし、高千穂や咲良だって松実を誘うほど気に入ってはいない。
ただ、同僚たちから「行けなくなったしあげる」と言われた三人分のチケット、急すぎて松実も他に誘う相手のアテがなかったのである。そのせいでこんな松実専用圧迫面接みたいな取り合わせになってしまったのだ。
こんなことなら僕も、誰かにチケットたらい回しにすればよかったよ……、松実、後悔先に立たず。
「東京の球場で海鮮丼なんか食べれるんだね」
「明らかに東京湾で獲れたんじゃないカニとか入ってら」
ちなみに野球にまったく興味がないらしい咲良は何しに来たのやら。カニ食いに来たのやら。
ここは三塁側ベンチ。帝都スタジアムは東京ヘラクレスの本拠地ということで、日本代表チームはビジター側に入っている。
「いいか! 今日の相手は日本の球団だが、本番で相手をするのは外国の代表チームだ! 一次ラウンドでもドミニカやオランダ、つまり体格もパワーも規格外の相手と当たることになる! そのうえ海外勢は超積極野球! 長い腕でガンガン振るし速い球でバンバン押してくる! だからこそ俺たちは緻密な日本『野球』で奴らの『ベースボール』に立ち向かうぞ!」
ヘッドコーチの嶋が檄を飛ばす。実はこれ、今まで何回もした話だし、今日もすでにミーティングルームで一回聞いている。伊野がニヤリとしながら荒木に耳打ちする。
「これもう散々聞いたよな」
「あぁ。でもファンから見えるベンチで盛り上がることで、士気の高さを感じてもらおうって狙いらしい」
「へぇー。嶋さん野球よりプランナーとかの方が向いてんじゃねぇの?
「そこっ! 聞いてんのか!」
「ひえっ」
嶋に怒られてまじめにする二人だが、どうやら訓示はもう終わったらしい。嶋は解散を言い渡し各選手を調整に戻させると、荒木の方に来る。
「荒木、お前が今日の先発だ。お前の結果以上に内容が、次のピッチャーの流れを作る。相手は日本人だが、多少打たれてもいいから外国人を意識した投球をしろ」
「はい」
「外国人は腕が長いからアウトコースは平気で拾ってくる。安易に逃げずにインコースをきっちり攻めるんだ」
「はい」
嶋が去っていくと、隣で水筒に口を付けていた伊野がニヤリと笑う。
「嶋さんの言うとおり、『緻密な日本野球』をしろよ? コーフンしすぎて暴れんなよ?」
思わず舌打ちしそうになる荒木だったが、堪えて伊野の水筒を指差す。
「それ、昨日の、バタフライピーとかいうやつか?」
「そうだぜ。いるか?」
「いや、いい。お前も早く素振りとかしてこい」
「へいへい」
伊野は水筒を置くとグラウンドに出ていった。荒木は周囲を見回す。
まだ試合開始前でテレビカメラは動いている様子がない。観客も他の選手コーチ陣もグラウンドで練習している方に夢中である。
よし、今だ。
荒木は伊野の水筒を開けるとポケットからアンフェタミンの粉末を取り出し、中に素早く投入した。
次にレモン果汁を取り出しこれも多めに混入、水筒の横に容器を置いておく。
時刻は十八時。人気の若手女優が始球式を終えたところで、球審の右手が高々と掲げられる。
「プレイボール!」
それを合図に東京ヘラクレスの先発投手が左足を大きく上げて、
「う〝ん〝っ!」
鈍い呻きとともに白球を投げ下ろす。それがキャッチャーミットに吸い込まれるまで素人からすれば「あっ」と言う間もない。それに対して日本代表の一番バッターは……
「今日の試合の見どころはどこなの?」
野球に詳しくない咲良が素朴な疑問を口にする。ルールも楽しみ方も分からないので、せめて要点だけでも頭に入れておこうということだろう。
「松実ちゃん説明して差し上げなさい」
「えぇ、隣に座ってる千中さんが説明したらいいのでは?」
「どっちでもいいから早くして」
「は、はいぃ!」
条件反射で返事をした松実がお答えすることになった。
「まず今攻撃しているので打線で言いますと、上総、犬山、伊野の三、四、五番の破壊力ですかね。なんたってシーズンホームラン40本トリオですから! ちなみに六番の愛川も30本打ってます」
「その数字はすごいの?」
「すごいのなんの! そうそう簡単に及ぶ数字じゃありませんよ!?」
「へぇー」
咲良は自分から聞いておいて、あまり興味がなさそうである。そして、興味がなさそうなのに質問を重ねてくる。
「じゃあピッチャーは?」
「投手陣で言いますと、今日の先発の荒木は盛り上がりますよ?」
「そんなに強いの」
「強いというかすごいです。若い頃はゴリゴリの速球派だったんですけど、三十代になったあたりから球速が衰えるのを見越してコントロールを磨く方向にシフトしたんです」
「それで今は技巧派ってやつなの?」
「いえ、その転向は失敗して一時期成績を落としました。でもそこから吹っ切れて今は『フォアボールでノーアウト満塁になってもそこから三者連続三振取ればいい』ってスタイルに」
「でも年で球速落ちるんでしょ?」
「コントロールを度外視すれば球速は上がります」
意外に詳しい松実の解説が入っているうちに、一回の表は山場を迎えていた。
場面はツーアウト二、三塁。バッターボックスへ向かうのは……
『五番、ファースト、伊野』
さぁ歓声を浴びて巨漢の筋肉ダルマが右バッターボックスへ。
「松実くんが言ってたやつじゃん」
「ですです! いけーっ! ヘラクレスの主砲! チームから唯一選出された意地を見せろ!」
松実は軽く腰を浮かせて伊野に声援を送る。ちなみに彼は特別東京ヘラクレスファンでもない。
ファンの期待を一身に浴びて、伊野は自身が非常に高揚しているのを掌で感じた。
いつもよりバットの硬さを敏感に感じているし、何より手汗がすごい。
「へっ! 燃えてきたぜ!」
いつもあまり頭を使うタイプではないが、今日はいつもより一段とガッツがみなぎる感覚でピッチャーを見据えた伊野。
相手が動作を開始するのに合わせて自身も大きく構えのトップを作り、
「だっ!」
パァン! とまるでボールが破裂したんじゃないかと錯覚するような乾いた音と
「うわああああああ行ったああああああ!!」
「松実ちゃんうるさいな」
スタジアムを揺らす観客たちの歓声。それが上昇気流と言わんばかりに白球は高々舞い上がり、左中間スタンド上段へ吸い込まれて行った。
「へっへっへっ! 今日はすこぶる調子がいい! 俺の筋肉が唸りを上げるぜ!」
仲間の選手とハイタッチ、観客の声援にもきっちり応えた伊野は、ベンチに腰掛けて一息ついた。
「うっしっしっ」
彼は水分補給にバタフライピーを一口飲む。が、
「ん? なんかこれ……」
伊野の表情が歪む。彼はベンチに置いてある紙コップを持ってきて、水筒の中身をそこに注いだ。
出てきたのは紫色の液体。
「おいおい」
しかしそんな彼の視界にレモン果汁の容器が映った。
伊野は合点がいったような顔をする。
「あーあー、荒木のやつか。入れすぎだろ。味が無茶苦茶だ」
少し持て余すような顔をしていた伊野だが、
薬と思って飲むか……
「目にいい目にいい」
伊野が一人納得してもう一口飲むのを、荒木はグラウンドからキャッチボールの合間に横目で見ていた。
異変はそれからである。三回表。
「さっきのホームランの人の打席だね」
海鮮丼はとうに食べ終わった咲良がビール片手に呟く。ちなみに彼女と高千穂併せて七杯、飲みすぎである。
「伊野選手ですよ、鹿賀先生」
「私にはどうでもいい」
「ツーアウトながら二塁、ヒットが出れば点が取れるね」
「千中さん、それフラグ……」
「あ、引っ掛けた」
「あー……」
「内野フライですね」
伊野の打球はセカンドのグラブへ。すると、
「おいおい。ホームランの人、バット折ってるよ」
「わざわざ地面に叩きつけてまぁ」
「うわぁ、大激怒ですね」
「松実くん、彼はあぁいうタチの人なの?」
「いえ、確かにテンション高いと言うか、陽気な人ではありますけども……」
「ちっ!」
あまりの怒りように他の選手がドン引きする中、伊野はベンチに戻ってきた。
彼が腹いせのようにバタフライピーを一口飲むのを、荒木は横目でチラリと見ている。
四回表。一塁守備についた伊野だが、彼は異様な心地の中にあった。
なんだか気分が高揚しているのにどこか気持ち悪い。
それより、眩しい。眩しい。
帝都スタジアムの照明はこんなにキツかったろうか、彼がプレーとは関係ない汗をかいていると、
「しっ!」
「ゔぁい!」
荒木の直球を捉えた打球が正面へ飛んでくる。
「よし……、あ!?」
視界がぶれて球が二つにも三つにも見える。思わず固まった伊野は、
「うっ!」
「弾いた! ライト前!」
客席の松実が思わず腰を浮かせる。
「松実ちゃん立たないの」
「松実くん、彼は守備がヘタなの?」
「特別うまくはないですけど、今日はなんか精彩欠いてるなぁ」
五回表終了後。
「おいおいおい、大丈夫か? ちょっと疲れてんのか?」
ベンチでチームメイトの一人が伊野の肩を叩く。伊野は酷い息切れをしているようで、その肩が大きく上下に動いている。
「いや、むしろ身体は元気が有り余るくらいなんだけどよ……」
「空回りか?」
「うーん……」
「ストラィィィク!」
「チェンジだな。無理そうなら監督に言って退がるか?」
「なんのぉ」
伊野は水筒をガブリと飲むと、ファーストミット片手にグラウンドへ向かった。
そして五回裏。
荒木はマウンドから伊野の様子をチラリと見る。
そろそろ頃合いか。
「あっ、フォアボール」
「先頭打者出ちゃいましたね」
「松実くんの前評判どおりって感じ?」
客席の咲良はアクビ混じり。興味のないスポーツを見ながらビールを飲みすぎるとこうなる。
「まぁここからバシバシ三振を……」
瞬間、マウンドの荒木は軽く上半身を捻ったかと思うと、一気に踏み込んで一塁へ素早い牽制を投げた。
「おっと!」
顔の高さに来た送球を、伊野は辛うじてミットで受け止める。
驚いたのは客席の野球ファンたちである。
「牽制ーっ!?」
「どうしたの松実くん」
「いや、珍しいなって」
「珍しいんだ。あ、また牽制」
荒木のやつ、どうした?
伊野は正直驚いている。
国際試合に向けて新しいスタイルでも模索してんのか? 確かに嶋さんは『緻密な野球』っつってたが。
二つの牽制からバッターと勝負してカウントはツーボールワンストライク。
ランナーが足の遅い五十嵐だからだろう、キャッチャーが内野陣にゲッツーシフトを敷かせているのを、伊野は周囲の動きで感じ取った。つまり、
眩しい、視界が歪む……!
もう彼にはキャッチャーのサインが見えていないのだ。
なんでだ? なんでこんなことに? 熱でもあんのか? つうかゲッツー? 荒木の三振とるスタイルでそんなうまく……、いや、考えがまとまらねぇ。
とにかく! 目の前に集中しねぇと!
苦しい中でなんとか一つの結論に漕ぎ着けた伊野だが、
一歩遅かったようだ。
「……えっ?」
投球を挟んで三度目の牽制。
またも顔の高さへ来た送球が、眩しくて伊野には見えなかった。